説教「共に喜びつつ」

2017年7月2日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第5主日」 

説教・「共に喜びつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記26章1-11節
    コリントの信徒への手紙<二>8章1-15節
     マタイによる福音書5章21-26節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・191「いともとうとき」
    (説教後)537「わが主のみまえに」


 前週、6月27日は「神の庭・サンフォーレ」支える会の総会が開かれました。秦野市の一角に高齢者シニアホームが建てられていますが、そこでキリスト者の皆さんが居住されています。もう20年も昔になりますが、神奈川教区の中にキリスト教のシニアホームを造ろうと、有志が話し合い、神奈川教区の中で話し合うことになりました。しかし、神奈川教区が老人ホームを造ると言っても、資金的にも困難なことであります。そこで、私達の取り組みを理解してくれた株式会社サンフォーレの社長さんと共に取り組むことになったのです。キリスト教が企業と手を組んで老人ホームを造ると言う提案を、神奈川教区の議案としたのです。教区の総会議案として協議しましたが、企業と連携して建設することに疑義を持つ人々がおり、議論は平行したままでした。これではいつまで経っても建設ができませんので、神奈川教区としての取り組みを取り下げ、有志として取り組むことになりました。それにより、1998年に秦野の地で開設することになりました。その名も「神の庭・サンフォーレ」との名称で取り組むことになったのです。
 キリスト者として長年の人生を歩み、もはや教会にも行かれない、信仰のお交わりもできなくなりつつある時、この様なキリスト教のホームがあることにより、信仰による安らかな歩みをしていただきたいのです。ですから「支える会」を組織して、主事さんを派遣し、入居されている皆さんの信仰を励ますことにしたのです。隔週でありますが礼拝をささげています。いろいろな牧師にお出でいただき、説教をしていただいています。有志の教会が、訪問してくださり、皆さんと讃美歌を歌う集いを開いてくださっています。主事は牧師ですから、居住されている皆さんの牧会的ケアをしています。このようにして取り組んでまいりましたが、15周年を迎え、間もなく20年にもなろうとしていますが、この取り組みの協力者か減少しています。今の社会は、高齢者ホームがたくさん出来ており、デイケアサーヴィス等も盛んになっています。キリスト教シニアホームであっても利用される方も減少しているのです。ですから、会社としても新しい取り組みをするようになりました。今までの名称を変更して、別の名前にしたのです。さらに犬を導入し、ワンちゃんと共に過ごすことにしているのです。 
時代の波を見つめつつ会社の取り組みがありますが、私達はキリスト教シニアホームとしての取り組みは変わりません。従って、会社が社名を変えても、私達は立ち上げた当初のまま、「神の庭・サンフォーレ」を支える会として関わっていくことにしたのです。キリスト者として、信仰に生きる、「共に喜びつつ」歩みたいのです。こちらのホームにしても、いずれはキリスト者がいなくなるのではないかと思いますが、一人でもおられれば、「支える会」を続けていきたいのです。共に喜びつつ、信仰の人生を歩みたいのです。


