説教「解放の時が近づいて」

2018年12月2日、六浦谷間の集会 
「降誕前第4主日待降節アドベント

説教・「解放の時が近づいて」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書33章14-16節
    ヤコブの手紙5章1-11節
     ルカによる福音書21章25-36節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・94「久しく待ちにし」、
    (説教後)讃美歌54年版・280「わが身ののぞみは」

 本日より待降節に入りました。降臨節降誕節アドベントとも言われています。主イエス・キリストが出現した12月25日の4週間前から始まります。キリスト教は今日からクリスマスに向けての歩みが始まりましたが、世の中もクリスマスに向けて準備が始まっています。先日まではハロウィンの飾りが賑やかに飾られていましたが、今度はクリスマスの飾りになります。今では各地で大きなクリスマスツリーが飾られるようになり、そのツリーを見るために多くの人が集まるのです。まあ、この一ヶ月はクリスマスの賑わいになりますが、12月25日を過ぎれば、あっと言う間に松飾りになります。お正月の飾りになるのです。お正月が終わると、今度はバレンタインの賑わいに移っていくのです。いろいろな楽しみを持ちながら過ごすことは結構なことですが、その意味を受け止めながら過ごしてほしいものです。やはり、クリスマスはその意味を知って迎えることに意義があるのです。主イエス・キリストが生まれたということは人々の知る所でありますが。それがどのような意味があるのか、知ってもらいたいのです。
 日本では大きなクリスマスツリーが飾られますが、街そのものがクリスマス飾りをすることはないようです。それぞれの個人的な飾りは賑やかですが、町そのものが待降節になるということはありません。スペイン・バルセロナの経験を思いだしています。クリスマス前、2014年に娘がバルセロナにいますので滞在しました。娘の連れ合いはスペイン人ですが、ある日、彼と共に散歩にでました。歩きながら上を指さしては説明していました。スペイン語が分からないので、指さした方向を見ますが、何を意味しているか分かりませんでした。道路の上の方には何やら飾られていました。何の意味か分かりませんでした。その日は、まだ待降節の前であったのです。そして、待降節になったとき、夜の道路は美しい電飾で飾られていました。なんだかわからなかったものは、この電飾であったのです。道路が続く限り、この電飾が飾られているのです。そして他の道路になると、また異なった電飾が続くのです。町そのものがクリスマスを待望しているのでした。市役所前には大きなクリスマスツリーが飾られていましたし、市役所前の広場は、大きな箱庭で、クリスマス物語が飾られているのです。箱庭のなかほどには、馬小屋にいるヨセフさんとマリアさんがいます、そして飼い葉おけが置かれているのですが、そこにはまだイエス様がいないのです。クリスマス前だからです。娘の羊子たちと共にフィレンツェを見学しました。教会の前の広場には等身大の馬小屋、ヨセフさんとマリアさんが置かれていましたが、やはり飼葉桶にはイエス様がいないのでした。まだクリスマス前であったからです。このようにクリスマス飾りを見つめつつ、イエス様のご降誕を待望している姿勢を示されるのでした。そしてクリスマスの当日は、教会のミサに集います。聖壇には赤ちゃんイエス様が置かれています。ミサが終わると、神父さんが抱く赤ちゃんイエス様にキスをして帰って行くのでした。神父さんはキスをした後は布でその部分を拭き、次の人のキスを用意をするので、忙しいようです。今までどこにもいなかったイエス様が、クリスマスと共に現れて、その喜びを分かち合うこと、いろいろと教えられたことでした。クリスマスは私たちを喜びへと導き、いろいろな束縛から解放してくれるのです。その解放の時が、いよいよ近づいてまいりました。

 「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」とエレミヤは述べています。今朝の旧約聖書エレミヤ書33章14節以下であります。今朝は33章14節からでありますが、1節には、エレミヤが獄舎に拘留されていたと記されています。エレミヤは神様の御心を力強く人々に告げました。時の社会に向かって、むしろ厳しく告げましたので、指導者達はエレミヤの言葉に腹を立て、彼を獄舎に拘留したのであります。従って、エレミヤ自身は苦しい状況にいますが、それと共にユダの国も苦しい状況にいるのです。いつも外国に脅かされていました。それで指導者達は強い国に頼ろうとするのです。それはバビロンでありエジプトでもあります。このエレミヤ書全体の中では、ユダの国がエジプトに頼ろうとすることに対して、断固反対をするのがエレミヤでした。バビロンが今にも攻めてくるような状況なのです。その時、人々は自分たちの生き延びる道を模索しますが、神様の御心に立ち帰ることはありませんでした。そのためエレミヤは、神様の御心に帰りなさいと繰り返し叫んでいます。帰りなさい、シューブを繰り返し人々に諭しているのです。そして、戦っても、外国に依存しても活路が開かれない状況において、むしろバビロンに降伏しなさいと示すのであります。そのエレミヤの言葉は指導者にとって面白くありません。しばしばエレミヤを獄舎に拘留していたのであります。
 エレミヤは獄舎の中から人々に希望を与えます。確かに、今は苦しい。しかし、その苦しみは神様が審判として与えているのであり、人々が御心に帰り、御心に立つならば、神様は平和をくださると示しているのです。「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」と示しています。神様の約束を信じて、日々の歩みをすることです。自分たちの力を強くして、それにより安心して生きるというのは、人間の傲慢な生き方なのです。人間の力は、どんなに国力を強くしても、滅びていくのであります。残るのは神様の御心なのです。今朝の新約聖書の中でも、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエス様は言われています(ルカによる福音書21章33節)。ローマ帝国がどんなに力を誇っても、やはり滅亡して行ったのであります。
 2010年当時のことですが、私はブログで石原慎太郎さんが文藝春秋12月号で「日本堕落論」と題して論文を書いていましたので、それを読んだ所感を三日続けて書きました。石原さんは日本がこんなに堕落しているのは、日本の敗戦のときにアメリカによってあてがわれた日本国憲法があるからだと論じています。日本国憲法九条は戦争放棄の条文です。日本は今後は絶対に戦争をしないし、軍備も持たないとしているのです。これを平和憲法といいますが、石原さんはこの平和感があるから、日本は堕落し、どうしようもなくなっていると論じます。今や、日本は世界の一員として核保有国にならなければ駄目だと言い、そのためには憲法を改正しなくてはならないとしているのです。そのためには勇敢に戦う壮士なる存在を求めています。三島由紀夫の割腹事件等も評価しています。そして、教育勅語を復活させ、子供たちには刷り込み教育が必要であると主張しているのです。要するに日本は、かつての軍国時代のように強くならなければならないと論じています。人間の力で強い国にしたところで、人間の力は滅びて行くのです。残るのは神様の御心なのです。今、エレミヤは神様の救済を示しています。今は苦しいあなたがたでありますが、神様が救い主を遣わして、あなたがたを平和な生活へと導くと示しているのです。今朝の聖書の前の段落になりますが、12節以下に示されています。「万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、またすべての町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる。再び、羊飼いが、群れをなして戻ってくる羊を数えるようになる」と平和な社会の到来を告げているのです。神様が人々を平和に導くのであり、人間が強くなって平和を実現するのではないとエレミヤは述べています。そのために、ダビデの若枝、救い主を出現すると預言します。あなたがたはこの救い主を待望しなさいと示しています。私の現実に救い主が到来するのです。主イエス・キリストの出現を待望しましょう。

