説教「喜びを知らされる」

2016年12月11日、横浜本牧教会
「降誕前第3主日アドヴェント第3週

説教・「喜びを知らされる」、鈴木伸治牧師
聖書・士師記13章1-7節
マタイによる福音書11章2-19節


  降臨節第三週となり、主イエス・キリストの光が一層近づいてまいりました。イエス様の光は私たちの喜びであります。心から喜びつつクリスマスをお祝いしたいと願っています。クリスマスをお祝いするということは、真の喜びを示されるからであります。
ところでクリスマスの時期になり、日本の国でも商店街を始め家庭でもクリスマスの飾りが賑やかであります。街を歩けばクリスマスソングが流れ、うきうきとした気分にもなります。そして、早くもクリスマスパーティーなどを開き、喜びあっているようです。一昨年の2014年はスペインのバルセロナに滞在していました。10月の半ば頃から翌年の1月7日まで滞在しました。スペインのカトリック教会のクリスマスを体験したかったのです。今年は11月27日から待降節アドヴェントが始まりました。バルセロナでは待降節が始まると同時に露天商が店を開けます。サグラダ・ファミリア教会の西側の公園の通りに露天商の店が建ち並ぶのです。クリスマス関係のいろいろなものが売られています。多く見かけるのはクリスマスに関係する人形です。ヨセフさんやマリアさん、羊飼いや博士、いろいろな動物達です。それらの人形を買い求めては家に飾るのです。ツリーも売られていますが、家庭ではあまりクリスマスツリーは飾らないようです。日本の商店はクリスマス飾りで賑わっていますが、バルセロナではあまりクリスマス飾りは見かけませんでした。むしろ夜の電飾がとてもきれいです。日本ではイルミネーションが賑やかですが、バルセロナでは通りに電飾がかけられており、それぞれの通りごとにいろいろな電飾を見ることができます。市役所前の広場には大きなクリスマスの箱庭が造られていました。ベツレヘムかと思うような大きな箱庭で、その一角に馬小屋があり、ヨセフさんとマリアさんが置かれています。バルセロナは海に面していますので、三人の博士が船で到着したところでした。これが待降節であります。ひとつ気がつくことは、ヨセフさんとマリアさんが馬小屋の飼葉桶の側にいますが、飼葉桶にはイエス様がいないのです。まだクリスマスになっていないからです。バルセロナ滞在中にも、イタリアのフィレンツェにも行きました。そこの広場にも大きな馬小屋が置かれていました。人間と同じ大きさのヨセフさんとマリアさんが馬小屋の中にいるのですが、そこでも馬小屋の飼葉桶の中にはイエス様がいないのです。人々は、この飼葉桶にイエス様が置かれることを待望しているのです。
 そしてクリスマスを迎えますと、飼葉桶にはイエス様が置かれているのです。そしてイエス様は教会の聖壇に置かれています。皆さんはクリスマスのミサに出席します。イエス様のご降誕を喜びつつミサをささげ、聖餐をいただき、そして帰っていくのですが、帰る時、神父さんが抱いているイエス様の人形の足にキスをして帰るのでした。一人の人がキスをすると、次の人のために、神父さんはキスをしたところを布で拭き、次の人がキスをするのでした。実は私もイエス様の人形の足にキスをしました。娘の羊子の知り合いの神父さんに頼まれて、その教会のクリスマス・ミサの奏楽をすることになりました。私たち夫婦も一緒に出席したのです。すると神父さんは、私も一緒にミサを司るように勧めてくれました。プロテスタントの牧師がカトリック教会のミサを司る、前代未聞ですが、これもお導きであると一緒にミサをしたのでした。ミサで奨励も致しました。娘の羊子がスペイン語に訳してくれたのです。そして最後は聖餐式です。神父さんが会衆の皆さんにパンを配り、皆さんは私が持っているぶどう酒にパンを浸していただくのでした。そして、その後は、皆さんは神父さんが抱いているイエス様のお人形の足にキスをして帰るのですが、神父さんは最初に、私にキスをするように促すのでした。クリスマスの習慣でもあるので、私もキスをしたのでした。こんなことが日本基督教団に知れると、私は教団から破門されますので、内緒であります。
 教会でミサをささげた皆さんは、クリスマスにイエス様がお出でになられたという実感を持ちつつ、そして喜びつつ帰っていくようでした。クリスマスのシーズンでありますが、まだイエス様はご降誕になられていないということ、そして、クリスマスにはイエス様にキスをする、そういう喜びを持って待降節を過ごしているのです。今は「喜びの知らせ」をいただいている時なのです。イエス様が私の現実に存在して、本当の喜びを与えてくださる、その「喜びの知らせ」をいただいているということです。