 神様に祝福される人生を歩むこと、私達の願いですが、そのために、私達は常に信仰の告白をしつつ歩むのです。今朝の申命記26章は、聖書の人々の信仰の告白が記されています。申命記の背景を理解しておく必要があります。聖書の最初の人はアブラハムと言う人でした。アブラハムは神様のお導きにより、故郷を後にしてカナンという土地に住むようになります。その子供のイサク、その子供のヤコブと続きます。ヤコブには12人の子供が与えられ、それぞれ成長して部族を形成するようになります。その前に、ヤコブの11番目の子供のヨセフは、これも神様のお導きによりエジプトに奴隷として売られることになります。ヨセフは夢を解く力がありました。王様が見た不思議な夢を解説してあげたのです。王様は、その解説に満足し、ヨセフを大臣にするのでした。その夢と言うのは、最初の7年間は大豊作が続き、しかしその後の7年間は大飢饉が来ると言うことなのです。王様はその飢饉に備えるためにもヨセフを大臣にしたのでした。実際、その通りになったのです。豊作の後は、大変な冷害、飢饉となります。諸国の民が食料を買い求めにやってくるのです。その中にヤコブの子供たち、すなわちヨセフを奴隷として売った兄弟たちもいたのです。兄弟と再会した時、ヨセフは、すべては神様のご計画であると言い、だからヤコブの一族はエジプトで暮らすように言うのでした。こうしてヤコブの一族はエジプトで暮らすようになりますが、次第に一族が増えていくのです。
 次第に増え広がっていくヤコブの一族、すなわちイスラエル民族に対して、その後の王様は恐れを持つ様になり、イスラエルの民族を奴隷にしてしまうのです、それからは困難な、苦しい生活が始まります。もはやヨセフもヤコブもいません。そのような苦しみを神様はモーセを立てて、奴隷から解放させたのでした。かいつまんで歴史を見ていますが、そのような歴史を顧みつつ今朝の申命記があるのです。モーセによって奴隷の国から解放された聖書の人々です。モーセは人々を集め、今までの歴史を顧みながら、神様のお導きを人々に示すのでした。この申命記は、モーセの説教でもあるのです。奴隷から解放され、神様のお導きの土地、乳と蜜の流れる土地であるカナンに定着するにあたり、モーセは今までの神様のお恵み、お導きを示すのです。ここで、モーセは神様に感謝をささげることを示しています。土地でとれた収穫物、それも初物を持ってきて神様にささげなさいと示しています。そして、初物をささげながら、今までの歩みを神様に申し上げなさいと言っているのです。それが信仰告白なのです。お導き、お恵みを顧みて、その事実を神様に申し上げること、それが信仰告白ということです。
 「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦をご覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました」と告白するのです。これが旧約聖書における信仰の告白なのです。今までの歴史の歩み、神様のお恵みとお導きがあるからこそ、今、喜びつつ歩んでいることを神様に申し上げること、それが信仰告白なのです。
 この信仰告白をしたとき、共に喜びあうことが示されています。「あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」と示しているのです。自分に与えられたお恵み、お導きを一人で喜ぶのではなく、共にいる人々と共に喜びなさいということです。信仰告白は、共に喜ぶことなのです。すべての人々と共に喜びつつ歩むことなのです。

 私達の信仰は主イエス・キリストの十字架によって導かれています。イエス様のお導きは、私達が「共に喜びつつ」歩むことなのです。私達はイエス様が教えてくださった「主の祈り」をささげつつ歩んでいますが、その主の祈りは共に喜びつつ歩む基本的なお祈りであります。「天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」とお祈りしますが、「日用の糧を、今日も与えたまえ」、「われらの罪をゆるしたまえ」、「悪より救い出したまえ」とお祈りしています。それは、自分ひとりのお祈りではなく、必ず「我らの」としてお祈りしているのです。私にしてくださいではなく、私達にしてくださいとお祈りしているのです。自分だけの喜びではなく、共に喜びつつ、人々と共に歩ませてくださいとお祈りするのが「主の祈り」なのです。イエス様が導いてくださっているのは、共に喜びつつ、人々と共に歩むことなのです。
 そこで今朝は新約聖書マタイによる福音書5章21節以下を示されています。このマタイによる福音書5章、6章、7章は、イエス様が人々に神様の御心を集中的に示しているのです。「山上の説教」と称されていますが、イエス様が人々の前に現れて、間もない頃ですが、マタイさんはここにまとめて教えを記しているのです。最初は「幸い」について示しています。私達の「幸い」は自分の喜びですが、イエス様は「幸い」は共に喜びつつ歩む示しなのです。さらに、「地の塩、世の光」の示しをいただきますが、そのようになりなさいと教えているのではなく、「あなたがたは地の塩であり、世の光である」のだから、人々と共に歩みなさいと示しているのです。そして、旧約聖書より示されている人々の生き方、律法による生き方も、十戒を中心にして歩むことが、共に喜びつつ歩むことであると示しています。そして、今朝の聖書になりますが、「腹を立ててはならない」との示しであります。腹を立てるとは、他人に対してであります。人の存在、そのふるまいが面白くないからと、怒ってはならないとしているのです。ここでは、昔から教えられている律法を中心にして示しています。律法とは十戒が基となっています。十戒は、先ほども示されましたが、聖書の人々が奴隷の国エジプトから脱出した時、神様はまず戒めを与えたのです。人々と共に、喜びつつ歩むために、基本的な約束事を示したのでした。その十戒には、「人を殺してはならない」と戒めています。しかし、普通の生活をしていれば、殺すことはありません。だから人々は、自分は十戒を守っていると思っているのです。確かに十戒を守っているのですが、イエス様はこの十戒に対して、表面的な受け止め方ではなく、内面的にしっかりと受け止めなさいと示しているのです。人は殺していない、しかし、「兄弟に対して腹を立てる者は、誰でも裁きを受ける」と示しているのです。表面的な戒めの実行ではなく、内面的に守りなさいと示しているのです。「腹を立てること」、これも戒めに反することなのですよ、と示しているのです。
 イエス様は私達が「共に喜びつつ」歩むために、十戒の再解釈を示し、示されている十戒を真実うけとめなさいと示しているのです。「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽りを言ってはならない」、「他を欲してはならない」等と戒めていますが、表面的には守っている人々にとって、内面的な受け止め方は、まさに厳しい戒めなのです。しかし、それは「共に喜びつつ」生きるためなのです。イエス様は、繰り返し「共に喜びつつ」歩むことを示していますが、何よりもイエス様の教えにつきるのです。「あなたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と示されています。「共に喜びつつ」歩む原点であります。

