説教「救い主を迎える」

2019年12月22日、六浦谷間の集会
待降節第4主日」 クリスマス礼拝

 

説教、「救い主を迎える」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書7章10~14節、

   ヘブライ人への手紙1章1~4節
   ルカによる福音書2章1~7節
賛美、(説教前)讃美歌21・261「もろびとこぞりて

   (説教後)266「イエスは生まれた」

 


 クリスマスおめでとうございます。今年も皆さんと共にイエス様のお生まれになられたクリスマスをお祝いできますお恵みを感謝いたします。六浦谷間の集会として礼拝をささげるようになったのは2010年11月からでした。夫婦二人で礼拝をささげるようになったのです。2010年3月に大塚平安教会を退任し、その後は横浜本牧教会の暫定的な牧師になり、その年の10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師になりました。ですから、どこかの教会の礼拝に出席することでしたが、教会を退任しても説教というものを作成していましたので、そして夫婦で始めた礼拝であるにしても、牧師と信徒がいるのですから二人ではありましたが礼拝をささげるようになったのです。夫婦二人の礼拝であり、時には皆さんも出席されることがあり、神様のお導きであると示されています。
 大塚平安教会在任時代は、やはり礼拝には一人でも多く出席してほしいとの思いがありました。しかし、六浦谷間の集会を開くようになってから、大勢の皆さんと共に礼拝をささげる喜びはありますが、少数でありますが、この少数の場に神様のお導きがあり、お恵みがあることを示されるようになったのです。大塚平安教会を退任して以来、むしろ少数の集会を示されるようになりました。退任してから約6年くらいは横須賀上町教会の礼拝の御用をしていました。その教会は伝道師でありましたので、日本基督教団の規定により聖餐式、洗礼式ができません。それで月に一度でありますが、説教と共に聖餐式を執行していたのです。西尾弥生さんの洗礼式に臨むことができました。横須賀上町教会の礼拝は、10名前後の礼拝出席者であったのです。少数ではありますが、皆さんが共に礼拝をささげる喜びがありました。
2013年にはマレーシアのクアラルンプールにある日本語教会の牧師として3ヶ月赴きました。日本人の皆さんが、やはり日本語で礼拝をささげたいということで始められた集会です。日曜日に基督兄弟団の教会を借りて、午後4時からでしたが礼拝をささげています。出席者は約20名くらいでした。それもいろいろな人が入れ替わっているのです。マレーシアに半永久的に住んでおられる人もいますが、会社からマレーシアに派遣された人が、この集会を知り、喜びつつ出席されていました。しかし、数年すると他の土地へと派遣されていくのです。いわゆる営業マンの皆さんが結構出席していると言うことです。どのような場所でも、あるいは少人数でも共に礼拝をささげる喜びがあるのです。
娘の羊子がバルセロナにおりますので、何回か滞在しています。バルセロナ日本語で聖書を読む会との集会があり、月に一回ですが礼拝をささげていました。大体、いつもは6、7名の皆さんなのです。それでも日本語で聖書を読み、日本語で説教を聞く喜びがあるのです。同じスペインのマドリッドでも日本語で聖書を読む会がありました。それぞれの集会で御言葉をお話しさせていただいています。
 イエス様がお生まれになられたとき、最初に礼拝をささげたのは東の国の博士さんたちでありました。一応、三人となっていますが少人数でイエス様を礼拝したのです。さらに聖書によれば、羊飼いさんたちもイエス様がお生まれになられたとき、最初に礼拝をささげたのでした、やはり少人数で礼拝をささげたのです。少人数ながら大きなお恵みを与えられたのでした。
 少人数の集会のお話しをしているようですが、どのような場所においても、それぞれの場で神様を礼拝するとき、大きなお恵みが与えられることを示されているのです。どのような場所、少人数であっても「救い主を迎える」姿勢が導かれているのです。特にクリスマスを迎え、皆さんと共に救い主をお迎えしたいのです。

