説教「神の国を歩む導き」

2020年1月12日、六浦谷間の集会
降誕節第3主日

 

説教、「神の国を歩む導き」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書42章1-9節

           エフェソの信徒への手紙2章1-10節
           ヨハネによる福音書1章29-34節
賛美、(説教前)讃美歌54年版121「まぶねのなかに」

          (説教後)讃美歌54年版228「ガリラヤのかぜ」



新しい年を迎えました。2020年の歩みが、祝福の歩みであった2019年を基にして、いよいよ祝福の年となることを願っています。
 何処の国でもいろいろな儀式を持ちつつ歩んでいますが、日本の国もお正月の儀式を持ちながら始められています。書初め、仕事初め、お稽古初め等が行われますが、考えてみれば、今までしていたわけでありますが、年が改まったということで気持ちを新たにすることなのでありましょう。思いを改めるということでもあります。年が改まるとき、いつも示される聖書はローマの信徒への手紙12章2節であります。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。常に心を新たにして神様に喜ばれる歩みをしたいと願っています。
 今朝は新年の二回目の礼拝としてささげていますが、キリスト教の暦で言えば、今朝からイエス・キリストの最初からの救いを示されるのであります。前週は1月5日の礼拝であり、まだクリスマスとしての歩みでした。前週の1月6日が公現日、顕現祭でありまして、東の国の占星術の学者達が、救い主としてお生まれになったイエス・キリストベツレヘムでお会いしたのであります。羊飼いは聖書の国の人々ですが、占星術の学者達は外国人であります。イエス・キリストの福音は、お弟子さん達のペトロさんやパウロさんの働きにより世界の人々に伝えられたのでありますが、むしろ最初から世界の人々に福音が与えられていたのであります。従って、12月25日のクリスマスよりも1月6日の顕現祭を重んじる国々があるのです。
 いつもお話をさせていただいていますが、2015年はその顕現祭をバルセロナで体験しました。2014年の10月21日にバルセロナに渡ったのですが、スペインのクリスマスを体験するために翌年の2015年1月7日まで滞在しました。クリスマスは1月6日の顕現祭までだからです。顕現祭には広場に大勢の人々が集まります。聖書では東の国の占星術の学者ですが、スペインでは王様になっていました。三人の王様が船に乗ってバルセロナにやってくるのです。その王様たちが広場に造られた舞台に座りますと、伴の者たちが人々にお菓子を配って歩くのです。王様の前では、イベントが行われ、それを囲んで見ている人々の歓声等で大変な騒ぎになります。本当はその模様を実際に見たかったのですが、娘の羊子が危険だから行かない方が良いというのです。それでテレビを見ながらその模様を知りました。本当に行かなくて良かったと思いました。顕現祭はクリスマスなのですが、三人の王様が中心であり、お生まれになったイエス様のことは何一つ言われないのです。日本のサンタクロース中心のクリスマスと言う印象でした。
 顕現祭が終わることによってクリスマスが終わることになります。従って、今朝の聖書からイエス様の救いのメッセージを示されることになるのです。クリスマスが終わったとき、聖書は、改めてイエス・キリストの最初からの救いを示すのであります。今朝はイエス様の洗礼が主題となっています。イエス様の洗礼を通して「神の国を歩む導き」を示されてたいのであります。

