説教「神様のおまけをいただきながら」

2017年7月9日、横浜本牧教会
聖霊降臨節第6主日」 

説教・「神様のおまけをいただきながら」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書49章14-21節
    マタイによる福音書6章25-34節
賛美・(説教前)讃美歌21・360「人の目には」
    (説教後)542「主が受け入れてくださるから」


 今朝は、当教会の創立131年記念礼拝としてささげています。当教会は日本の教会の中でも歴史の古い教会になります。当教会が創立100年を迎えたとき、「横浜本牧教会100年史」が発行されました。私達はその歴史の記録を読むことにより、歴史をお導きくださる神様のお恵みを示されるのであります。横浜本牧教会が設立されることになりますのは、宣教師たちの働きが基となっています。まだ江戸時代が終わった明治時代の初めであり、キリスト教に対する偏見と誤解、江戸時代のキリスト教禁止と迫害等が忘れられないときですから、宣教師たちも、当初はキリスト教の伝道と共に、教育、福祉、医療事業を起こしながら働いたのであります。当教会の開拓時代は教育事業でありました。宣教師として派遣されていたクライン牧師が、1886年明治19年)7月11日に夜間学校の場所において、12名の会員と共に横浜第一美普教会(横浜第一メソジスト・プロテスタント教会)を開設したのであります。7月11日の一週間前の7月4日には5名の受洗者が与えられており、12名の教会員として始められたのです。まさに12名は聖書の数字であります。イスラエルの12部族、イエス様の12人のお弟子さんであり、聖書に示される聖なる数字で始められたということです。
 最初の教会を示されると、ほとんどが若い人たちでした。教会が設立されて、最初の役員さん達は、18歳、20歳、26歳という人たちです。若い人たちが積極的に新しい導きを受け入れたということです。そして、次第に祝福の群れへと導かれて行ったのであります。今朝は創立131年を感謝しつつ礼拝をささげていますが、教会の歩みを振り返りつつ、現代の私達が、導かれている横浜本牧教会に集められる者として、いよいよ信仰を強められ、神の国実現の働き人になりたいのであります。今朝は聖霊降臨節第6主日でありますが、イザヤ書とマタイによる福音書が示されています。その主題を「主にある共同体」としているのです。共同体、すなわちイエス様の十字架の贖い、お導きをいただいている一人ひとりは、みな同じ姿であり、共に導かれる存在なのです。
私は現役の牧師を隠退しまして、どこの教会に出席するのではなく、六浦谷間の集会として、夫婦二人で礼拝をささげるようになっています。ところがいくつかの教会からお招きをいただき、講壇に立たせていただいています。今朝もこちらの教会の礼拝の御用をさせていただいていますが、この様な自分を示されるとき、今朝の説教「神様のおまけをいただきつつ」歩んでいることを示されるのであります。その神様のおまけを喜びつつ歩んでいるのです。諸教会に伺わせていただいていますが、礼拝出席者200名の教会もあり、10名くらいの教会もあり、それぞれの群れを示され、そして、いずれも祝福されている教会を示されているのです。

 何処の教会もいろいろな状況の中で、喜びつつ歩んでいるのです。教会が大きいとか小さいとかは関係なく、主にある祝福の群れが導かれているのであります。礼拝を共にささげることが豊かな祝福でありますが、信者の交わりが深められることは大きな祝福であります。私の神学生時代、西荻窪にある曙教会に出席していました。本当に小さな教会でした。小さな教会でありますが、伝道所ではなく第二種教会でありました。教会員の家の応接間を礼拝堂としていたのであります。六畳くらいの広さでありました。そこに10人くらいの皆さんが出席して礼拝をささげるのです。応接間でありますのでベンチではなく、ソファーがおかれておりました。礼拝前に教会学校が開かれ、子ども達と礼拝をしますが、その後で相撲を取ったりして遊ぶので、大人の礼拝でソファーに座ると、疲れが出てきて、つい居眠りをしてしまうことがありました。その狭い応接間でクリスマスやイースターのお祝いもしました。狭いながらも皆さんが心から喜びあって祝会をするのであります。教会に集められた皆さんが、ともに喜び合う群れ、祝福の群れが教会であります。大きい教会に多くの人が集うことは祝福でありますが、小さな教会もまた祝福の群れであるということであります。この喜びこそ、神様からいただく「おまけ」なのであります。