 「神は我々と共におられる」、すなわちインマヌエルと呼ばれる救い主がお産まれになったことをマタイによる福音書は証しています。それはマタイによる福音書1章23節であります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である」と記されています。この言葉は今朝の旧約聖書イザヤ書7章からの引用です。イザヤ書7章は「インマヌエル預言」と言われています。混乱の状況の中で、今こそ神様が共におられることを示しているのであります。
 紀元前738年の時代です。周辺の国々が戦いのさなかにあるような状況であります。その中で、聖書の人々、ユダの人々はどのように生きていくのか、選択をしなければならない状況でありました。今朝の聖書、イザヤ書7章10節、「主は更にアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神にしるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に』」。ここで、イザヤはユダの王様アハズに決断を求めているのであります。戦いを始めるにあたり、王として神様に勝利のしるしを求めなければならないのですが、そのしるしを何処に求めるか、決断を迫っているのです。「深く陰府の方に」というのは大国アッシリアの援助を求めることであり、人間の力により頼むということであります。あるいは「高く天の方に」というのは神様の約束を信じて、人の力ではなく、神様の導きに委ねて自力で防衛することなのであります。それに対して、王様のアハズは、アッシリアに援助を求めるとも、神様の導きのもとに自力で防衛する決意も示さないのでした。そのような曖昧な態度でありながら、結果においてはアッシリアに助けを求めることになるのです。そのことで周辺の国々に対しては裏切りの行為となり、それがいかに屈辱であるかを示しているのです。「あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」とイザヤははっきりしない王様の姿勢をたしなめているのです。そこで、神様ははっきりとしるしを与えておられることを宣告するのでありました。それがインマヌエル預言です。
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」。イザヤ書にはインマヌエルの意味が記されていませんが、マタイがその意味を示しています。「神様が共におられる」という意味であります。神様があなた方と共におられて、この混乱の世の中を、あなたがたの現実を導いておられます、とのメッセージは紀元前700年代に示されたのでした。その後、聖書の人々は大国アッシリアに支配されるようになり、後にバビロンの捕囚、捕われ人になります。その後、解放されるものの、荒廃した都の中で苦しい生活を強いられるのですが、根底にあるのは「神様が共におられる」との信仰でありました。困難な状況に生きるとき、共におられる神様の導きを信じたのでした。
 「神様が共におられる」信仰は聖書の最初の人、アブラハムからすでに始まっていました。まだ見ぬ国に旅立ったときにも、共におられる神様を信じて一歩を踏み出して行ったのです。その子どもイサク、その子どもヤコブ、そして12人の子ども達において、共におられる神様の導きをいただきながら、イスラエルという国が与えられたのでありました。400年の奴隷の時代があったとしても、共におられ神様の導きを信じて歴史が導かれてきたのでありました。奴隷の国から人々を解放したモーセに対してはもちろんですが、その後継者ヨシュアに対しても神様は言われます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この神様の励ましをいただきながら、若きヨシュアは聖書の人々をカナンの土地へと導きました。そのような歴史を持つ聖書の人々です。改めてインマヌエルの導きを示したのが今朝の旧約聖書イザヤ書の「インマヌエル預言」の示しであります。

