説教「まことの光」

2015年10月25日、三崎教会 
「降誕前第9主日

説教、「まことの光」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記1章1〜5節
    ヨハネによる福音書1章1〜14節
賛美、(説教前)讃美歌21・223「造られたものは」(1-4節のみ)
    (説教後)讃美歌21・511「光と闇とが戦うこの世」


 教会の暦というものがありまして、教会はクリスマス、イースターペンテコステの出来事を中心にしながら歩んでいます。クリスマスの前後は降誕節として歩みます。そしてイースターの時期は復活節として歩みます。復活節が終わりますと、ペンテコステ聖霊降臨節として歩むのです。それが教会の暦というものです。今年は5月24日がペンテコステ聖霊降臨祭でした。その日から聖霊降臨節として歩み、前週の10月18日の聖霊降臨節第22主日をもって終わりました。そして、今日からは降誕前主日としての歩みが始まります。すなわち今までは聖霊のお導きをいただきながら信仰の歩み、証の生活をしていましたが、これからは主イエス・キリストが世に現れることを待ち望みつつ歩むのであります。11月29日の降誕前第4主日からは、本格的に待降節として歩むことになります。ですから、本日からはクリスマスに向けての歩みとなるのです。
 昨年の今ごろはスペイン・バルセロナでクリスマスに向かいつつ過ごしていました。実はこちらの教会で、11月22日の礼拝に続いてピアノのコンサートを開かせていただく羊子が、昨年の10月25日にサグラダ・ファミリアの教会でスペイン人と結婚することになり、10月21日に私達夫婦と二番目の娘・星子とで赴きました。それと共に、結婚式が目的でありますが、今回はスペインのクリスマスを体験したかったので、年が変わって1月7日まで滞在しました。2011年には、バルセロナに一ヶ月半滞在したとき、春でしたので受難節、復活祭を体験しました。今回はぜひクリスマスを体験したかったのです。昨年は11月30日から待降節が始まりました。それまでは準備の時で、まだクリスマス飾りはありません。日本の場合は11月ともなればクリスマス飾りが始まりますが、やはりキリスト教の国ですから、教会の暦を守っています。待降節になりますと、通りには露店商の屋台が建ち並びます。クリスマスグッツを売る店です。店を建てても待降節にならなければ店開きはしないのです。それから通りにはイルミネーションがかけられます。これも待降節にならないと電気が入れられません。そして待降節になると、どこの通りもきれいなイルミネーションの輝きが見られます。イルミネーションと言っても、私達が見ているチカチカと点滅するものではなく、いろいろなデザインを施し、道路の上に飾られます。道路はイルミネーションのトンネルの様です。そして通りはみんな異なる電飾です。ですから夜の街を歩くのはイルミネーションを見ながらであり、楽しいものでした。一方、通りの露店商には大勢の人々が集まるのです。
 クリスマスの近くになると、日本でも至るところがクリスマスの飾りつけがありますが、むしろバルセロナでは日本のような華やかな飾りつけはありません、日本の場合はどこの商店もクリスマス飾りですが、バルセロナでは飾りつけはあまり見られないのです。むしろ、家の中にクリスマスの飾りがあるのです。露店商で売られている人形ですが、それらのイエス様、マリアさん、ヨセフさん、そして動物の人形を飾り、クリスマスを待望するのです。クリスマス・ツリーは家の中に飾り、店先に飾るのは少ないようです。それでもバルセロナには巨大なツリーが市役所前の広場に飾られ、クリスマス物語の箱庭が造られていました。印象としては、クリスマス飾りは日本の方が華やかであるということです。日本人はあまり意味を理解しないでお祭り騒ぎを取り入れるようです。
 今はハロウィンで賑やかになっています。これは古代のケルト人が10月31日を夏の終わり、冬の始まりとしていたということです、その日には死者の霊が帰ってくると言われています。日本のお盆の様です。それと共に悪霊や魔女も現れると信じられ、それらから守るために仮面を付けるということなのです。この行事がアメリカで盛んになり、日本でも騒がれるようになったようです。しかし、バルセロナでは全く騒がれていませんでした。むしろ11月1日の聖人の日が大切にされ、10月31日は聖人の日の前夜祭としてサツマイモや松の実のお菓子を食べる風習を体験しました。
 今朝からクリスマスを見つめながらの歩みが始まりましたので、クリスマスに関わることをお話しさせていただきました。クリスマスは「まことの光」である主イエス・キリストの出現であります。今朝はその「まことの光」を示されるのであります。