今朝の旧約聖書イザヤ書は「主の僕の召命」であり、ヨハネによる福音書は「神の小羊」の出現が示されています。これが今朝の「神の国を歩む導き」であります。神の国を歩むために、導く存在を与えておられことを示されるのです。クリスマスは救い主が世にお生まれになったということですが、その救い主が世に登場して、あなたがたに神の国を歩む導きを与えますよと教えているのです。
 旧約聖書には、神様が遣わす僕としていろいろな人が登場します。エジプトの奴隷から人々を救い出したモーセ、周辺の国々から苦しみを受けるときに立ち上がったのが士師たちでした。ギデオン、サムソン等が聖書の人々を救ったのです。そして、名君といわれたダビデがいます。偉大な王様であったので、もう一度ダビデの出現を願っていたのです。その後、預言者たちの働きがあります。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等の預言者たちが神様の御心を示し、人々に希望を与え、導いたのであります。
 今朝の旧約聖書イザヤ書であります。イザヤ書の背景は、聖書の人々がバビロンという国に捕われの身にあります。捕われの異国の空の下で、悲しみと苦しみの生活を余儀なくされているとき、預言者イザヤは神様のお心を示すのであります。あなたがたのために神様が僕を選び、あなた方を救うと宣言しています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言い、「彼の上にわたしの霊を置く」と言われています。神様が選んだ僕があなた方を救うというのです。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」と悲しみと苦しみに疲れ果てている人々に述べているのです。もともとバビロンに捕われの身になるのは、指導者の責任でもありますが、人々自身にも責任があるのです。歴史を通して導いておられる神様の御心に従わなかったからでした。しかし、神様はこの人々に主の僕を送り、助け出すというのです。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩くものに霊を与えられる」と示しています。すなわち、神様のお造りになった大地に生きる者には神様の息が与えられ、霊が与えられて力強く生きる者へと導かれることを示しているのです。
 神様が遣わす僕は人々に神様の息を与えると示しています。神様の息、これは創世記でしばしば教えられていることです。すなわち、神様は天地をお造りになりました。神様の言によって光が現れ、言によって天地が造られ、言によって植物、動物が造られていきます。そして、人間は最後に造られます。神様は土の塵で人を形づくります。いわゆる粘土で人の形を造るのです。しかし、それはまだ人間ではありません。その粘土で造られた人の形の鼻に命の息を吹き入れられたのでありました。「人はこうして生きる者になった」と記しています。神話物語ですが、ここに聖書の深い意味が示されているのです。人は生まれたままでは自己満足と他者排除の姿でしか生きられないのです。神様の息が与えられて、人間として基本的な歩みが導かれるのです。そして、この地を生きるとき、神様の霊が与えられ、人が共に生きる者へと導かれていくのです。神様の息を与え、霊を注ぐものとしての主の僕が現われますよ、とイザヤは人々に希望を与えています。これは預言の言葉です。しかし、人々は今に現われる主の僕の出現を待望しつつ、悲しみと苦しみに疲れ果てながらも、希望を持ちつつ歩んだのであります。そして、私たちはイエス様によって神様の息を与えられ、神様の霊、御心を与えられる者へと導かれているのです。

