説教「貧しい人に福音が」

2018年12月9日、六浦谷間の集会 
「降誕前第3主日待降節アドベント)第2主日

説教・「貧しい人に福音が」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書55章1-7節
    ローマの信徒への手紙15章4-13節
     ルカによる福音書4章14-21節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・95「わが心は」、
    (説教後)讃美歌54年版・263「よろこばしき」

 今年も早くも12月第2主日になりました。待降節は前週12月2日より始まっていますので、今朝はクリスマスを待望する第二日曜日です。12月になると一層イエス様のクリスマスが近づいてきた思いであります。特に今年のクリスマスは伊勢原教会の伊勢原幼稚園の園長を担っていますので、また違ったクリスマスを迎えています。昨年と一昨年は横浜本牧教会早苗幼稚園の園長を担っていました。2014年はバルセロナでクリスマスを迎えています。スペインのバルセロナに滞在中のクリスマスは、今までとは違った思いで待降節を迎えていました。バルセロナでも待降節、クリスマスの準備がありますが、日本の華やかな飾りに慣れているので、なんとなく物足りないクリスマスだなと思いました。日本の場合はデパート、商店、また個人の家庭でもクリスマス飾りが賑やかです。ショウウインドウなどにはクリスマス飾りで華やかです。街を歩けば、どこにもクリスマス飾りがあり、クリスマスソングも流れてきて、気分はひたすらクリスマスになるのです。しかし、バルセロナでは日本の様な華やかさはありません。しかし、クリスマスの電飾が結構街の中で輝いています。あるいはサグラダ・ファミリアの西側の公園にはクリスマス関係の店、屋台がたくさん出るようになりました。その店でクリスマスグッズや飾り物が売られています。クリスマスツリーも家庭に飾る家があるそうで、もみの木やツリーに飾るものも売られていました。
 今年は伊勢原幼稚園でのクリスマスです。前週は保護者のクリスマスの集いが行われ、礼拝ではお話しをさせていただきました。幼稚園は今週の土曜日にクリスマスのお祝いを行います。キリスト教主義の幼稚園は、クリスマスにはイエス様の降誕劇、ページェントを園児の皆さんが演じます。伊勢原幼稚園は少人数の幼稚園ですので、ページェントにしても大勢の園児がいる幼稚園とは異なっています。ページェントの中では、ベツレヘムに人口調査に赴いたヨセフさんとマリアさんが宿屋さんを探し回ります。宿屋さんは夫婦で対応し、だいたい三軒くらいの宿屋さんです。しかし、伊勢原幼稚園は園児が少ないので、宿屋さんは夫婦ではなく、主人が一人で対応します。それでも二軒の宿屋さんが登場しています。それはそれで現実に近いのかもしれません。園児が少なければそれなりのページェントを演じてイエス様のお生まれになられたことをお祝いするのです。
 楽しく、賑やかに迎えるクリスマスですが、このクリスマスは「貧しい人に福音」が与えられることなのです。「貧しさ」とは、生活の貧しいこともありますが、むしろ私達自身の貧しさなのです。イエス様が人々の前に現れて、神様のお心を示されたとき、まず示されたことは、「心の貧しい人々は、幸いである」ということでした。いつも生活の豊かさに埋没している私たちは、心が豊かなのです。心を貧しくして、神様のお心を満たさなければならないのです。心を貧しくしてこそ、真のクリスマスを迎えることができるのです。私の貧しさのためにイエス様がお生まれになられたことを示されたいのです。

