説教「神様の御心をいただきながら」

2016年8月28日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第16主日

説教、「神様の御心をいただきながら」 鈴木伸治牧師
聖書、エレミヤ書28章12-17節
    ヨハネの手紙(一)5章13-21節
    ヨハネによる福音書8章39-47節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・164「こひつじをば」
    (説教後)讃美歌54年版・536「むくいをのぞまで」


 8月も終わりを迎えていますが、このところ「神様の御心をいただきながら」歩む皆さんを示されています。一つは、前週の8月21日は野毛山キリストの教会の礼拝説教にお招きいただき、務めさせていただきました。野毛山キリストの教会は、大塚平安教会在任中にも何度かお訪ねさせていただいています。しかし、お訪ねしたのは幼稚園関係であり、教会としてのお交わりではありません。今は奈良昌人先生が牧師として、幼稚園園長としてお働きです。昔、幼稚園にお訪ねした当時は、金児栄治先生が教会、幼稚園でお働きでした。金児先生は神奈川県におけるキリスト教幼稚園関係で力強くお働きでした。金児先生も私と同じ日本聖書神学校を卒業されています。しかし、私の方が数年早く卒業しているので、神学校の先輩になるのです。ところが、金児先生は私が卒業した神奈川県立商工高等学校を数年早く卒業しているので、高校の先輩になるのです。いつもお会いする度に、「先輩」であることを言いあっているのでした。金児先生は数年前に第一線から退かれ、今でも野毛山キリストの教会の牧師ですが、娘さんのお連れ合いの奈良昌人牧師が教会、幼稚園を担っているのでした。去る6月14日に「神の庭・サンフォーレを支える会」の総会が開かれたとき、奈良先生が礼拝説教にお招きくださったのです。幼稚園関係では何度かお訪ねしているのですが、教会の礼拝説教にお招きいただくのは初めてであり、喜んで務めさせていただきました。昔の建物を建て替え、新しい会堂になっていました。新しい教会の佇まいを示されながら、「神様の御心をいただきながら」建設されていると思いました。礼拝の初めと終わりに、平和の鐘が鳴ります。御心を示される準備であり、み心により送り出される鐘の音であると示されました。「神様の御心をいただきながら」、皆さんが信仰の歩みを導かれていると示されたのであります。
 もう一つは、8月19日ですが、昔からお交わりをしている牧師たちのお交わりがありました。今までは年末になると、一年の感謝ということで集まりました。ひと時は牧師夫婦の集いとして、温泉で宿泊していたのですが、皆さん加齢と共に、牧師だけが集うようになりました。数年前までは、わざわざ伊豆の河津温泉まで出かけて行きました、知り合いの割烹旅館があったからです。その旅館が閉鎖され、もう出かけないで近辺で開催することになったのです。いつもは年末に開催しているのに、この暑い夏のさなかに開催するのは、お互い、いつ亡くなるか分らないような年齢にもなっているからとのことでした。もうみんな70歳を過ぎている年齢です。今回は6人が集いましたが、そのうち4人は隠退しているのです。お互いにこれまでの歩みを理解しているので、その歩みを労ったり、後任の牧者の評価まで語らうのでした。一人一人の存在を示されるとき、「神様の御心をいただきながら」、神様の御用をして来たのだと示されました。それぞれいろいろな歩みをしてきました。聖書は、「神様の御心をいただきながら」歩む人々を証しているのであります。改めて、御心をいただく人生を示されたいのであります。