 本日の聖書は「創造」が主題になっています。そのため創世記とヨハネによる福音書が読まれています。宇宙万物をお造りになられたのは神様であると聖書は示しています。旧約聖書のはじめは創世記でありますが、そこに神様が天地を創造されたことが記されています。天地を創造されたのは神様であると言えば、非科学的であると批判されます。箱根の湯本に地球博物館があり、古代の動植物が展示されており、これらが進化して現代になることを示しています。しかし、人間は太古を遡れば遡るほど、天地の始まりについては何も言えなくなるのです。やはり神様が天地をお造りになったと言わさざるを得ないのです。もっとも、創世記の天地創造をもって、天地がこのように始まったというのは非科学的と指摘される通りです。しかし、創世記は天地の意味、人間存在の意味を深く示しているのであり、信仰をもって示されるならば、まさに大きな指針となるのであります。
 創世記1章1節以下、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されます。このような状況を、もちろん見たというのではありません。信仰をもって記しているのです。その何が何だかさっぱり分からない状況に神様が言葉を与えるのです。「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」と記しています。この後も神様は言葉を与え、「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ」と言われて、大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けられたと記しています。つまり古代の人たちは大空の上にも水があると考えたのです。水を支えているのは雲です。雲が破れて雨となるのです。さらに神様は言葉を与え、陸や海、動物、植物等を造られ、そして最後に人間を造られたのでした。人間が造られた時、神様は人間を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」と言われました。つまり人間は神様がお造りになった創造の世界を支配し、管理する使命を与えられていますよ、と創世記はメッセージを与えているのです。
 聖書には人間が造られる記録は二つあります。一つは、男と女が一緒に造られて、創造の世界を支配することでした。もう一つの人間創造は、神様は土の塵で人を形づくりました。まだ人間ではありません。その形づくられた鼻に神様の息を吹き入れられたのであります。すると形づくられたものは人になるのです。ここでは、人間は神様の御心をいただいてこそ、生きた者になるのであることを示しているのです。
 創世記のメッセージは、神様の言葉が形あるものになると言うことです。何が何だか分からない状況に神様の言葉が与えられる。形あるものが導かれて来ると言うことなのです。この社会、いろいろな自然災害、また人間による災害や苦難を思う時、一体どうなっているのかと思います。混乱した世界になった時、だからこそ、神様がこの社会に御言葉を与え、形あるものを導いてくださっていることを示されるのであります。神様はこの社会に御言葉を与えてくださっているのです。だから、御言葉をいただいて復興に立ち向かいたいのであります。神様がお導き下さっていることを信じて歩みたいのであります。