旧約聖書のインマヌエル預言を受止めて示しているのはマタイによる福音書であります。しかし、今朝の新約聖書のメッセージはルカによる福音書であります。神様が共におられる現実をルカによる福音書は真実受止め、証ししているのです。マタイによる福音書のクリスマス物語は、イエス様のお産まれになった場所は馬小屋ではありません。むしろ、普通の家のようです。ご降誕を知って駆けつけたのは占星術の学者達であり、黄金・乳香・没薬の宝物をささげたのでありました。もちろん、そこに救いのメッセージが示されているのでありますが、インマヌエル預言を受止めるのは、むしろルカによる福音書なのであります。神様が共におられますとの預言、そして共におられることの喜び、そして喜びが発展していくことを証しているのがルカによる福音書であります。そのことはルカによる福音書1章において、ザカリアとエルサベトにガブリエルが現われ、神様のお告げを示し、「時が来れば実現する神様の言葉」として示されています。マリアさんにガブリエルが現われて、「あなたから男の子が産まれる」とお告げを示したとき、マリアさんは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白したことにも示されているのであります。神様のお告げ、それが喜びへと導かれていくこと、そして発展へと導かれていくのであります。それは神様が共におられ、お導き下さるという信仰なのです。ルカによる福音書イエス・キリストのご降誕の証から示されましょう。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」ので、ヨセフさんもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。身ごもっていたいいなずけのマリアさんと一緒に登録するためでありました。ベツレヘムの町は住民登録をするために各地から集まっていたので、宿屋さんは何処も満員であったということです。そこで、ある宿屋さんの馬小屋で過ごすことになります。そして、その馬小屋でマリアさんは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでありました。ここにルカによる福音書のメッセージがあります。イエス・キリストが産まれたのは、立派な御殿ではもちろんありません。普通の家でもありません。人間の住むところではない場所、馬小屋という場所でした。そこは馬の出し入れ以外は人が行き来しない場所であります。しかし、だれもがいける場所でもあるのです。しかも、飼い葉桶に寝かされたということにも、ルカの深いメッセージがありました。飼い葉桶は動物の食べる器であります。そこにイエス様がおられるということは、イエス様が神様の糧を私たちに与えるということでした。事実、イエス様は神様のお心、そして命のパンを人々に与えられたのであります。ルカによる福音書は馬小屋物語を通してインマヌエルの喜びを示しているのであります。今こそ、ここに神様が共におられるのですよと示しているのです。
 ルカによる福音書は、他の福音書には記されない人間の悲哀を記しています。一つはルカによる福音書7章11節以下の「やもめの息子を生き返らせる」出来事です。さらに、「善いサマリア人」のたとえ話、「放蕩息子」のたとえ話、「不正な管理人」のたとえ話、「金持ちとラザロ」のたとえ話、「徴税人ザアカイとイエス様との出会い」等、悲哀に生き、悲しみつつ生きていた人々がお告げを示され、喜びへと導かれることをルカによる福音書は証言しているのです。
 私の現実に神様のお告げがある。そのお告げは大きな喜びへと導いてくださるのであります。それは旧約聖書以来示されているインマヌエル、神様が私たちと共におられるからであります。神様が私と共におられるのです。インマヌエルにこの身をおきながら歩むことを示されているのであります。

大塚平安教会に赴任する前は宮城県の陸前古川教会に6年半在任しました。その古川から電車でも車でも1時間くらい離れた所が鳴子の町です。その鳴子教会に髙橋萬三郎さんと言う方がおられました。お連れ合いが鳴子教会の牧師で、萬三郎さんは教会が運営する保育園の園長をしていました。青年の頃には全盲となりましたが、この人は園長を担いながら童謡詩人としても知られていました。その萬三郎さんの童謡の中に、感銘深い詩がありますので紹介しておきます。
 「天使」、日の照る道を歩くとき/いつもついている影法師/足音もなく声もなく。/月夜の道を通るとき/やはり一緒だ影法師/止まれば止まり行けば行く。/あの影法師みたいにね/誰のそばにいつだって/天使がついているそうな。/天使はすがた見せないし/声も聞かせはしないけど/ほんとにいると思うんだ。/わたくしたちにしあわせが/心いっぱいあるように/天使はそっと祈っている。(詩集「流と風と雲と夢」より)
 インマヌエル、神様が共におられる、まさに萬三郎さんが歌うように、影法師みたいに私たちと密着して共に歩んでくださる神様であり、主イエス・キリストなのであります。この私が現実を神の国に生きるよう、共におられて導いてくださっているのです。その主イエス・キリストが世に現れたことをお祝いすることがクリスマスなのです。神様のお約束の実現、成就であるのです。
 私の現実を悲しむ必要はありません。苦しみが続いていると思う必要はありません。インマヌエルの主が、私の現実におられるからです。旧約聖書に登場したアハズ王のように、神様に対してもどかしい思いを与えるのではなく、このクリスマスのしるし、インマヌエルの主と共に新しい歩みが始まったことを喜びたいのであります。
<祈祷>
聖なる全能の神様。クリスマスのお恵みを感謝いたします。インマヌエルの主と共に新しい歩みを、勇気を持って歩ませてください。イエス様のみ名によりささげます。アーメン。

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