説教「元気が出る」

2015年11月22日、三崎教会 
「降誕前第5主日」、伝道礼拝

説教、「元気が出る」 鈴木伸治牧師
聖書、マタイによる福音書11章25-30節
賛美、(説教前)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」
    (説教後)讃美歌21・484「主われを愛す」


 本日は伝道礼拝ということで、お話しさせていただいております。皆様に元気が出るお話しをする私自身、もう76歳になっていますので、元気と言うより老人ということなので、老人の元気の秘訣をお話しすることになります。先週は、あまり天気の良くない日が続き、たまたま快晴のお天気の日がありました。連れ合いのスミさんが、私に布団を干すように言うのです。布団を干すのは二階のベランダでありまして、一階から二階までふとを持って上がるのは、最近は大変になってきました。「少しは私が老人であることを考えてもらいたいねえ」なんてぶつぶつ言いながら布団を何枚も二階のベランダまで運んだのでした。まあ、老人でも何とかそれくらいはできるので、まだまだ頑張っているわけです。テレビを見ていると、元気が出る物の紹介が盛んにおこなわれています。民間放送はあまり見ないのですが、それでも興味がある番組は民間放送で見ています。今は、毎週土曜日になると渥美清さんの「寅さん」を楽しみに見ています。民間放送を見ていると、しきりにコマーシャルが出て来ます。多いのは健康器具とか、髪の毛のコマーシャルです。健康器具で元気になる様子を見せられますが、なかなか毎日続けられるかな、とも思っています。我が家にも自転車健康器具や足踏みの健康器具がありましたが、結局ほとんど使いませんで、廃品回収で持って行ってもらいました。
更に多いのは健康に良いというものです。グルコサミンとか青汁の宣伝をしています。それを飲めば健康になると言うわけです。分らないのは青汁のコマーシャルで、いろいろな栄養素が入っていると共に、乳酸菌が100億個も入っているというのです。100憶個も入っているので、元力士の舞の海さんが、「えー、100憶個も」と驚いている姿が紹介されます。乳酸菌が体に良いことは聞いていますが、100憶個も体に取り入れるということは、どういうことなのでしょう。100憶個も毎日飲むということになります。何だかよく分らないコマーシャルです。その他、身体に良いものだと言う物の宣伝があります。宣伝されているものは、みんな健康に良いと言うわけですから、それらを飲み続けたら死なないことになります。しかし、それらを摂取することで健康になり、元気が出るとの思いが増すのですから、まあ気持ちの元気が与えられるから、まったく否定しているのではありません。効果があるとか、無いとかではなく、それらを摂取しているだけで健康になっていると思えばよいのかもしれません。

 本日は娘の羊子が礼拝の奏楽をさせていただき、また礼拝後はピアノのコンサートを開かせていただいています。娘は昨年10月25日にサグラダ・ファミリアの教会で、本日こちらの礼拝に出席しているスペイン人のイグナシオさんと結婚しました。サグラダ・ファミリアカトリック教会です。その教会の神父さんが、結婚式の司式にあたり、羊子の父親がプロテスタント教会の牧師であることを知り、それでは一緒に結婚式の司式をしましょうと提案してくれました。ですからカトリック教会において、カトリック教会の神父さんとプロテスタント教会の牧師が結婚式の司式をするという前代未聞のこととなりました。今回、娘の羊子は彼を日本に連れてきたのですが、結局は各地でコンサートの開催となりました。清水ヶ丘教会で既にコンサートを開いていますが、京都の同志社女子大、また北海道にも行き、いくつかのところでコンサートをしています。本日はこちらで、明日は大塚平安教会でコンサートを開くことになっております。25日にはバルセロナに戻ることになっています。
娘がバルセロナにいるものですから、私達も何度かバルセロナに滞在しています。滞在して示されたことは、あちらの老人は元気に生活しているという印象です。サグラダ・ファミリアは東側と西側に公園があります。どちらも観光客でにぎわっていますが、東側の公園には老人たちの遊び場があります。あちらではペタンカと言う遊びがあります。鉄の塊を投げて競技するのです。あるいはボッチェという遊びもあります。これはボーリングみたいな競技ですが、球を転がすのではなく、重い木を立ててあるピンに投げるのです。私も経験させてもらいましたが、ピンまで届かないのでした。また、公園の端の方ではテーブルでいろいろなカードの競技をしています。プレイをしている人たち、それを囲んで見ている人たちが結構いるのです。バルセロには至るところにベンチが置かれています。そのベンチに座って、おしゃべりしたり、新聞を読んでいる老人が多いのです。バルセロナ中の老人が外で過ごしているという印象です。こういう人たちはカトリックの国ですから、日曜日になれば教会でミサをささげながら日々の生活をしているのです。そういう風景を見て日本に帰りますと、老人が外で過ごしている状況を見ることがありません。見るのはデイサーヴィスの車に乗っている老人たちであります。ひと昔前はゲートボールがはやり、公園等で楽しんで競技している姿を見たものです。しかし、今はゲートボールも見なくなりました。日本の老人はどこにいるのかと思います。しかし、老人がいっぱいいるところがあります。どこかといえば教会には老人が多くおられます。これらのみなさんは、もうずっと前から教会に来ているのです。それこそ若いときから教会の礼拝に出席し、それは今でも出席しつつ生活しているのです。私の父は浄土真宗のお寺に行っては法話を聞いていました。しかし、一年に数回行われる程度です。しかし、キリスト教の皆さんは毎週日曜日になると教会に出席されています。出席されては喜びながら帰られて行くのです。そのように示されますと、キリスト教の礼拝は「元気が出る」もとであるということです。その元気のもとを本日は示されているのであります。