 太古の神話の世界を信じて、現代が歩めるのかと思うでしょうか。太古ではありません。神様は、たった2000年前に主イエス・キリストをこの世に出現させ、人間をお救いになっているのです。何万年前と言うのではなく、わずか2000年前なのです。決して遠い太古の時代ではないのです。ヨハネによる福音書は、マタイによる福音書ルカによる福音書のように、イエス様のお生まれになる状況、降誕物語は記していません。マタイやルカによれば、イエス様はヨセフさんとマリアさんの子として、聖霊によって生まれたと証をしています。その後は青年期が一部記されますが、30歳になられた頃に世の人々に現れ、神の国の福音を宣べ伝えられるのであります。しかし、ヨハネによる福音書はマタイやルカのように降誕物語は記しません。神様の言葉として現れたと証をしています。しかも、「言葉」ではなく「言(ことば)」としています。「言葉」は人が話をすれば、いろいろなことを言うので、葉っぱのようにたくさんになるわけです。しかし、イエス様は「言」として現れたのです。イエス様の「言」はあれこれ言っているのではなく、一つのこと、「救い」を述べているのです。その一つのことを私達は受け止めなければならないのです。
 ヨハネによる福音書1章1節以下、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されています。「言」と言われていますが、「言」を「イエス・キリスト」と読み替えればよろしいわけです。イエス様のこの世に現れた意味を示しているのです。ここで言われているのは、創世記において神様の言が天地を創造されたのでしたが、「言」すなわち主イエス・キリストはそこで創造されたのではなく、もともと神様の存在であり、造られたのでは無いということです。その「言」がイエス・キリストとして2000年前に、この世に現れたと示しているのです。この主イエス・キリストが世に現れ、神の国の福音を示し、十字架の贖いによって人間をお救いになったのであります。主イエス・キリストの十字架によって、人々は新しく創造されるのです。私達の内面的な所にある自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼされたことを信じるのです。イエス様がこの私をお救いくださったことを信じることにより、私が新しく創造されたということなのです。
 主イエス・キリストは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ福音書8章12節)と教えておられます。イエス様の教えをいただいて生きるとき、私達もまた光の存在として生きるようになるのです。「あなたがたは世の光である」(マタイによる福音書5章14節)とイエス様は私達を励ましておられます。イエス様の光をいただいて、私たちが光の存在になるのです。私が人々の光となる、こんな喜びはありません。いよいよ主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいて、光の存在として歩みたいのです。
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本日は10月25日でして、先ほども触れましたが、スペイン・バルセロナにいる娘が一年前のこの10月25日、サグラダ・ファミリアの教会でスペイン人と結婚式を挙げました。それで先ほどもスペインのクリスマスについてお話しをいたしました。バルセロナの市役所前の広場には大きな箱庭が造られていました。クリスマス物語の箱庭です。その箱庭にはマリアさんとヨセフさんが、生まれたイエス様を喜んでいるのですが、ここには既にイエス様が置かれていました。しかし、原則としてクリスマス前にはイエス様は置かれないのです。スペインはほとんどがカトリック教会です。もちろんプロテスタントの教会がありますが、少ないということです。クリスマス前の教会に行きますと、どこの教会もクリスマス物語が飾られています。馬小屋の中にマリアさんとヨセフさん、そして中心はイエス様が生まれて寝かされたという飼葉桶です。しかし、クリスマス前は、その飼葉桶にはイエス様がいないのです。バルセロナ滞在中にイタリアのフィレンツェに行きました。街の中心に大きなクリスマス物語が置かれていました。等身大のマリアさんとヨセフさんが飼葉桶を見つめているのです。しかし、その飼葉桶にはイエス様がいません。クリスマス前はイエス様がお生まれになっていないのですから、人々は早く飼葉桶にイエス様が寝かされることを待望しているのです。まさに待降節です。イエス様がお生まれになるのを心待ちにしているのです。
そして、ついにクリスマスになります。皆さんは喜びつつ教会のミサに集まります。聖壇には赤ちゃんイエス様の人形が置かれています。今までは、教会に行ってもイエス様が置かれてはいないのです。マリアさんとヨセフさんが飼葉桶を見つめているのであり、クリスマスムードが高まっているとしても、まだクリスマスではないのでイエス様はまだ置かれてはいないのです。そして12月25日になると、イエス様が聖壇に置かれるようになるのです。そのイエス様と共にミサに与るのです。御言葉を示され、聖餐式に与り、そして帰る時には、神父さんが抱いているイエス様の人形の足にキスをして帰るのです。神父さんはキスした部分をふき取り、次の人にキスをさせるのです。それがクリスマスの喜びなのです。日本の教会はクリスマスには祝会をして喜びあいますが、そういうことはありません。スペインのクリスマスはイエス・キリストが中心であることを示されたのであります。そのイエス様が私達に「まことの光」をくださり、私達の日々の歩みを喜びで満たし、希望を与えて導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。「まことの光」を与えてくださり感謝致します。光のあるうちに光の中を歩く導きを与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。