 その希望が実現しました、と証しするのが新約聖書ヨハネによる福音書であります。今朝のヨハネによる福音書1章29節以下はイエス様の洗礼について記しているのです。実はクリスマスから12日後にあたる1月6日はイエス様の洗礼日とされていました。12月25日に生まれて、12日後には洗礼というのでは早すぎますが、教会の暦的に受け止めていたのです。しかし、イエス様の洗礼日の意義が次第に薄れていき、顕現祭としての意義に変っていったのでありました。聖書の人々以外への救い主の顕現との意義が強められてきたのでありました。顕現祭でありますが、聖書はイエス様の洗礼を示しています。イエス様の洗礼は、旧約聖書で預言された主の僕の出現であるのです。
 ヨハネによる福音書はイエス様の洗礼が主題となっていますが、イエス様が洗礼を受けたとも、受けていないとも記していません。しかし、はっきり記していませんが、やはりイエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。ヨハネによる福音書によりますと、バプテスマのヨハネは、イエス様が自分の方へやってくるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、この方に霊が降ってとどまるのを見たと証しするのです。つまり、ヨハネによる福音書はイエス様が洗礼を受けたとはっきり記していないのですが、洗礼を受けることによって霊が降ったと証ししているのです。
 イエス様の洗礼については、例えばマタイによる福音書は、はっきりとイエス様が洗礼を受けたと記しています。マタイによる福音書3章13節以下、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』。しかし、イエスはお答えになった。『今はとめないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』。そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」と記されています。マタイによるメッセージは、イエス様がこの世に現われたとき、一人の人間として現われたことを示しています。
もう20年も昔になりますが、聖地旅行をしました。その時、イエス様が洗礼を受けたと言われるヨルダン川を見学しました。洗礼を受けた場所は広い池のようになっていました。私達が見学したときには洗礼の様子は見られませんでしたが、写真が展示してあり、大勢の人が洗礼を受けるために並んでいるのです。外国から洗礼ツアーのようにしてやってくるようです。やはりイエス様が洗礼を受けた場所で、自分も洗礼を受けたという信仰の励みとなるのでしょう。
 今朝のヨハネによる福音書1章29節以下は「神の小羊」として証ししています。ヨハネは、自分の方へイエス様が来られた時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。聖書にイエス様は神の小羊であるとしているのがヨハネのメッセージであるのです。旧約聖書以来、小羊は救いの基でありました。聖書の人々がエジプトで400年間の奴隷であり、その苦しみから解放するために、神様はモーセを立てて救われたのでありました。なかなか解放しないエジプトの王様に、モーセは神様の審判を行います。その都度、王様は解放を宣言しますが、審判がなくなると、かたくなになり、さらに過酷な労働をさせるのでした。そして、ついに最後の審判が行われます。エジプトにいる最初に生まれたものは死ぬという審判でした。エジプトには奴隷の人々もいるわけです。そのため、審判のとき、奴隷の人々の家の鴨居と入口の二本の柱に小羊の血を塗るように命じられます。審判が始まり、エジプトの最初に生まれた人が死んでいくという恐ろしい審判が始まったとき、小羊の血が塗られた家は、神様の審判が通り過ぎて行ったのでした。ついにエジプトの王様は解放を宣言したのであります。従って、小羊は救いの基となったのであります。ヨハネによる福音書は、イエス様が神様の小羊として、人々を救うために現れたと証ししています。

 新しい年を迎えたとき、人々は、やはり新しい思いを持って歩みだしています。そのために神社仏閣に行っては新年のお参りをいたします。お参りと言っていますが、お願いであります。そのお願いは、家内安全、商売繁盛、合格祈願といろいろな願い事です。人間として当然のことでありましょう。人間の素朴なお祈りかもしれませんが、神社仏閣でお願いをする、心からお願いしているのです。キリスト教でも礼拝、ミサでお祈りをささげていますが、礼拝に出席する人々は神様に向かい、心からお願いをささげているのです。神様のお導きを信じているからです。1月5日の六浦谷間の集会の礼拝で、鈴木スミさんが献金感謝のお祈りをささげたとき、鈴木星子さんの職場の友達が交通事故にあい、入院されていることで神様の御癒し、お導きをお祈りしていました。礼拝が始まる前に星子さんがスミさんにお話しをしたということです。人の救いと言うことは、現実的にも癒しを求めるお祈りでよろしいのです。
もう、随分と昔になりますが、陸前古川教会時代、隣の町から一人の老婦人が出席されていました。その老婦人に尋ねられました。教会では司会者が人々の祝福や世界の平和等のお祈りをしてますが、個人的なお願いをしてはいけないのでしょうか。私は病気を持っていますので、病を治してくださいとお祈りしてはいけないのでしょうか、と言われました。何か教会では個人的なお願いをしてはいけないように思われていたようです。その時、お話しをしました。お祈りは私たちの困難、苦しみを神様に申し上げ、癒してくださいとお祈りしてよいのです、病気を治してくださいとお願いしてよいのです、とお話をしました。その老婦人は、喜ばれつつお帰りになりました。きっと、いつも病気の癒しを神様にお祈りしたと思います。お祈りすることが、気持ちが楽になることは確かです。すぐに治るということではなく、癒される希望をもって歩むことができるからです。
私たちは聖書を通してイエス様の救いを示されているのです。私達にとって、「神の国を歩む導き」は、イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むことなのです。
<祈祷>
聖なる御神様、神の国を歩むお導きをありがとうございます。現実の歩みが常に祝福されますようお導きください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。

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