本日の聖書はマタイによる福音書11章25-30節のイエス様の教えです。イエス様は最初に、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と神様に向けてお祈りしています。「これらのこと」と言っていますが、それは前の段落で示していることです。前の段落では、イエス様のお示しによって永遠の命へと導かれることでした。ところが、イエス様が永遠の命を示されているのに、全然聞こうとしない人々がいました。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」との姿を示しています。これは子供たちの遊びです。「結婚式ごっこ」の遊びをします。お祝いの笛を吹くと、子供たちは楽しく踊るのです。また、「葬式ごっこ」の遊びがあります。葬式の歌をうたうと、子供たちは悲しみを現すのです。そういう遊びを示しながら、子供たちは素直に遊びを喜んでいる。それなのにその遊びに加わらない人々を示しているのです。イエス様が神様の国に生きる喜びを教えているのに、無視しているのです。遊びに加わらない人々の責任を示したのでした。「これらのこと」と言っているのは、イエス様の教えを無視していることです。「知恵ある者、賢い者」には隠していると言いますが、イエス様の教えを聞こうとしない人々なのです。しかし、「幼子のような者」には示されているということです。幼子と言っていますが、社会の一般の人々です。当時、「知恵ある者、賢い者」といえば社会の指導者たちでした。聖書では律法学者、祭司、ファリサイ派の人々です。これらの人達は知識を誇りにしていますから、イエス様の教えは無視しているのです。従って、社会の一般の人たちがイエス様の教えをいただき、元気が与えられているのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が招いておられます。招かれる人々は「幼子」ですが、私達であるのです。イエス様が疲れを癒してくださるということです。また、重荷を取り去ってくださるというのです。私達が疲れるという場合、いろいろと力仕事をすることで疲れます。私達も時には力仕事をして、当然疲れてしまいますので、その後はゆっくり休養を取ることになります。温泉にでも入れば、随分と楽になります。このように体の疲れは、休養することで回復するのです。ところがなかなか回復しない疲れがあります。それは人間関係の疲れというものです。人との関係が精神的な疲労を重ねて行くのです。今はいろいろなハラスメントがあって、疲れてしまうことが多いのです。そのハラスメントは訴訟とうにより解決することができますが、決着するまでの日々は、やはり疲労が重なるということです。
エス様が「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい」と言っているのは、人間関係における疲れを持つ者、また重荷を負う者であるのです。その様な人間関係の疲れ、重荷をイエス様が請け負ってくださるというのです。イエス様はこうも言っています。「わたしは柔和なものだから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる」とも言われています。イエス様のもとに来れば、「休ませてあげる」と言いながら、イエス様は「私の軛を負いなさい」と言っているのですから、休みどころか、また荷物を負うことになります。「軛」と言うのは、牛や馬の首に横木をつけて荷物を引く道具です。「休ませる」と言いながら、さらに軛をつけて荷物を引っ張りなさいと言っているわけですら矛盾を感じます。そこで、イエス様の「軛」とは、いつもイエス様が教えておられる「あなたがたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」ということです。お友達を愛するということは楽しいことです。しかし、そのお友達は、私を無視することがあります。悪口を言うこともあります。その様な人を愛するのでしょうか。私たちはできません。いつも私に対して、変なことを言う人をどうして愛せるでしょうか。しかし、イエス様は、だから軛であると言っているのです。お友達との関係はその様な関係でありますが、そのお友達を見つめて歩むことが、軛を負うということなのです。私たちは私を無視する人は愛せません。悪口をいう人を愛せません。愛さなくても良いのです。いつも変なことを言う人に近づかなくても良いのです。しかし、イエス様の軛を付けるということは、いつもその人を心に示されているということなのです。愛することはできませんが、心にその人の存在を示されているということです。何とかしてその人と話をしなければならないとの自分もあるのです。イエス様の軛を負うということは、相手を自分の中で消し去ることではなく、自分の中で常に相手を見つめようとすることなのです。そこにこそ「安らぎ」があるとイエス様は教えておられるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われています。

 教会は老人が多いということですが、これらの皆さんはイエス様の軛を負いつつ歩んで来られたのです。さらに軛を負うために教会の礼拝に出席されているのです。イエス様の軛を新たにいただき、「もう一度、あの人を心に示されて歩もうか」との導きが与えられるのです。それにより元気が出てくるのです。「あの人は嫌い」、「あの人とは話さない」と言いつつ過ごしているとしたら、疲れは治らないということです。元気も出ないのです。
 私自身は76歳にもなる老人です。私は70歳になって、30年間務めた大塚平安教会を退任しました。その後は横浜本牧教会で半年間、留守番牧師をしまして、その年の2010年10月からはどこの教会にも属さない牧師になりました。当初は私の出身教会の清水ヶ丘教会に出席したり、連れ合いの出身である高輪教会に出席したりしていましたが、11月から六浦谷間の集会として、夫婦二人で礼拝をささげるようになりました。それ以来、今日に至るまで二人で礼拝をささげています。時には家族が出席し、また知人が出席しています。毎月第二日曜日は横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を担当しています。また、時々こちらの礼拝にお招きいただいています。礼拝をささげるということは、イエス様のお招きの言葉をいただいているからです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とイエス様が言われています。礼拝をささげるということは、イエス様のお招きの言葉をいただくためです。元気が出るのです。やる気が出てくるのです。教会の礼拝に出席されている皆さんは元気そのものです。
 どうか、私達は、これからも礼拝に出席し、「元気が出る」導きを与えられ、日々の歩みを喜びつつ歩みましょう。

<祈祷>
聖なる御神様。礼拝に出席して、いつも元気が出る歩みを導いてくださり感謝いたします。イエス様の軛を負いつつ歩ませてください。イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン。