説教「主の愛にとどまりながら」

2018年4月29日、三崎教会 
「復活節第5主日

説教・「主の愛にとどまりながら」、鈴木伸治牧師  
聖書・出エジプト記19章1-6節
    ヨハネによる福音書15章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌21・370「おもいもことばも」
    (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」

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 今年のイースター、復活祭は4月1日でありました。2018年度の始まりが、イエス様のご復活日でありましたので、力強い歩みへと導かれています。イエス様はご復活後の40日間はお弟子さんたちに現れ、人々に現れまして、ご復活を証しされ、人々を励まされたのであります。そして、40日後に昇天されました。今年の昇天日は5月10日になりますので、今はご復活のイエス様のお励まし、お導きをいただく歩みなのであります。
 そのイエス様のご復活日、イースター礼拝には私どもの六浦谷間の集会に三人の青年が出席されました。いずれも大塚平安教会時代の青年達です。大塚平安教会を退任したのは2010年ですから、8年前の青年達はまだ小学生でありました。三人のうち一人は、30歳を経ていますが、二人が小学生でありました。そして、今年は4月から大学生活が始まっているのです。六浦谷間の集会は、いつもは午前10時30分から礼拝をささげていますが、今年のイースターは、午前中は所用があり、午後4時からの礼拝となりました。ですから、青年の中には、午前は大塚平安教会のイースター礼拝に出席し、そして午後からの六浦谷間の集会に出席されたのです。彼らはいずれもドレーパー記念幼稚園を卒業し、その後は教会学校に出席しながら成長しているのです。そのように教会に繋がりながら成長している彼らを喜んでいる次第です。そして、30歳を過ぎている青年も、幼稚園から教会につながりながら歩んでいるのですが、最近は教会には出席していないというのです。教会で問題となることが起き、面白くなくて礼拝には出席してないというのです。いろいろと励ましますが、今は行く気にはならないというのです。彼の個人的な問題であり、私たちとしては関わることができませんが、教会の人間関係の問題であり、信仰上のことではありません。ですから、綾瀬市ですら我が家まで遠いのですが、こちらの礼拝に出席したのです。
 教会は主イエス・キリストを中心として信仰が導かれ、教会員の交わりが深められながら、皆さんの歩みが導かれるのです。しかし、人によっては教会の歩みに疑問を持つ方もおられ、教会から離れてしまう場合もあります。大塚平安教会に在任中、二人の方が別の教会に行くようになりました。東京のある教会に行かれるようになりました。お二人が言われるには、教会に出席しても、なんとなく礼拝がささげられており、出席してもピリッとしないと言う訳です。魂が揺さぶられるような礼拝に出席したいと言われるのです。出席されるようになった教会は、彼らが希望するような教会であったようです。お祈りによって病気を癒すことまで行われているようです。しかし、その後、二人はいずれも戻ってきました。東京の教会まで2時間も要するので、礼拝に出席するにも大変であったようです。二人とも、私より年齢が上であり、高齢になって遠い教会に出席するのは困難になったようです。いよいよ私も70歳になるので、一年後には退任することになったのです。そしたら彼らが帰ってきたのでした。役員会は、出たり入ったりする理由をはっきり聞きたいというのですが、帰ってきたことは喜ばしいことですから、そのまま受け入れたのでした。私の個人的な思いは、私が退任することになったので帰ってきたのかな、と思っているのですが、教会に繋がっていることは喜ばしいことですから、彼らを迎えたのでした。その後、彼らは近くの大塚平安教会の礼拝に出席しながら歩んでいるのですから喜ばしいことです。どのような形になりましょうとも、教会に繋がっていること、そこに祝福があるのです。その生き方が「主の愛にとどまりながらの」歩みなのです。