 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」と招きの言葉が与えられています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」ということですが、水は人間にとって大切なものです。この水は人間に必要な水分でありますが、それと共に人間に必要な活力、神様からいただく人間の力なのであります。聖書は人間に必要な水が神様から与えられることを示しています。まず、旧約聖書創世記で天地が神様によって造られ、人間がエデンの園に住むことから始められています。そのエデンから一つの川が流れ出ています。エデンの園をうるおし、流れ出た川は四つの川となって行くのであります。ピション川、ギホン川、チグリス川、ユーフラテス川であります。これらの川は世界の隅々まで流れ出ていることを示しているのです。神様によって命の水が与えられていることを示します。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセを通して救われ、神様の約束の地を目指す途上、飲み水がなくて人々は不平を述べモーセに詰め寄ります。その時、神様は岩から水を流れさせ、人々の喉をうるおしました。エゼキエル書には神の都から「命の水」が流れ出ていることを示しています(47章)。詩編第1編の2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときがめぐり来れば実を結び、葉もしおれることがない」と示していますが、水すなわち神様の御心に生きることが祝福であることを教えているのです。
 イザヤ書が招きの言葉をもって始めているのは、今や神様の御救いが実現していることを示しているからであります。イザヤ書55章は第二イザヤによって書かれたとされています。イザヤ書40章から55章までで、バビロンに捕われている人々を励まし、慰め、希望を与えるのであります。もともと聖書の人々がバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されたのは、人々が神様の御心に従わなかったからであります。バビロン、エジプト、アッシリアという大国の狭間にあって、どの国に頼るかが最大の課題となり、神様の御心に従わなかったことでありました。バビロンに滅ぼされるということ、一つには神様の審判でもありました。バビロンに捕らえ移された人々は、改めて神様の御救いを待望するように導かれていくのであります。その働きをしているのが、やはり捕らえられ、共にバビロンにいる預言者、イザヤなのであります。そして、バビロンの勢力が弱くなり、ペルシャの国が強くなっている状況下で、今こそ神様がお救いくださることを示しているのです。神様の招きの言葉を聞きなさいと示しています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」と示しています。
 私たちは、この招きの言葉がイエス様によって私たちに与えられていることを知っています。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と示されています(ヨハネによる福音書4章14節)。
 このイザヤ書55章は「御言葉の力」として書かれています。神様の「招きの言葉」には力があります。神様がくださる御言葉は、この地上において人間の希望になるのであります。今朝の聖書55章11節、「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と示しています。「わたしの口から出るわたしの言葉も」と言われています。それは前の段落で示されています。すなわち、「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない」のです。「それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える」のであります。雨や雪が降ればむなしくならず、祝福を与えるように、神様の言葉も、人間に与えられるならば、むなしく神様のもとには帰らないと言われています。必ず祝福に変えられて神様のもとに帰るのです。今、イザヤを通して神様の「招きの言葉」が与えられています。その招きの言葉がどのように神様のもとに帰って行くのでしょうか。

