説教「神の国を受け入れる」

2022年8月21日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第12主日

                      

説教・「神の国を受け入れる」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書54章4-10節

   エフェソの信徒への手紙6章1-4節

   マルコによる福音書10章13-16節

賛美・(説教前)讃美歌21・357「力に満ちたる」

   (説教後)讃美歌21・544「イエス様が教会を」

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毎年、8月は平和を祈りつつ礼拝をささげています。平和をお祈りするのは8月ばかりではなく、いつも平和を来たらせたまえとお祈りしているのです。特に、今はロシヤがウクライナに侵攻し戦争が続いています。この戦争により世界的にも経済が混乱するようになっています。前週は8月

15日を迎え、日本の敗戦記念日でした。今の時代、戦争を知らない人たちが多くなっているのです。

 2010年3月まで、大塚平安教会にて30年間、牧師として務めてまいりました。最初からではありませんが、この8月の第一日曜日は平和聖日でありますので、その礼拝では「戦争責任告白」を礼拝にて、日本基督教団信仰告白と共に朗誦してまいりました。正確には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」ということです。日本は太平洋戦争を展開し、アジア地域を侵略しました。日本が戦争に負けたとき、日本基督教団の人々の中には、この戦争には我々キリスト者も加担し、アジアの人々を苦しめたと懺悔するようになりました。それにより1967年に当時の日本基督教団総会議長・鈴木正久牧師が、戦争責任告白を教団総会に提出したのです。しかし、この戦争責任告白に反対する人々がおり、教団としては決められませんでした。しかし、これは大切な告白であるとして、教会によっては平和聖日の礼拝にて告白する教会もあるのです。大塚平安教会も最初からではありませんが、平和聖日には戦争責任告白を礼拝にて告白するようになっていたのです。しかし、私が在任している間は、この戦争責任告白について説明することが出来ますが、代が変わることによって、わからなくなる人々が出てきます。そのときは改めて学習してもらうことにして、私の退任の前に、この戦争責任告白を礼拝にて告白することを取りやめたのでした。また、あらたなる思いで取り組んでいただきたいと思っています。

 平和はつねに祈るべきことですが、今は祈らざるを得ない状況が世界に起きているのです。いよいよ、主の十字架にあって平和を祈り求めて参りましょう。平和を祈ることについては8月7日の平和聖日にも示されています。今朝もまた平和を祈りつつ礼拝をささげています。私達は「平和」は、私達の言葉で示されるならば「神の国」であると示されています。今朝は「神の国を受け入れる」とのメッセージで示さるのであります。

 旧約聖書イザヤ書による示しであります。今朝の聖書の背景は苦しみに生きる人々を励まし、慰めているのであります。すなわち、聖書の人々はバビロンという大国に囚われの身分であります。紀元前587年、聖書の南ユダの国はバビロンによって滅ぼされてしまいます。その時、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そのバビロンで囚われの身分として生きなければならなかったのであります。聖書は滅ぼされる原因は、確かに外国の力によるものですが、聖書の人々の不信仰を示すのであります。すなわち、神様の御心、神様の力により頼むのではなく、外国の力に頼もうとしたのであります。バビロンに対してはエジプトに力を要請しながら対抗しようとしたのであります。そうした人間の思い、人間の力に依存する姿に対して、神様は審判を与えています。むしろ神様が囚われの身へと追いやったことも示されるのであります。今、希望を持たない人々にイザヤは神様の御心として示しています。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」と示しているのです。きわめて人間的な姿を神様に当てはめています。人間も気持ちの持ち方で一人の人を近づけたり、遠ざけたりします。人間的な思いで神様の人間への迫り方を記している訳です。

