説教「神の家として」

2015年11月15日、六浦谷間の集会 
「降誕前第6主日

説教、「神の家として」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記2章1-10節
    ヘブライ人への手紙3章1-6節
     ヨハネによる福音書6章26-35節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・168「イエス君のみ名に」
    (説教後)讃美歌54年版・433「みどりの柴に」


 今朝は11月15日であり、世の中は七五三のお祝いが行われています。丁度、スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子が、昨年10月25日にスペイン人のイグナシオさんと結婚しまして、その彼と共に帰国しています。それで前週の11月6日に彼らを鎌倉へ案内しました。八幡宮、大仏等を見学したのでした。八幡宮に行きますと、着物姿の子供たちが親と共にけっこう来ているのです。今は七五三の時期で、八幡宮にお参りに来ているのです。外国人が大勢観光に来ていまして、日本の風物詩を写真に収めていました。鎌倉に来て、今が七五三の時期であることを思い出したのです。ほとんど忘れていました。だから、前週の11月8日の第二日曜日は、七五三に触れないで御言葉を示されたのでした。前任の大塚平安教会時代は、11月の第二日曜日といえば、幼子祝福礼拝をささげていたのです。教会員のお子さんや教会に出席している皆さんのお子さんを礼拝にて祝福していたのです。社会的には七五三のお祝いの時であり、教会こそ子供の祝福の成長を祈ることを証しているのです。このように子供達を祝福し、家族と共に教会に来る姿を見るとき、神の家族と言うことを強く示されるのでした。教会は神様の家であり、そこに集う人々は神様の御心に養われる家族なのです。神様の家として教会の使命を与えられる日でありました。聖書は全体的に神様の家族としての導きを与えているのです。
前週の主日礼拝の主題は「神の民の選び(アブラハム)」であり、人間の救いの始まりを示されたのであります。前々週の主題が「堕落」でありましたから、人間が罪に陥ってしまったことを示されました。しかし、神様は新しい人間を導いて人間の救いを導き、神様の家族へと導くのであります。まずアブラハムを通して、神様の祝福が人間に与えられていることを示しているのです。そして、今朝の主題は「救いの約束(モーセ)」であります。エジプトで聖書の民イスラエル民族は奴隷として生きること400年を経ていました。奴隷となってしまうのは、ヤコブの時代です。全国的に冷害、飢饉がおこり、食料が無くなります。神様の不思議な導きでエジプトの大臣になっていたヨセフは、この飢饉を乗り切っているのです。そこでヤコブの一族がヨセフの招きにより、エジプトに寄留することになります。そのまま寄留しているのですが、時代を経て、聖書の人々がエジプトに寄留している経緯を知らない王様が脅威をもち、奴隷にしてしまうのでした。それからは重い労役で働かされるようになるのです。その苦しみから解放させるために、神様はモーセを選び、奴隷の人々を救い出すのであります。モーセの救いは、人間の救いの原型を示しているのであり、主イエス・キリストの十字架の救いへと導かれていくのです。そして神様の御心に養われる家族へと導くのであります。今朝はそのような救いの歴史の一つに組み込まれている、モーセの意味を示されます。