 旧約聖書預言者エレミヤが神様の御心をいただきながら、世の人々の不安を導いています。エレミヤ書に登場する預言者エレミヤは、聖書の国ユダの人々がバビロンという大国の前に不安におののいている状況で、御心に聞き従うよう説得しているのです。神様はエレミヤに申しわたしています。バビロンの国に抵抗するのではなく、今は降伏してバビロンに従うということです。しかし、ユダの人々はバビロンに降伏することなど考えもしません。むしろ対抗して戦う姿勢を持っているのです。神様はエレミヤに軛をはめさせます。「軛」とは牛や馬につけて、荷物を引かせる首輪の様なものです。エレミヤが軛を自分の首に付けるということは、バビロンによってこのようになるのだから、戦うのではなく降伏しなさいと勧告しているのです。これは神様の御心であるのです。小さな国ユダが大国バビロンと戦っても滅ぼされることは必定です。だから降伏してバビロンの王様に仕えなさいと神様が示しているのです。そのバビロンはいつかは滅びて行くのです。その時には解放されて、再び都の生活ができるというのです。エレミヤは神様に示された通り、自分の首に軛をつけ、人々に降伏を迫るのでした。すると、ハナンヤという預言者が登場します。ハナンヤは人々に、神様は2年のうちにはバビロンを滅ぼし、既に奪われている神殿の祭具を始め、バビロンに連行されている人々を解放する、というのでした。そして、ハナンヤはエレミヤがつけている軛をはずし、これを打ち砕いたのでした。バビロンによって軛をはめられないと人々に言うのです。そこでエレミヤはひとまず立ち去ります。
 しかし、神様は再びエレミヤに告げます。直接ハナンヤに通告することでした。すなわち、木の軛ではなく、神様は鉄の軛を用意しているということです。鉄の軛とは、バビロンに滅ぼされることです。ハナンヤの気休め的な預言ではなく、現実をしっかりと受け止めることなのです。いたずらに人々を安心させようとしていますが、置かれている状況は、気休めを言ってはいられないのです。結局、ハナンヤは偽りの預言者として死んでいくことになります。エレミヤの軛の預言は差し迫った状況であります。それでも指導者たちはエレミヤの示す神様の御心に聞き従うことなく、エジプトに頼ろうとしたりするのです。結局、ユダの国はバビロンに滅ぼされてしまいます。そして50年も長きにわたって囚われの身で過ごすことになるのです。ハナンヤのような預言者、一時的に気休めを言って人々に、あたかも神様の御心であると示す偽預言者が多くいました。エレミヤ書6章14節に、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」と示しています。あるいは7章4節に、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という。むなしい言葉により頼んではならない」と示しています。偽預言者たちが、我々には主の神殿があるから安泰であると言っていることに対する批判であります。エレミヤは神様の御心をいただく者として、偽りの預言者たちとの戦いを展開したのです。
 一時的な気休めを言う人々は、いつの時代も、どこの国にもいるものです。毎日のように「オレオレ詐欺」について報道されています。簡単に詐欺にかかってしまう人々には気の毒ですが、巧みな言葉、その言葉を信じればよいことがあるという、そういう言葉を信用してしまう場合が多いのです。人々の言葉はみんな詐欺であるとは言いませんが、人の言葉は信用できません。この時、何が神様の御心なのか、祈り求めることでありましょう。昔、私の母が詐欺にかかりました。私が外出しているとき、一人の青年が訪ねてきて、「お兄さんはいますか」と言われます。「お兄さん」と言われ、母は「ノブハルですか」と聞きます。するとその青年は、それからは「ノブちゃん、ノブちゃん」と言うものですから、母はわたしの友人だと思うようになるのです。結局、いくらかのお金が必要ということで渡したのでした。適当な言葉を言っては人々に希望を持たせること、今の世の中にも多くあるのです。何が神様の御心なのか、私達はいつも御心に従う姿勢を持ちたいのです。