 祝福の群れに導かれることは、何よりも神さまの「おまけ」があるからです。神様がこの群れを顧みてくださっているので、祝福の群れへと導かれているのであります。今がどのような状況であろうとも、神さまは変らずに見守ってくださっているのであり、祝福という「おまけ」を与えてくださっているのであります。
 旧約聖書イザヤ書でありますが、聖書の人々がバビロンの国に捕われの身分となっていることが背景にあります。捕われの身分、それを捕囚と称しています。聖書のユダの国がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで奴隷のように働かされて生きていたのであります。しかし、鎖につながれているとか、牢屋に入れられているというのではありません。それぞれの生活があります。バビロンの国のためにいろいろな職務を持ちながら生活しているのです。普通の生活のように思えますが、しかし捕われの身分であり、やはり自由が拘束されています。捕われの人々は異国の空の下で、希望もなく生きるほかはありません。そのように力をなくし、希望をなくしている人々にイザヤは神さまの御心を示し、励ましを与えたのでありました。
 イザヤ書49章9節後半からは「シオンの回復」との表題が付けられているように、都エルサレムの回復が示されています。都エルサレムはバビロンによって破壊されているのであります。破壊されたエルサレムには人の行き来が途絶え、そのためエルサレムへの道も荒廃しています。49章11節では、「わたしはすべての山に道をひらき、広い道を通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、南から来る。天よ、喜び歌え、地よ、喜び踊れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった」と示しています。都エルサレムへは平坦な道になり、通りやすい道になったので、多くの人々がその道を通って帰ってきますよ、と述べているのであります。だから、自分は見捨てられたと思ってはなりませんと述べているのが、今朝の聖書であります。
 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れた、と」。そのように人々が言っていることに対して、イザヤは「自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか」と言い、「たとえ、女性たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と御心を示しているのであります。神さまはあなたを決して忘れない、とは聖書が繰り返し示しています。もともと聖書の人々が囚われの身になるのは、神様の御心から外れたからであります。何よりも人間の力により頼んだことでした。そして、神様ではなく自分たちが造った偶像に心をかた向けたからでありました。偶像は人間が造ったものです。願い事をかなえてくれそうな像を造り、そして造った像を拝むのです。ところで、日本語では偶像と訳されている言葉、ラテン語ではイドロ(IDOLO)ですが、この言葉を英語的に読むと、アイドルという言葉になります。アイドルとは自分を夢中にさせる存在です。歌手とか、運動選手でも活躍する人に夢中になるのです。偶像もアイドルも同じ言葉から出来ているのです。もう一つ、イディオータとい言葉にもなっています。言いたくないのですが、「バカ」と言う言葉でもあるのです。
 偶像は単なる人形なのです。一時的に喜ばしてくれるのでしょうが、真に私の存在を祝福してくださるのは神様であり、イエス様のお導きなのです。ルカによる福音書12章6節では、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と主イエス・キリストも示されているのです。ルカによる福音書は五羽の雀が二アサリオンですが、マタイによる福音書は二羽の雀が一アサリオンで売られていると示しています。だから二アサリオン出せば四羽の雀になるのですが、ルカは二アサリオン出せば五羽ももらえるといっているのです。つまり、ルカによる福音書は、一羽はおまけになっているのですが、おまけのような存在でも神様がお恵みくださると示しているのです。
 問題は私たち人間であります。私たちが神さまを忘れてしまうということであります。日々、幸せであり、喜びつつ歩むとき、その恵みが神さまからの賜物でありますのに、何か自分の成果であり、あるいは「ついている」との思いで喜んでいるのです。聖書は繰り返し神さまの恵みを忘れないように示しているのであります。従って、旧約聖書信仰告白は、救いの導きを朗誦することでありました。弱い、貧しい私たちを、神さまが大きな支えの御手とお恵みをくださったので、今の私たちがありますと告白するのです。神さまを忘れてはならない、と繰り返し教えているのは、人々が偶像の神々に心を寄せるからであります。イディオータになってはならないと示しているのであります。自分の思いをかなえてくれると思われる偶像に心を寄せるので、神様を忘れ去ってしまうのであります。自分の思いではなく、神さまの御心に生きることが人間の歩む道であります。

 自分自身をささげ、持ち物をささげ、信じる者たちが共に歩むこと、使徒言行録に示される最初の教会の姿でありました。それは、自分が神さまから決して忘れられてはいない存在であることを示されているからであります。先ほどもルカによる福音書12章6節の、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と主イエス・キリストの教えを示されましたが、今朝のマタイによる福音書6章25節以下は、神さまが私たちを決してお忘れにならないことを示しているのであります。
 マタイによる福音書6章25節以下が今朝の聖書です。「思い悩むな」の表題が付けられています。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と示されています。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」との示しです。命そのものが何よりも大切であることを示しているのです。命そのものは神さまがお守りくださっているのです。「空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか」と言うのです。鳥ですら神さまが大切に養ってくださっているのです。ましてあなたがたにはなおさらですというのです。今度は野の花を示します。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と諭しています。神様は人間であるあなたを決してお忘れにはならないと教えているのです。
 人間が神さまを忘れてしまうので思い悩むのであります。しかし、神さまを忘れている人間に対して、神さまは決してあなたを忘れていないとイエス様が教えておられるのであります。神さまのお恵みを忘れて、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩む私たちに、これらのものがみな私たちに必要であることを御存知なのです。だから、神さまを忘れている私たちは、「何よりもまず、神の国と神の義」を求めることが必要なのであります。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と示されています。神様の「おまけ」なのです。私たちの求めている物はみな加えて与えられるので、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様は教えておられます。神様の「おまけ」をしっかりと受け止めたいのであります。

 祝福の群れは、神さまが私たち一人ひとりをお忘れではないことを、しっかりと受け止めなければなりません。与えられた主の群れの一員になって、礼拝をささげ、交わりを深めつつ歩んでいるのです。その生き方がどんなにか祝福であるかということ、神様の「おまけ」として示されなければならないのであります。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とイエス様はお導きくださっています。神の国とは、死んで彼方の国に生きることでもありますが、今生きている現実が神の国として生きることなのです。そのためには「神の義」、神様の御心をいただいて歩むことなのです。生きている今、神様の国を生きているのです。その喜びを皆さんと共に歩むことなのです。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とイエス様は断言されています。「神の国と神の義を求めなさい」と言われたイエス様は、「おまけ」としての喜びの生活がありますよ、と示されているのであります。
 横浜本牧教会は今年で創立131年を迎え、歴史を導く神様のお恵みを示され、感謝をささげています。何がない、と不足を数えるのではなく、神様の「おまけ」、お恵みを確認しなければならないのです。神様の「おまけ」、お恵みによって、横浜本牧教会はこの地に建てられているのであります。「まず、神様の国と神様の御心」を求めつつ、集められている兄弟姉妹と共に歩むことが大切なのであります。祝福の群れなのであります。

<祈祷>
聖なる御神さま。私たちを祝福の群れに導いてくださり感謝いたします。この祝福の群れに多くの人々を迎えることを得させてください。主の御名によって祈ります。アーメン