 先ほどはキリスト教シニアホームの取り組みをお話ししました。20年前に立ち上げたものとして、今もその責任者になっています。実は、もう一つの責任を担っています。それは外国人、スリランカから難民として日本に逃れてきた家族を支援しています。難民申請をしていますが、難民として認められず、裁判にも訴えましたが、いずれも認められませんでした。再度難民申請をしていますが、なかなか認められないようです。私がこの家族に出あうのは前任の大塚平安教会時代でした。教会の幼稚園の園長を担っていました。その時、スリランカ人の子供を幼稚園が受け入れたのでした。当初は、事情が分からないまま、困難な生活をしている外国人として受け入れ、費用の減免をして応援してあげました。続いて妹も入園し、同じように援助したのでした。その頃、父親のシルバさんが一緒に横浜にある入国管理局に行ってくれるよう依頼されました。難民申請の関わりでもあると同行したのです。シルバさん家族は、日本には観光パスポートで来ていますので、その期限は過ぎており、不法滞在者になっているのです。そのような場合、強制送還となるのですが、このまま日本に滞在することを切に求めており、難民として日本に来ているのですから、スリランカに帰れば危険な状態になることを予想していますので、何としても日本に滞在したいのです。その場合、保証人がいれば、仮滞在ということで、いることができるのです。その保証人に私がなることによって、仮滞在が許されているのです。
 シルバさん家族は、観光ビザで日本に滞在し、その期限も過ぎているので不法滞在者になります。そのような不法滞在者を、会社によっては採用して働かせているのです。シルバさんもそのような状態でしたが、その会社に入国管理局が立ち入り、取り締まったのでした。従って、働くこともできず、会社の寮も出なければならなくなりました。そのため、教会の有志が立ち上がり、シルバさん家族を支えるようになりました。教会には、亡くなった方から寄付された家があり、とりあえずそこに住んでもらうことにしました。そして、皆様に協力いただいて、支援しているのです。その取り組みもかれこれ10年になります。難民申請が認められず、公に働くこともできず、何とかアルバイトをして生活しているのです。皆さんの協力をいただいても、4人家族を支えることは困難です。何とか支援しているという状況です。
 支援委員会としても、先が見えない支援に行き詰まってしまいそうですが、しかし、イエス様の励ましが支えとなっているのです。今朝の旧約聖書も、信仰告白をしつつ、寄留者と共に歩みなさいと示しています。イエス様の救いの十字架は、単に自分の救いを喜ぶのではなく、共に喜ぶことなのです。共に喜ぶことが、どんなにか大きな喜びであるかと示しているのです。主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ましょう。私達の救いがあります。そして、人々と共に救いの喜びがあるのです。共に喜ぶ人生へと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架により、共に歩む者へとお導きくださり感謝いたします。信仰告白を重ねながら共に生きる者へと導いてください。イエス様のみ名により祈ります、アーメン。