 今朝は私達の現実に神様の愛が注がれていることを示されるのです。言うまでもなく、私達にとって、「神様の愛」とは神様の御心をいただくことであります。主イエス・キリストの十字架の救いをいただくことが私達の「神様の愛」なのであります。聖書は全体を通してこの神様の愛を示しているのであります。旧約聖書出エジプト記19章であります。聖書の人々はエジプトという国に400年間も寄留していました。最初は寄留でしたが、奴隷とされ、過酷な労役を課せられるようになったのであります。その苦しみを神様はモーセという指導者を立てて救い出したのであります。エジプトの王様ファラオに対してモーセが掛け合う時、王様は承知しませんでした。奴隷としての労働力がなくなるということはエジプトにとって大きな損失となるからであります。モーセは神様の力をいただきつつエジプトに審判を与えます。水が血にかわったり、イナゴの大群、雹の災害などの審判を与えます。審判の中で、王様ファラオは聖書の人々がエジプトから出ることを許可しますが、審判の苦しみがなくなりますと、心を翻し、今まで以上の労役を課すようになるのです。ついに神様は最後の審判を与えます。エジプトにいる最初に生まれた者は死ぬという恐ろしい審判でした。その審判が聖書の人々に及ばないように、聖書の人々の家の入口、かもいに羊の血を塗っておきます。神様の審判は羊の血が塗られている家は過ぎ越していくのであります。とうとう王様ファラオは奴隷の解放を許すのでありました。
 そして、今朝の聖書に至ります。19章1節以下、「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」のであります。そこで天幕を張り、宿営することになります。このシナイ山の麓で、モーセは神様の召しをいただき、エジプトで苦しむ人々を解放する役目をいただいたのであります。最初は躊躇しますが、神様の強い励ましをいただき、召しに応えたのでありました。そして、解放された人々をシナイ山の麓に導き、モーセシナイ山に登っていきます。今、神様のご使命を果たし、このところに連れ戻った報告をするためでもあります。そのシナイ山で神様はモーセにお語りになるのであります。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなた達は見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを」と救いの事実と経過を示しております。今いる事実は、神様の導きの賜物であること、聖書の人々は常にそこに原点を持ちます。救われた事実を繰り返し朗唱すること、すなわち信仰告白をするのであります。
 信仰告白については、申命記モーセの説教集でありますが、6章21節以下に信仰告白が示されています。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導きだされた。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導きいれ、それを我々に与えた」と朗唱するのであります。救いの歴史を改めて心に留める、口に出して告白する、信仰告白であります。今、この出エジプト記はその信仰告白の原型を神様がお示しになっているのであります。何よりも、今あなたがいる事実、それは神様のお恵みとお導きがあるということ、それをしっかりと心に刻み、口で告白するのであります。しかし、救われた歴史を回顧すると共に、約束をしなければなりません。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と示されています。救われた喜びを告白するとき、神様の御心に生きる約束をしなければならないのであります。従って、申命記信仰告白は「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」と信仰告白をするのであります。聖書の人々は常に信仰告白をしました。それが人々の生きる祝福であります。信仰告白をすることは私の祝福は神様の導きであり、主イエス・キリストの十字架の救いにより生かされていることを確認することなのであります。神様の愛にとどまるということであります。