 今朝は旧約聖書士師記により示されています。士師という存在は強い人で、人々を救った人たちです。聖書の人々がエジプトで奴隷の時代がありました。実に400年間も苦しい歩みでありました。エジプトで奴隷であった人々はモーセにより奴隷から解放されます。そして、モーセと共に神様の導きの土地カナンへと荒れ野の40年間を歩みます。カナンを目前にしてモーセの任は終わり、カナン侵入は後継者ヨシュアに委ねられます。神様はカナン侵入に当たり、ヨシュアに全滅させることを命じますが、ヨシュアは全滅させることなく、カナンに定着していくことになります。聖書の人々がカナンに住み着くようになってから、現地の人々が力を回復していき、多くの場合ペリシテ人でありますが、聖書の人々に戦いを挑んで来るのでありました。それは地域的なものでありますが、その時立てられるのが士師といわれる人たちでありました。士師として人々の中心になって、敵なる存在と戦うのでした。今朝の士師はサムソンが生まれる予告であります。これまでもオトニエル、エフド、デボラ、ギデオン等が登場し、困難な状況の人々を救うのでありました。
 今朝の聖書、士師記13章1節に、「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを40年間、ペリシテ人の手に渡された」と記されています。聖書の人々はペリシテ人の支配に悩み苦しんでいるのであります。その叫びが神様に受け止められ、神様は一人の士師を立てようとしています。サムソンという士師です。マノアという人がいます。そのマノアと妻に天使が現われ、妻は子供が産まれなかったのですが、天使のお告げは「男の子を産む」と言うのでした。マノアもその妻もこの天使のお告げを聞くものの、それが天使だとは気がつきません。それで、マノアは天使に「お名前は何とおっしゃいますか」と聞いています。すると天使は、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議という」というのであります。まさにマノアと妻にとって、不思議なことが起きるのです。マノアと妻は、天使が天に昇っていく姿を見ることにより、自分達に与えられる子どもは神様によってであることを知るのであります。そして、この後にサムソン物語が始まるのですが、小説を読むように面白い筋書きです。今朝はサムソンの働きを示されるのではなく、サムソンの両親にお告げが与えられ、両親はそのお告げをいただいたということです。神様の不思議な「喜びのお知らせ」をいただいたということです。
不思議と思える「神様の喜びの知らせ」を受け止めた人がいますよ、と旧約聖書は示しているのです。この不思議と思える「神様の喜びの知らせ」をしっかりといただきなさい、と示しているのが新約聖書であり、今朝のイエス様の示しなのであります。

