説教「心にかけてくださる存在」

2019年7月21日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第7主日



説教・「心にかけてくださる存在」、鈴木伸治牧師
聖書・ エレミヤ書38章7-13節

            使徒言行録20章7-12節
            ルカによる福音書7章11-17節
賛美・(説教前) 讃美歌21・482「わが主イエス、いとうるわし」
           (説教後) 讃美歌21・573「光かかげよ、主のみ民よ」

 


 前週の7月14日には山田満枝さんの記念会が青山教会で行われました。出席できませんでしたので、記念会を覚えさせていただきました。山田さんは6月13日、93歳で召天されました。私が神学校を卒業して、最初の教会が東京の青山教会でした。4年間でしたが、最初は伝道師として、そして副牧師として務めさせていただきました。山田満枝さんとは、その青山教会でお交わりが導かれたのでした。在任中は役員をされていました。教会でお会いしてのお交わり程度でしたが、その後は年賀状等をいただき、消息はいつも示されていたのです。青山教会の後は宮城県の教会で6年半務め、そして神奈川県の大塚平安教会に赴任しました。いつ頃からであったか覚えがありませんが、神奈川県の三崎にある高齢者ホームに入居するようになったということを伺っていました。そして、礼拝は三崎教会に出席しているといわれていました。そのホームからも、いつも年賀状をいただいていたのです。不思議なお導きであると思いますが、2012年7月から三崎教会の礼拝説教に招かれるようになったのです。もちろん、山田さんは喜んでくださり、当日の礼拝には出席されたのでした。そして、最初に三崎教会でお会いした時、ぜひお昼は一緒にということで、三崎のおいしいお寿司屋さんにご案内くださったのでした。三崎教会には隔月に招かれ、山田満枝さんもいつも出席され、そしてお昼はご一緒させていただいたのであります。この2年前くらいから礼拝には出席できなくなっていたのです。一度、ホームにお訪ねしましたが、大分わからなくなってこられたと思っていました。
 山田さんが召天されたことを示されたとき、山田さんとの再会は生命の回復を与えられたと思っています。昔のお交わりが、現実のお交わりとなり、信仰のお交わりが深められたと示されているのです。生命の回復と示されているのは、昔の出会いがそのまま導かれているということです。主にあるお交わりが現実になった時、生命の喜びとなり、それは生命の回復ということになるのです。人との出会いは、単にお交わりの喜びというより、私の存在が覚えられているということです。その意味では聖徒のお交わりが大切なのであります。イエス様を信じる者のお交わりは生命の回復が与えられるということなのです。それは自分を受け止めてくださる存在を知るからでありますが、何よりも神様がこの私を心にかけてくださっていることを知ることになるからです。

 神様の御心を真に受け止めて生命が回復されるか、拒否して滅びるか、旧約聖書は意味深く示しています。エレミヤ書38章は預言者エレミヤが神様の御心を無視する人々によって殺されようとすることが記されています。聖書の国、南ユダは大国バビロン、エジプトの狭間にあって揺れ動いています。バビロンに包囲されている状況でした。そこにエジプト軍が南ユダを助けるために軍隊を差し向けてくるのです。それを知ったバビロン軍は一時包囲をとき、撤退するのです。しかし、エジプト軍はすぐに引き上げて行ってしまうのです。そのような状況の中で、エレミヤはかねてより、バビロンに降伏することを勧告していたのです。バビロンと戦うのではなく、降伏して生き延びるということです。指導者達はエレミヤの預言が面白くありません。指導者達は王様に、エレミヤがバビロンに投降するように人々を説得しているが、バビロンに対抗する人々の士気をくじいているとして殺すよう進言します。王様はそれに応じるのでした。そこで今朝の聖書になりますが、指導者達はエレミヤを水溜の中に落としてしまいます。水はありませんが泥が溜まっているので、いずれは死んでしまいます。それを知った宦官のエベド・メレクは王様に、エレミヤを助けるようお願いするのです。王様は願を聞き、水溜からエレミヤを引き出させるのでした。
 指導者達は、エレミヤがバビロンに降伏することを人々に言っていることが面白くありません。しかし、バビロンに降伏することは神様の御心でもあるのです。ここでエジプトの力を得てバビロンに戦いを挑んでも勝つことはできないのです。エジプトを頼りにしていますが、救援に来たと思ったら、すぐに帰ってしまうのですから、頼りにならない国でもあります。ここはバビロンに降伏して、人々が生き延びることが大切なのであります。しかし、人々は降伏という道を選ばないでバビロンと戦うつもりでいたのです。エレミヤの預言を拒否するということは、神様の御心を拒否しているということです。このような指導者の中で、宦官エベド・メレクはエレミヤの救済を王に願い出るのでした。ということはエレミヤの預言を真に受け止めているのです。
エレミヤ書39章ではエルサレムが陥落することが記されます。結局、南ユダの国はバビロンに滅ぼされるのです。それにより多くの人々がバビロンに奴隷として連れて行かれるのです。今、わたしは塩野七生さんが書いた「ローマ人の物語」を読んでいます。無名のローマが、次第に力を帯びて各地を征服して行くことが記されていますが、日本の戦国時代も同じようでありましょうが、古代の人々の戦いは、相手を殺すか奴隷にするか、数万人を殺しつつ征服して行く状況が記されています。エルサレムの陥落でも多くの人々が殺され、そして降伏したものは奴隷としてバビロンに連れて行かれるということであったのでしょう。39章15節以下に、宦官エベド・メレクへの約束の言葉が記されています。メレクが王様に願ってエレミヤを助けたからでした。18節、「わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることなく、命は助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる」と記されています。神様の御心に従うことで、生命の回復が与えられたのです。御心を信じなかった指導者をはじめとする多くの人々が生命を失いました。