 御心に従うのかと示されるとき、その反対は自分の思いに従うことでありましょう。主イエス・キリストは神様の御心を人々に示しているのです。それに対して、イエス様の御心に反対する人々がいるのです。今朝のヨハネによる福音書であります。ヨハネによる福音書8章には、罪の現場で捕えられた人を、人々がイエス様のところに連れて来ます。イエス様なら、この罪人をどう扱うかということです。聖書の人々は定められている律法、掟、規則によって歩んでいます。罪を犯した人は石打の刑が定められているのです。イエス様ならどうするかと迫っているのですが、人々はイエス様の答え方により訴える口実を作ろうとしているのです。すなわち、律法通り、罪人を石打の刑に処しなさいと言えば、人々の反感を買うことになります。しかし、赦してやりなさいと言えば、律法を無視しているということになるのです。どちらの裁定も不利になるということです。その時イエス様は、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない人が、まずこの人に石を投げなさい」と言われたのです。すると年長者から始まって、一人去り、また一人去って、結局誰もいなくなるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない」と祝福されたのでした。
 前週の聖書も今週の聖書も、その続きとして示されています。前週はイエス様が「世の光」として人々に御心を示されていることでした。今週もその関連で示されています。すなわち、人々はイエス様を排除しようとしている状況になっています。イエス様が神様の御心を示していることに対して、聖書の人々の先祖アブラハムを持ちだして、アブラハムは自分達の父であると言い、その父の教えに従って生きていると言っているのです。それに対して、イエス様は神様の御心に聞き従わないことは、人間の思いによって生きていると指摘しています。アブラハムは神様から祝福されたとしても、人間であることです。人間は自分の思いで生きるのです。アブラハムは全体的には祝福された人です。しかし、いつも神様に対して自分の思いで歩んでいる姿もあるのです。神様はアブラハムを祝福し、「あなたを大いなる国民にする」と約束されました。しかし、アブラハムとサラとの間には子供が生まれなかったのです。それで人間的な思いで、サラに仕える女性から子供を得ることになります。しかし、神様は約束どおり彼らに子供を与えるのです。その様なアブラハムでしたが、神様の御心に従ったアブラハムでしたので、祝福された存在として、その後の人々はアブラハムを父と称するようになったのです。神様の御心ではなく、父であるアブラハムに従おうとする姿勢は、イエス様によれば、人の思いに従うということです。その姿勢は悪魔であるとも言われています。「あなたたちは、悪魔である父から出たものであって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と厳しく示しています。
 イエス様が人々に対して悪魔を父としていると示されたとき、私達はイエス様の荒野の試練を示されます。イエス様は人々の前に現れるにあたり、荒野で祈りの40日間を過ごします。それが終わると悪魔が現れるのでした。40日間の断食なので、まず食べることの誘惑です。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と示されたのでした。人間の思いはまず「食べること」です。しかし、人間は、もちろん食べることが課題ですが、何よりも「御心をいただきながら」生きることなのです。次に悪魔は、イエス様を都の建物の一番高いところに連れて行き、「飛び降りろ」と言うのです。必ず神様が支えてくれるということでした。それに対してイエス様は、「神様を試してはならない」と悪魔を退けました。そして、悪魔はこの世の栄華をイエス様に示します。悪魔を拝むなら、これらの栄華を与えると言うのです。するとイエス様は、「退け悪魔、神様だけを拝むのだ」と言われたのでした。
 この悪魔の誘惑は、人間が持ち、望んでいることなのです。人間は悪魔の思いで生きようとしているのです。そういう意味で、「あなたがたは悪魔の子」であると示されたのです。「神様の御心をいただく」人生でなければならないのです。自己満足、他者排除の悪魔の姿勢は、私達の中に重く存在しているのです。その時、イエス様は「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と示されています。「神様に属す」ということが、私達の生き方であると示されています。その「属す」生き方が、いつも「神様の御心をいただきながら」歩むということです。と言っても、どのようにして「神様の御心をいただく」ことなのでしょうか。

宮城県の陸前古川教会で牧会していましたが、登米教会も牧会するようになっていました。登米教会には教会付属の幼稚園がありました。登米の町の唯一の幼稚園でした。町としても唯一の幼稚園なので、援助したいのですが、宗教法人としての幼稚園でありますので、公金を宗教法人に援助するわけにはいかないのです。それで町の要望もあり、幼稚園を学校法人に移行することにしたのです。教会役員会と町役場の人達による準備委員会が設立されていました。そういう状況で私が登米教会の牧師、幼稚園の園長に就任したのでした。準備委員会が発足してから、既に数年を経ており、なかなか具体的な方向が決まっていなかったのです。新しく造る園舎にしても、いろいろな意見が重なり、一つの方向にすることは困難でありました。私も何回か準備委員会に出席しましたが、これではいつまでたっても決まらないと示されました。町役場の人達は、やはり町の利益として考えていますし、教会の存在についてはあまり考えられてはいないのです。教会は少ない人数です。礼拝出席者も10人前後でした。幼稚園を運営しながら、何とか歩んでいる状況でした。そういう教会の実情は、準備委員会としては考えられないのです。とにかく学校法人にすることでした。そこで、私は教会の役員会に提案したのです。準備委員会を解散して、役員会が主体になって進めるということです。役員会は了承し、準備委員会を開催したとき、教会は一つになってお祈りをしました。神様の御心を求めて、何事も計画したのです。その姿勢が町の人達に理解され、ついに学校法人幼稚園が設立されたのです。「神様の御心をいただきながら」歩むこと、祝福の歩みとなることを示されています。
<祈祷>
聖なる神様。神様の御心により歩ませていただき感謝致します。神様の御心が人生の基であることを証しつつ歩ませてください。イエス様のみ名によってお捧げします。アーメン。