 それが新約聖書の報告となっていくのであります。ルカによる福音書4章14節からが今朝の聖書です。ここでは主イエス・キリストが「ガリラヤで伝道を始める」ことが記されています。イエス様がお生まれになること、それはこのルカによる福音書の1章、2章で記されています。今朝はそのイエス様が世に現れることを記しているのです。今朝の聖書の前で、イエス様が誘惑を受け、悪魔と闘い、退けたことが記されています。神様の御言葉により悪魔に勝利したことが記されているのです。そして、今朝は神様の霊に満たされ、ガリラヤに帰えられたと記しています。すぐにもイエス様の評判が高まり、人々から尊敬されたとも記されています。
 イエス様はナザレに来て、ここはイエス様が育ったところですが、会堂で聖書を読まれました。それはイザヤ書61章1節、2節であります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を読まれました。イザヤ書の言葉とは少し言い方が異なりますが、救い主が人々に解放と回復、自由と恵みを与えるために到来したことを示しているのであります。
 旧約聖書で「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と預言されていますが、わたしの言葉とは、実に主イエス・キリストなのであります。イエス様が神様の言葉としてこの世に現れたことを示すのが聖書の証しであります。イエス様は、社会の中で弱きを覚えている人々の友となりました。当時の社会は因果応報の考えを持ちますから、病気であるとか、体が不自由であると、それは悪いことをしたからだと因果的に言うのです。目が見えない、先祖が悪い人であったとします。そういうことで差別を受け、排除されていくのです。また、社会的にも貧しい人々がいます。そういう人々も社会の隅におかれながら生きていたのであります。イエス様が神様の御言葉として現れた時、解放と回復、自由と恵みを人々に与えたのであります。
 このルカによる福音書には「ザアカイさん物語」が記されています。ザアカイさんは徴税人です。聖書の国ユダヤはローマに支配されていますから、ローマに税金を納めなければならないのです。誰もローマに税金を納めることは嫌がっています。まして徴税人になるのは嫌です。しかし、生活のためにもそのような仕事をする人がいます。ザアカイさんです。ザアカイさんは悪い人ではありません。しかし、人々はザアカイさんを悪者にしているのです。自分たちからローマのために税金を徴収するからです。ザアカイさん自身、自分は皆から悪者にされているという思いがあり、孤独に生きていたのです。社会から差別を受けて生きなければならないこと、ザアカイさんは本当につらい人生であったのです。そのザアカイさんがイエス様と出会いました。イエス様は積極的にザアカイさんに近づいてくださったのであります。イエス様と出会ったザアカイさんは、その後、心を開き、たとえ人々がなんと言おうとも社会の中で生きるようになったのであります。まさに解放と回復を与えられたザアカイさんでありました。
 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」のがイエス様であります。イエス様は、時の指導者の妬みにより十字架への道を歩みます。人々がイエス様の教えを喜び、心をイエス様に向けるようになった時、ユダヤ教の指導者達は妬みを起こし、何とかしなければ自分たちが浮かばれないと考えたのであります。十字架に付けてイエス様を無くすことです。こうした人間のたくらみに対して、神様は御言葉としてこの世に出現したイエス様でありますので、むなしくは死に至らしめませんでした。人間のどうしても救われない姿、自己満足、他者排除、この姿を神様が十字架で滅ぼされたのであります。従って、十字架によって抹殺されたイエス様ですが、この十字架から新しい命が生まれるようになったのであります。神様の言葉としてこの世に与えられたイエス様は、むなしく終わったのではありません。「むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と示される通り、人々の救いとなられたのであります。その主イエス・キリストの招きの言葉を聞きましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が招きの言葉をくださっています。

 「六浦谷間の集会」との名前で、自宅でありますが集会を始めました。第一回は2010年11月28日でした。今年で8年を経ております。礼拝開始後254回になっています。この8年間にもバルセロナに滞在したり、マレーシアに滞在したり、そして他の教会に招かれたりしていますので、それらがなければ、少なくとも400回くらいの礼拝になっています。夫婦二人で始めた集会ですが、時には家族や知人も出席されています。「谷間」というのは、四方山に囲まれて、あまり陽もささない場所であり、人々も忘れているような場所であります。「谷間の百合」という言葉がありますが、あの谷間でも百合が咲くというような印象があります。御存知のようにここは谷間とは言われない場所です。なぜならば昔は里山でしたが、そこにはいたるところに家が建ち、谷間どころか、上の家、下の家のような印象です。鈴木家がここに転居したのは私が4歳の時でした。追浜の浦郷というところに住んでいたのですが、そこには日本軍の追浜飛行場があり、戦争中で危険であるからと強制的に転居させられたのです。周りは小高い里山でした。少年の頃はこの里山で遊んで育ったものです。今は里山どころか家が建ち並んでいます。しかし、あえて谷間の集会としました。招きの言葉をいただき、神様の御言葉をこの体に宿している私たちは、たとえ人々に忘れられようとも、この社会の中に場所を得て生きているのです。それが谷間なのです。この集会、谷間に来てくださる皆さんが、孤立することなく、この谷間から希望を与えられ、この谷間から喜びと希望を持ってそれぞれ場で生きるのです。「貧しい人に福音が」与えられているのです。谷間に生きる私たちに、神様が福音を下さっているのです。
 <祈祷>
聖なる神様。神様の御言葉をくださり、お導きを感謝いたします。神様のお招きの言葉を受け止めて歩ませてください。主イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。