 今朝の聖書は出エジプト記2章1節以下に記されるモーセの存在の意味であります。まさに不思議な導きでモーセという存在が生まれました。モーセは奴隷に生きている人々を救う働きをします。しかし、モーセの使命は奴隷からの救済ばかりでなく、神様が人々に命を与え、その命が永らえることが、モーセの果たすべき使命でありました。神の民となること、全体的な神の家に住む者となることを示しているのです。聖書の民がエジプトで奴隷になる経緯は、先ほど簡単に示されました。今は奴隷で苦しむ人々の救済なのです。
 その後、時が経つと、ヨセフのことを知らない王様がエジプトを支配するようになります。新しい王様は言います。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。ひとたび戦争が起これば、敵側についてわれわれと戦い、この国を取るかもしれない」と懸念するのです。そのため、イスラエル人を強制労働させ、重労働を課して虐待したと記されています。さらに、生まれる男の子はみな殺させたのです。モーセが生まれたのはそのような状況でありました。出エジプト記2章1節以下「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子をいれ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」のでした。その後のことは聖書に記されるとおり、ファラオの王女が奴隷の子供であると知りながら自分の子供として育てることになるのです。ファラオとはエジプトの王様であります。
 さて、モーセは奴隷の子供でありますが、エジプトの宮廷で成長することになりました。モーセが成長したとき、イスラエル人がエジプト人に虐待されているのを見て、思わずそのエジプト人を殺してしまうことになります。結局、モーセはエジプトを逃れ、ミディアンという土地で平和に暮らすようになりました。ところが、そのモーセを神様が選び、今からエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を救い出しなさいとの使命が与えられたのでした。モーセは戸惑い、奴隷の人々に神様をどのように伝えたらよいのですか、と尋ねます。そのとき、神様はご自分の名を「あってあるもの」と言われたのです。「あってあるもの」がモーセを奴隷の人々のもとに遣わされたと言いなさい、と言われるのでありました。モーセはエジプトの王様、ファラオに掛け合い、奴隷から解放することを求めます。なかなか承知しないファラオに対して、モーセは神様の審判を行います。そして、ついにイスラエル人はエジプトを脱出するのでした。細かいことは割愛していますので、出エジプト記をこのまま読み進みますと、小説よりも面白く読むことができます。
 モーセの働きはエジプト脱出が第一でありますが、それだけではなく、神様が人々に十戒を与え、乳と蜜の流れる土地へと導くことであり、全体的には神様の家に生きる者へと導くのです。エジプトを脱出した人々は喜び勇んでモーセに従いますが、しかし、荒れ野を歩くうちにも食料がなくなります。すると、モーセに詰め寄り、「我々をこのあれ野で死なしめるために連れ出したのか」と言い、「こんなことなら奴隷であってもよかった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンをいっぱい食べられたのに」というのでした。それに対して、神様は不平不満を言う人々ですが、天からの食べ物、マナという食べ物を毎日与えることになるのです。こうして人々の命を養いながら、ついに約束の土地、乳と蜜の流れる土地へと導いたのでした。神様の家に導かれたということです。
 この旧約聖書の人間の神様による育みは、基本的な原型として私たちに示されています。すなわち、それぞれの状況において神様の導きを与えられ、永遠の約束の土地へと導かれること、私たちの歩むべき道なのです。旧約聖書モーセがその導きを司りましたが、新約聖書は主イエス・キリストが御子として私たちを導き、永遠の生命にいたる道を開いてくださっていることを証しています。