 「生命の回復」としていますが、神様の御心に従いつつ生きることが生命の回復であるということです。聖書の人々は、結局バビロンに滅ぼされて奴隷にされるのですが、たとえ苦しい状況になろうとも神様の御心を求め、御心に従って生きようとするとき、そこには希望が与えられ、苦しみの中でも力が与えられるのです。それが生命の回復ということです。信仰に生きるということなのです。
 新約聖書ルカによる福音書7章11節以下です。「やもめの息子を生き返らせる」ことが記されています。死んだ者が生き返るという驚くべきことが主イエス・キリストによってなされました。まさに生命の回復でありますが、死人の甦りを通して、イエス様ご自身の復活を示しているのです。復活のイエス様による新しい生命の回復へと導かれているのです。11節の前の段落ではイエス様が百人隊長の僕を癒されたことが記されています。病気で死にかかっていた百人隊長の僕に、イエス様はそばには行かないで、イエス様の言葉を与えて癒しているのです。そして、今朝の聖書は、イエス様は死んだ息子の棺に手を置いて生きる者へと導いているのです。
 イエス様はナインという町に行かれました。お弟子さん達、群衆も一緒でした。葬儀の行列に出会います。夫を亡くした女性の一人息子が死んでしまったのです、棺が担ぎ出されるところでありました。イエス様は悲しみにくれる母親を見て哀れに思われ、「もう泣かなくてもよい」と言って慰めるのでした。そして、棺に手を置き、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と声をかけます。すると死んだ若者は起き上がってものを言い始めたのでありました。この状況を見た人たちは神様を讃美し、「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民を心にかけてくださった」と言うのでした。そして、この出来事は周りの地方一帯に広まって行ったと記しています。
 ルカによる福音書は、この後、18節から洗礼者ヨハネの質問にイエス様がお答えになることを記しています。洗礼者ヨハネはイエス様より先に人々の前に現れ、神様の御心に従って生きるよう、悔い改めなさいと教えたのです。そして悔い改めた人々はヨハネから洗礼を受けたのです。イエス様もこのヨハネから洗礼を受けています。人間は罪ある存在として、イエス様は洗礼を受けたのでした。その時、ヨハネは躊躇します。まことの救い主であることを知っていたからです。ところが今朝の聖書の後の部分、7章18節以下には、ヨハネがイエス様に確認しているのです。ヨハネは自分の弟子をイエス様のもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねるのです。ヨハネの弟子が、イエス様が死にかかっている百人隊長の僕を癒したこと、ナインの女性の一人息子を生き返らせたことをヨハネに知らせたので、改めてイエス様の存在を確認したのです。
 ヨハネの質問にイエス様は答えています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、病気を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言うことをヨハネに知らせなさい、と言われたのです。主イエス・キリストにより、目の見えない人は見えるようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようになりました。病気が癒され、死人が生き返っているのです。ヨハネによる福音書9章に「生まれつきの盲人の癒し」について記されています。イエス様によって目が見えるようになった青年に、人々は不思議な思いでいます。「どうして見えるようになったのか」と言うのです。イエス様が「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われた時、そこにいたファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」と抗議します。イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのであります。私達は見えると言っていますが、自分の好みのものしか見ていないのです。イエス様と出会うことにより、自分の気持ちではなく、見なければならないことを見るようになるのです。自分の好みの音ではなく、聞かなければならないことの声が聞こえてくるのです。死者について言うなら、確かに私達は生きている存在です。しかし、本当に生きているのか。生きているものは喜びと希望を持って生きることなのです。人々と共に喜びつつ生きることです。イエス様との出会いにより、本当に生きた者へと導かれるのです。「生命の回復」が与えられるのです。生命の回復が与えられていると、今の状況が苦しくても、悲しくても、常に喜びつつ歩むことができるのです。

 「生命」は人が生きていることでありますが、聖書では生命をZOEとしています。ゾーエーは「生命」ですが、そこには「永遠の生命」の意味も含まれているのです。「生命の回復」は永遠の命への道が回復されるということです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)と聖書は示しています。主イエス・キリストの十字架の贖いを信じることが、生命の回復であり、永遠の生命へと導かれるのです。
 「心にかけてくださる存在」は主イエス・キリストであります。十字架の救いを信じて歩むこと、私の存在がいよいよイエス様によって受け止められていることを示されるのです。この信仰が私たちを永遠の生命へと導くのです。
<祈祷>
聖なる御神様。私たちを心にとめてくださり感謝致します。私たちも一人の存在を受け止めつつ歩ませてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。

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