 人間的な神様を記していますが、旧約聖書はしばしば神様と人間との関係を家族と結びあわせて示しています。今朝の聖書では5節に「あなたの造り主があなたの夫となられる」と示し、神様と聖書の人々が夫婦の関係として、それだけ密接な関係であると示しているのであります。神様と聖書の人々の関係を夫婦として意味深く示したのはホセアという預言者でありました。ホセアはゴメルという妻がいますが、そのゴメルがホセアを裏切り、他の男性のもとへ行ってしまうのであります。本来、そこで夫婦の関係は無くなるのでありますが、ホセアはこの妻を捨てず、彼女を迎え入れたのであります。それは自分の体験を通して、神様の深い導きを示されたからであります。すなわち、聖書の人々が歴史を通して神様に導かれてきました。それは神様と聖書の人々には密接な関係があったということです。ところが、聖書の人々は偶像の神に心を向けて行くのであります。真の神様に導かれているのに、他の神に心を向けること、姦淫であります。姦淫を行う聖書の人々に対し、心を改め、神様のもとに立ち帰るならば、神様は赦しを与え、再び恵みと慈しみを与えてくださることを示したのがホセアでありました。ホセアは自分の体験を通して神様の御心を示されたのであります。むしろ、姦淫の妻を受け入れるのは神様の導きであったのであります。

 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」とイザヤは示しているのであります。神様がくださる「平和の契約」があなたがたを祝福すると示しているのであります。

 私たちを平和に導くのは主イエス・キリストであると聖書は示しています。イエス様が人々に神様の御心をお話しているところに、人々が子供を連れてきました。イエス様に触れていただくためであるということです。子供たちが親と一緒に来て、その周りで遊んでいたというのではなく、イエス様に触れていただくために子供を連れてきたのです。しかし、イエス様のお弟子さん達は子供を連れてきた人たちを叱ったのです。イエス様が神様の御心をお話しているのに、子供はうるさいというわけです。しかし、イエス様はこれを見て「憤り」ました。イエス様が憤ったという表現は、聖書の中ではこのマルコだけであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じ出来事が記されていますが、イエス様が憤るという表現はありません。イエス様が人間的な感情を現すことの表現は避けたということです。しかし、マルコによる福音書の著者はイエス様のありのままを記しているのです。それだけにイエス様の示しが強いということです。

 イエス様が憤られた背景には、既にイエス様の子供に対する示しが与えられてたいたからであります。9章33節以下に「いちばん偉い者」についてお弟子さん達が論じあいました。弟子たちの中で、誰がいちばん偉いのかという議論でありました。その議論を知ったイエス様は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。そして、一人の子供を抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と教えられたのであります。このように教えられていながら、子供たちをイエス様に近づけない姿勢を見て、イエス様は憤られたのであります。「子供を受け入れる」ことを教えたばかりなのです。イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と示されています。子供を受け入れなさいと示されています。その子供は純真に神の国を受け入れているのであります。今、イエス様が人々にお話しているのは神の国に生きるということであります。人々が平和を与えられるということであります。何よりも子供たちが神の国に生きることを受けとめているということ、平和の見本でもあります。イエス様はそのように示されながら、イエス様に触れていただくために子供を連れてきた親に対して、祝福を与えたと示されるのであります。平和を祈ることは、イエス様が示されるように、いと小さい存在を受け止めることなのです。世界中の人々は平和願っていますが、イエス様が示される「いと小さき存在を受け止める」こと、そこに平和の原点があるということです。

前任の大塚平安教会時代、毎年、8月の第一日曜日は「平和聖日」としての礼拝でした。ところが大塚平安教会は、教会創立記念日も8月の第一日曜日でした。そのため平和のメッセージを示され、さらに教会創立の恵みを示される説教をしていました、ところが「平和聖日」と「教会創立記念日」の礼拝を一緒に覚えることの疑義を述べる人が出てきました。確かに「平和聖日」は平和のメッセージをしっかりといただきたいのです。創立記念日には、歴史を導く神様のお恵みをしっかりといただきたいのです。それで、8月の第一日曜日を「平和聖日」とし、第二日曜日を「教会創立記念日礼拝」としたのでした。しかし、平和に導かれるために教会の存在があり、教会創立は平和の根源であると示されます。二つの意義を共に示されることが平和の導きであることは確かであります。教会を基として、いよいよ平和の祈り、そして平和を作り出す者として導かれたいのであります。

<祈祷>

聖なる神様。神の国にお導き下さり感謝いたします。平和を造り出す者へと導いてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。

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