 主イエス・キリストがお生まれになるクリスマスを待望するときになっていますが、今朝の聖書はイエス様が救いの完成に近づいているのです。十字架にお架りになる前に、イエス様は時の指導者の悪い姿を指摘しています。時の指導者とは、宗教社会ですから、ユダヤ教の律法学者、祭司、ファリサイ派の人々であります。ルカによる福音書20章45節以下に、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになっている」とイエス様が述べています。
 そして、今朝のルカによる福音書は21章の最初に「やもめの献金」について記しています。イエス様は神殿に行き、人々が献金をしている様をご覧になります。金持ちがいかにもたくさんの献金をしている姿を見ます。そして、貧しい女性が最も低いお金、銅貨二枚をささげているのをご覧になります。そして、「この貧しい女性がだれよりもたくさん献金をささげた」と言われました。「この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と説明されています。神様に身をささげてお祈りする女性を祝福されているのです。まず、神様に対する姿勢を示した後に、イエス様は終末について示しています。21章7節以下は「終末の徴」、20節以下は「エルサレムの滅亡を予告する」ことが記されています。ユダヤ教社会にあって、指導者達が悪い姿で横行していますが、この社会はいつまでも続くのではないことを教えているのです。この宇宙万物は始まりがあって今になっているのです。始まりがあれば終わりがあります。これは科学的にも考えられることです。そして、聖書は科学的な終末と共に、神様による終末を示しているのです。旧約聖書において、ノアの洪水によって悪なる人間が滅ぼされました。また、悪徳栄えたソドムの町も神様によって滅ぼされたのであります。単に神話を述べているのではなく、神様の審判を厳しく示しているのです。今朝の聖書も人間が人間を滅ぼし合うことを示しながら、神様がこの世に現れて審判を行うと諭しているのです。
 今朝の聖書は21章25節からです。「人の子が来る」と示しています。「人の子」とは主イエス・キリストご自身です。神様の終末の時には、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」というのです。イエス様は、今は現実におられてお話していますが、終末の時にはイエス様が再び現れることを示しているのです。時は迫っています。イエス様の十字架の救いの時は迫っているのです。十字架との関連で終末を示しているのです。主イエス・キリストを救い主として信じること、終末において十字架の救いを信じて生きる者は救われることを示しているのです。「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚ましていなさい」(36節)とイエス様ご自身が教えておられるのです。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエス様は教えておられます。

 アドベント待降節は、私たちが改めて主イエス・キリストがこの世に現れて、私たちを救われることを示される時なのです。既に十字架の救いを与えられ、洗礼を受けてキリスト者となり、御心に生きているとしても、クリスマスのメッセージを改めて示され、救いを確信するのです。「解放の時が近づいて」いる希望を増し加えて歩みたいのであります。
 「解放の時が近づいて」いるので希望を増し加えつつ歩むことがアドベントであります。それでは、改めて「主」について示されなければなりません。「主」とは説明するまでもない言葉ですが、「中心となる人、支配する者、ぬし」との意味で、存在の中心であります。戸主、主婦、店主と呼ばれるようになります。日本の昔、キリスト教では神様を天主様と呼んでいました。私たちの主なのですから、私たちを支配する存在であります。旧約聖書では神様の名前はエホバでありますが、「みだりに私の名を唱えてはならない」との十戒の教えがありますから、エホバを読み替えてアドナイ(主)と読むのであります。神様にお祈りする時も「主」なる神様にお祈りしているのであります。主の来臨は主イエス・キリストであります。私達を十字架の救いをもって導いてくださっているのが主イエス・キリストなのであります。説教者の中には、あるいは立証者の中には、「イエスが我々を救った」という言い方をしますが、イエス様は私達の貴い救い主なのであります。「イエス」と呼び付けの言い方はよろしくないのです。御自分の命をささげて、人間を救われ、導かれるお方を呼びつけにして良いのでしょうか。十字架の主イエス・キリストがこの世に出現されて、真の平和を実現してくださるのです。人間が作り出す平和ではありません。真の平和は「自分を愛するように、隣人を自分のように愛する」ことなのです。その愛を教えるために十字架にお架りになった主イエス・キリストの来臨を心から待望致しましょう。そして、心から「主」イエス様を告白したいのです。
 前週も紹介しましたが、大塚平安教会時代の角田敏太郎さんから喪中のご挨拶をいただきました。お連れ合いの真澄さんが今年の7月11日に、84歳で召天されたのでした。「喜びのうちに妻を主イエス様のみもとに送ったと信じています」と記されていました。その角田敏太郎さんが前週29日に召天されました。85歳であったかと思います。大塚平安教会時代、角田さんは教会の役員、幼稚園の理事等を担い、そのため、いつも角田さんと議論していたことが思い出されます。角田さんを示されるとしたら、この社会の中で、社会の悪と戦いながら歩んだと示されています。大塚平安教会の草創期から存在していた方で、教会の歩みを担って来られました。今は、角田さんの信仰において、「解放の時が近づいて」の喜びを持ちながら天国へと導かれたと示されています。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架のイエス様のお導きを感謝致します。「解放の時が近づいて」いる希望を増し加えて歩むことが出来ますよう。主の御名によりおささげします。アーメン。