今朝の新約聖書は、イエス様より先に現れたバプテスマのヨハネについて示しています。そのヨハネは捕らえられて牢獄にいるのですが、その牢獄から自分の弟子たちによりイエス様に尋ねているのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねているのです。バプテスマのヨハネは主イエス・キリストより先に現れ、人々に神様のお心に生きるように示した人でした。それについてはマタイによる福音書3章に記されています。彼は「らくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていた」と言われます。当時、2000年の昔でありますが、その時代でも変わった姿でもありました。その彼が、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と声を大にして人々に示したのであります。人々はヨハネの叫びを受け止め、ヨハネから洗礼を受けたのであります。ヨハネは洗礼を授けながら、「わたしの後から来る方は、わたしより優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と主イエス・キリストの証しをしたのでありました。このヨハネは正義をはっきりと示す人で、時の王様の生き方を厳しく批判しました。そのため捕らえられて牢獄に入れられてしまいます。牢獄にいるヨハネがイエス様に聞いているのです。来るべき救い主はあなたなのですかと聞いているのです。自分の後から来る救い主を証ししたヨハネでありますが、改めて救い主として確認したのでありましょう。
その時、イエス様はヨハネから遣わされた弟子たちに答えました。「ヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と示しています。ここにクリスマスのメッセージがあります。福音を真に示されることがクリスマスなのであります。「目が見えない」ということは、私たちは「見える」と思っていますが、真実を見ないでいるのです。自分の好みのものしか見ていないからであります。イエス様は見るべきものを真に見させてくださるのです。聞かなければならない声を真に聞かせてくださるのです。希望をなくし、無気力となり、死んだような状況でありますが、真に生きるものへと導いてくださるのです。主イエス・キリストの福音は、私が一人の人間として生きることを導いてくださるのであります。クリスマスはその主イエス・キリストがこの世に現れたことを告げる日であります。その「神様の喜びの知らせ」を私たちはどのように聞くのでしょうか。
イエス・キリストは、洗礼者ヨハネに対して、救いの内容を示し、まさに自らが救い主であることを伝えました。牢獄の中で、確信ができないヨハネにはっきりと示しました。その時、イエス様はヨハネを人々に紹介しています。ヨハネこそ救い主を指し示したものであること、およそ人間として偉大であること、彼は旧約聖書で現れたエリヤにも等しい者であることを示しています。ヨハネの呼びかけに耳を傾けるべきであることをイエス様が教えているのです。まさに今の時代は子ども達の「ごっこ遊び」に似ていると言います。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」最初は結婚式ごっこです。喜びの結婚式には笛の音に合わせて一同が踊るのです。無関心でした。次に葬式ごっこです。悲しみの葬式の歌を歌うとき、泣きまねをするのです。それも無関心であるというのです。ヨハネが神様の御心を示したとき、その喜びの知らせをあなた方は聞きましたか、とイエス様は示しているのです。そして、ヨハネが知らせた救い主の喜びの知らせを聞きましたか、とイエス様は私たちに聞いているのです。今こそ、ヨハネのメッセージを聞くときなのであります。救い主が到来することを真に受け止めるべきなのであります。

 12月になり、クリスマスの時期になると、毎年のことですが、私の姉の生き方が心に示されます。姉は12月24日が誕生日でした。姉は68歳で天に召されました。15年間、病と闘いながらの生涯でした。母は既に永眠しており、病を患っている姉と97歳になる父とが身を寄せ合って生活していたのであります。姉は毎日のように日記を書いていました。12月24日の日記はこのように記しています。「6時15分起床。ここのところ朝とても冷える。今朝も3度だった。寒くても早く起きれて感謝。父より早く起きてストーブをつけてお湯を沸かす。今日は私の誕生日。もう65歳になってしまった。退院後元気になって誕生日を迎え感謝。神様の癒し、皆様のお祈りを心から感謝する。夕食にお寿司をとって父とささやかな誕生祝をする。食前の祈りを私がする。父は『アーメン』と言ってくれた。今日も一日守られて感謝」と記しています。父と姉が姉の誕生日ということで食前の祈りをささげている情景を思い巡らしています。父はキリスト教の信者ではありません。むしろ家の宗教が浄土真宗であり、何かとお寺に行っていました。そういう父でありますが、姉がお祈りをすれば共に「アーメン」と唱和していたのです。その父は翌年の4月に永眠したのであります。そして、姉自身も病が進行し、父の死から2年後に召天したのでした。私はクリスマスになると姉の信仰を示されます。父が亡くなってからはほとんど入院生活でしたが、毎日の日記は、必ず「今日も一日生かされて感謝」と記しています。姉の信仰を示されるとき、姉は朝になると馬小屋の飼葉桶にイエス様がおられるのを確認していたのです。そして、夕べになれば、イエス様に導かれて、今日も一日生きることができたと感謝しているのです。日々、飼葉桶にイエス様を迎えつつ過ごしていたのです。
 私の飼葉桶には、まだイエス様がおられません。しかし、私を支え、導き、共にいてくださるイエス様が飼葉桶に存在しますよ、との喜びのお知らせをいただいています。私の飼葉桶には何も置いてはならないのです。イエス様をお迎えするために、私の飼葉桶を空っぽにしておかなければならないのです。
「喜びの知らせ」の根源は主イエス・キリストが私たちを真に生かすために十字架にお架かりになったということです。十字架のイエス様が私のすべてを受け止めてくださっているのです。私たちは私の現実に対して、勇気を持って喜びつつ生きることが出来るのであります。だから、私の飼葉桶は空っぽにしておかなければならないのです。 
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の福音を感謝します。福音をいただくために、心を空っぽにして、イエス様のご降誕を待望させてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。