説教「神さまのまなざし」

2021年7月18日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第9主日」  

                      

説教・「神さまのまなざし」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記21章14-21節

   ローマの信徒への手紙9章19-28節

   マタイによる福音書8章5-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ わが心」、

   (説教後)讃美歌21・404「あまつましみず」

 

 今朝は、礼拝の主題は「すべての人々の救い」ということが主題になっています。神様がお救いくださるのは、特定の民族ではなく、地球上に住むすべての人々が救いをいただき、共に喜びあい、平和のうちに歩むことであります。しかし、すべての人々に開かれた神様の御心に対しては、必ずしも神様の御心ではない、それぞれの道を歩むことになるのです

 横浜の寿町で炊き出しといい、ホームレスの人々に食べ物を提供すること、また川崎の桜本教会も同じような働きをしています。日本に宣教師がやってきて伝道をすることになったとき、日本はまだキリスト教禁止の高札が掲げられていたのです。公然と主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができなかったのであります。それで宣教師達は日本の必要な課題に取り組んだのでありました。教育、福祉、医療等に取り組みました。学校を造り、福祉活動を行い、医療を提供したのであります。日本の文化の基礎を造ったのが宣教師の働きでありました。基となっていることは、主イエス・キリストの十字架の救いであります。すべての人々を救うために働き人が立てられているのであります。

 主イエス・キリスト御自身、すべての人々に救いを与えましたが、中心はエルサレムを中心とするユダヤの人々でした。イエス様のご復活後、パウロが働き人となり、いわゆる地の果てまで福音をもたらしたのであります。パウロユダヤ人伝道というより外国人伝道を推進したのであります。しかし、外国人というより、もはやユダヤ人が中心ではなく、すべての人々への福音が聖書の示しになっているのであります。そのことは、既に旧約聖書において示されているのであります。

 今朝の旧約聖書創世記はハガルの物語であります。ハガルへの救済が記されているのであります。このことにつきましてはアブラハム物語を知る必要があります。聖書の民族の最初の人がアブラハムという人であります。ある時、神様はアブラハムに言います。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と述べたのであります。アブラハムはこの神様の言葉に従って故郷を後にしました。その時、75歳であったといいます。神様から祝福の導きをいただいて、故郷を後にしたアブラハムであり、「あなたを大いなる国民にする」との約束を与えられています。大いなる国民にするといわれながらも、アブラハムとサラには子どもが与えられませんでした。それで、妻のサラがあせるようになり、サラに仕える女性ハガルから子どもを産むことを考えたのであります。ハガルは身ごもり、イシュマエルという子供が与えられます。その後、妻サラに子供が与えられます。生まれた子どもがイサクでした。アブラハムが百歳、サラが90歳のときであったといわれます。気の遠くなるような話しですが、神様の御業として示されています。

 そこで今朝の聖書になります。アブラハムは妻サラがハガルとイシュマエルのことで、苦情を日夜言うようになり、心を痛めました。アブラハムは神様の約束を信じて、ハガルとイシュマエルを去らせることにしたのでありました。創世記21章14節、「アブラハムは次の朝早く起き、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。皮袋の水がなくなると、彼女は子供を一本の潅木の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声を上げて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った」のであります。荒れ野をさまよい歩き、食べるものも、飲む水も無くなったとき、もはや前のものが見えなくなりました。子どもが死に、自分も死ぬ、その時間を待っていたということです。しかし、神様はハガルがイシュマエルを産むとき、顧みを与えてくれました。今また、ハガルが進むべき道を見失ったとき、導きを与えられるのであります。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と言われたのであります。

 ハガルとイシュマエルは生きる道が開かれたのであります。聖書はアブラハムの一族であるイスラエル民族が選びの民として記されます。この民族を通して人間の生きる道を示されたのであります。しかし、この民族だけにとどまりません。イシュマエルの民族、古くはカインの民族、エサウの民族等、直接聖書の民ではない人々をも導いておられることを示しているのであります。すべての人々が神様のお心によって生きるためなのです。地球上の人間が神様の祝福によって生きるためなのであります。

 そこで新約聖書の示しになりますが、イエス様もすべての人々に御心を示されているのです。一人の百人隊長がイエス様のもとに来ます。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言うのです。だから治してくださいとは言ってないのですが、イエス様は「わたしが行っていやしてあげよう」と言われています。百人隊長の願いをすぐに汲み取ったイエス様なのです。ところで、百人隊長というのは、百人の兵隊を率いる隊長です。それはローマから遣わされた軍隊でもあるのです。聖書の国、ユダヤはローマの国に支配されている国でした。ローマは軍隊を派遣して不穏な動きがないようにしているのです。従って、聖書の人々に取りましては歓迎しない存在でもありました。ローマとの関わりは、何事も面白くないのであります。ここに登場する百人隊長も人々からは悪く思われている人です。しかし、百人隊長は人々の思いを知りつつも、しかも自分は百人隊長という上に立つものでありますが、身を低くしてイエス様に懇願するのです。最初から「いやしてください」とお願いしたかったのでしょうが、それを言うことができない状況でもあったということです。従って、イエス様が百人隊長の立場を汲み取り、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのであります。

 ところが、百人隊長はイエス様が自分の家に来られることを躊躇するのです。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言います。お言葉をください。そのお言葉に僕はいやされますというわけです。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と言うのです。それを聞いたイエス様は、つくづく感心されます。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われるのでした。その後に、「東や西から大勢の人が来て、天の国で宴会の席に着く」というのは外国の人々が天の国に招かれることを示しているのであります。すべての人々が福音に与り、祝福をいただくことを示しているのであります。救われる対象はすべての人々なのです。特定の人々ではありません。どのような状況に生きようとも、救いの手が差し伸べられているのであります。

 イエス様のまなざしで立ち直った人がいました。お弟子さんのペトロです。イエス様がこれからのご自分をお話ししました。十字架への道です。時の指導者たちの妬みにより、捕らえられて十字架によって殺されることになります。そのような苦難の道を示されたとき、そのイエス様に対して、「私はどこまでも従ってまいります」と告白したペトロでした。しかし、イエス様が捕えられ裁判を受けている時、ペトロは人々から「あんたもあのイエスの仲間だ」と言われたとき、それを打ち消したのでした。イエス様が言われていたように、そのとき鶏が鳴いたのでした。そのとき、そのイエス様は振り向いてペトロを見つめられたと記されています。そのイエス様のまなざしは、自分の弱い姿を示されたのでありますが、そのまなざしのゆえに、ペトロは立ち直り、力強い伝道者になりました。

 神様のまなざしはすべての人々に注がれているのです。そのまなざしを受け止めることが大切であります。病気の人、心を弱くしている人、挫折している人、イエス様のまなざしが注がれているのです。私達の生活の中で、生活が重くのしかかっていますが、この私にイエス様がまなざしを送ってくださっていることを示されなければならないのです。

<祈祷>

聖なる神様。十字架のお救いを感謝致します。この神様のまなざしである十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。イエス様の御名により、アーメン。

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