ヨハネによる福音書は6章22節以下の示しでありますが、背景となっているのは6章1節以下の「五千人に食べ物を与えた」ことであります。五つのパンで人々を満腹させたということでありますが、このパンに対する姿勢について示すのが今朝の聖書であります。
エス様のもとに大勢の人々がお話を聞くために集まってきます。そこで、イエス様はお弟子さんのフィリポに、「この人達に食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねます。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と言います。すると、お弟子さんのペトロが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、なんの役にもたたないでしょう」というのでした。結局、お弟子さん達はイエス様が無理難題を言っているように理解しているのです。そのような弟子たちの不信仰を受止めながら、イエス様はパンの奇跡をもたらすのです。人々を座らせ、パンを祝福します。弟子たちにパンを配らせます。五千人の人々が満腹したというのです。
このパンの奇跡が行われた翌日、人々はイエス様を探し回り、ようやく見つけます。「ここにおられたのですか」といって喜ぶ人々にイエス様は、「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われます。6章2節には「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と記されています。その人達にイエス様はパンの「しるし」を与えました。しかし、その「しるし」の意味を理解することなく、ただ満腹したことを喜んだのでありました。人々はイエス様の「しるし」を悟ることができませんでした。「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できない」とイエス様は言われています。従って、イエス様を捜してやって来たのは、イエス様が言われる通り、パンを食べて満腹したからでありました。人々がパンを食べて満腹したとき、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。そのように言う人々はイエス様を自分たちの王様にしようと考えたのです。
満腹したということ、それは自分たちの要求がこたえられたことであり、王様になってもらいたいと思うのは、自分たちの思い通りの国になるということでした。自分の要求に応えてくれる存在、そういう神様を人々はもっとも望んでいるのです。それはご利益信仰というものです。お願いすれば、かなえてくれる、それは信仰ではなく欲望ということになります。私たちは主イエス・キリストに何を求めるのでしょうか。「あなたがたは満腹したから、わたしを捜している」と述べたイエス様は、その後で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と示しています。イエス様からパンを与えられ、満腹になったとき、そのときに、この「しるし」は「永遠の命に至る食べ物」であることを気づくべきでありました。しかし、そこでは自分たちの願いを満たしてくれるイエス様としか考えなかったのでありました。ですから、パンの奇跡の翌日もイエス様を捜してやってきた人々に、パンの「しるし」の意味を示されたのでした。ここでは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言っています。「永遠の命に至る食べ物」、それは神様の御心であります。その神様の御心をいただき、働きなさいと教えておられます。イエス様は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えます。この教えに対して、ああ良い教えだ、と思います。しかし、それだけで終わってしまうのは、ただ主の教えをいただいているに過ぎないのです。永遠の命に至る食べ物は、食べるだけではなく、働くということなのです。神様の家の住人として生きると言うことです。

 神の家に導かれるということ、それは教会へと導かれることであります。教会へと導かれ、御心を示されて、教会の姿に変えられて行くのです。私は小学生の頃は近くの日曜学校に通っていました。中学生になると、二人の姉たちが出席していた清水ヶ丘教会に出席するようになります。京急線南太田駅まで六浦駅から10駅もあります。従って、家から4、50分を要して通っていました。しかし、中学になってからは私立中学に入りまして、そこまで京急線で3駅であり、毎日通っていましたので、日曜日に電車に乗って礼拝に出席することは苦にはなりませんでした。むしろ教会に出席することが楽しくて、日曜日は一日中教会にいたようです。礼拝が終わっても高校生会等の活動があり、何かと楽しみつつ夕刻まで過ごしていたのです。教会の周辺の教会員の皆さんが、何かと差し入れをしてくれるので、お昼ご飯の心配はありませんでした。そういう歩みが神の家が身に着いたと思います。そして、牧師の道へと導かれて行ったのです。教会でどのくらい食事をしたか、それが神の家としての存在のバロメーターである、と思っています。教会では、何かと食事が出されてお交わりがあるのです。礼拝後には愛餐会がありました。教会建築資金のために、当初は婦人会が「そば・うどん」を月一回提供していました。そのうち、壮年会も行うようになり、カレーライスを提供していました。愛餐会と称していましたが、特に集会というものではありませんが、いただきながら三々五々共にお交わりをしていました。しかし、そういう集いには参加しないで、礼拝が終わると帰えられる方もありました。その良し悪しを言っているのではなく、やはり愛餐会に参加しては交わりを深めている人は、力強く信仰生活をされているように示されていました。
 大塚平安教会には若い人たちも多くおり、いつも食事を共にしていました。土曜日になると青年たちが集まり、週報の印刷やその他の礼拝準備をするようになります。夕方であり、いつも連れ合いのスミさんが食事の準備をしてくれるので、青年たちと共に食事をしたものです。そういう食事をした人たちが、今でも教会を支える存在になっているのです。教会の食事をいただくほどに信仰が増し加わるとは、私の持論ではなさそうです。確かな信仰成長の原点なのです。今いくつかのところで活躍している大塚平安教会出身の牧師たちは、教会でいつも食事をしていたということです。
「神の家として」の存在に導かれています。この家は確かな家ですから、何があっても壊れません。この社会にあって、どっしりとした喜びの存在となっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神の家としての導きを感謝致します。この家の中にさらに御心が与えられ、人々に宣べ伝えさせてください。主の御名によりおささげいたします。アーメン。