 私達がいつも信仰告白をしつつ力強い人生を歩むようにと、イエス様が示されています。ヨハネによる福音書15章はイエス様がぶどうの木として私達をお導きになっておられます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と示されています。イエス様はぶどうの木であり、私達はその枝であると示しているのであります。
 聖書にはぶどう園に関する示しがいくつかあります。旧約聖書イザヤ書5章には「ぶどう畑の歌」が記されています。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」と示しています。ここではぶどうの木は聖書の人々です。神様の導き、恵みをいただいているのであるから、祝福の果実を生みださなければならないのであります。それなのに酸っぱいぶどうであっと示しているのであります。聖書の人々は信仰告白をささげつつも、神様の御心ではない方向に歩んでしまいます。神様の掟ではない自分の思い、そしてそれは偶像礼拝へとつながっていくのであります。表面的には信仰告白を繰り返しつつも、自らの思いが中心になっているからであります。
 主イエス・キリストはご自身をぶどうの木にたとえられました。そして、あなた方はぶどうの木につながる枝であるとしているのであります。枝はぶどうの木から栄養をいただき、それによりおいしいぶどうの実を生むのであります。もし、酸っぱいぶどうであるならば、それはぶどうの木にしっかりとつながっていないからなのであります。ぶどうの木につながる枝でありますが、ぶどうが実らないこともあります。それは木につながっている枝のように見えますが、実はつながっていない状態なのであります。枝の根本に虫食いがあり、十分につながっていないのです。当然栄養がいきません。実らないのであります。しかし、多くの場合、枝はぶどうの木につながっているのでありますから、みな良いぶどうを実らせることになります。これは自然の成り行きです。イエス様は枝に御心を与えているのであります。枝であるあなたはイエス様のぶどうの木につながるか、との問いであります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と示されています。
 イエス様は、「自分を愛するように隣人を愛する」ことは掟であると示されました。今朝の聖書はヨハネによる福音書15章1節から10節でありますが、その後の12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と示しているのであります。イエス様のぶどうの木につながる枝は、イエス様の掟を守ることであると示されているのであります。しかし、今朝の示しは、私を生かす祝福として示されています。旧約聖書で示されましたように、私が今いる状況は神様のお導きであり、主イエス・キリストの十字架の救いによるものであるということ、その私自身の信仰告白をすることなのであります。聖書の人々が今に至る神様の導きを告白したように、私達もイエス様のぶどうの木につながるに至る導き、信仰の告白をしなければならないのであります。神様は私達に対して忍耐を持って関わり、導いておられるのであります。

 もう5年前になりますが、2013年3月13日から6月4日までマレーシア・クアラルンプール日本人キリスト者集会のボランティア牧師として赴いてまいりました。マレーシアの教会は2012年3月までは専任牧師がおられました。しかし、高齢になられて退任されたのです。すぐには後任が決まりませんので、日本基督教団の隠退牧師が応援することになりました。パスポートの許容滞在期間の三ヶ月ずつ、隠退牧師が務めることになったのです。私は2013年の3月から三ヶ月間、五番目の牧師として連れ合いと共に赴きました。三ヶ月間でしたが、教会の皆さんとのお交わりが深められ、感謝しています。2014年4月からは専任の牧師が就任しました。もう入れ替わりの牧師でなく、皆さんはほっとされたのではないでしょうか。それにしても教会の皆さんは三ヶ月毎に牧師が変わるので、なんとなく落ち着かなかったのではないでしょうか。しかし、皆さんは順次赴任する牧師と共に、よく歩んでくださいました。皆さんのお世話をいただきながら、ボランティア牧師を務めさせていただいたのです。クアラルンプール日本人キリスト者集会の皆さんは、その集会、その教会にしっかりと結びついて信仰生活をされているのです。
 教会の皆さんは半永住的にマレーシアに住んでおられる方、そして、会社から派遣されておられる方々です。派遣されておられる方は、いずれは日本に帰国されるのですが、今はマレーシアに住んでいるのであり、原点を教会において歩んでおられるのです。その教会で、思わぬ出会いがありました。大塚平安教会時代に、家庭集会に出席されていた方が、幼稚園くらいの男の子を連れて出席していたのです。その子は幼稚園に行くのは嫌であるということでした。その男の子との再会でした。家庭を持たれ、派遣社員でありますが、ご家族とともに、マレーシアの教会を中心に歩まれておられるのです。神様の愛にとどまりながら歩まれている証しを示されたのです。神様の愛にとどまりつつ歩むこと、教会に繋がりながら歩むことが、神様の愛にとどまることなのです。
 主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、イエス様の救いをしっかりと見つめながら歩むことが、「神様の愛にとどまりながら」の歩みであると示されました。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様のぶどうの木につながるお導きを感謝いたします。豊かなぶどうの実として証をさせてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。