説教「光を見つめながら」

2020年10月11日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第20主日

 

説教、「光を見つめながら」 鈴木伸治牧師

聖書、ダニエル書12章1-4節

   コリントの信徒の手紙<二>5章1-10節

   ヨハネによる福音書11章1-16節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・213「みどりの牧場に」

   (説教後)讃美歌54年版・326「ひかりにあゆめよ」

 

 前週は、私の父の信仰の姿を紹介させていただきました。特別な信仰を持っていたのではありませんが、家には神棚、仏壇、台所の神様など、いろいろと祀られており、いつもそのような宗教的なたたずまいを示されていました。父にとりましては、それによって信仰の歩みが励まされていたのであろうと思います、ところで、キリスト教プロテスタントの信仰は、宗教的なものは何もおいてはいません。しかし、多くの場合、キリスト教の絵画等が飾られているでしょう。いわゆる神棚のような、拝む対象がないのです。しかし、カトリック教会の場合は、いろいろなキリスト教の像や絵が飾られており、それらに向かって拝んでいるわけではありませんが、いろいろな聖人の像や絵画によって信仰が励まされているのでした。プロテスタントの場合は、十字架が見える形の導きということでありましょう。十字架や絵画等によって信仰が導かれ、永遠の生命への喜びが示されてくるのです。

 日本のいろいろな宗教によって人々が導かれています。いろいろな行事は、それなりに人生を励ましていると示されています。仏教の諸行事を通して、やはり極楽浄土への道を示しているのであると示された次第です。キリスト教もクリスマス、イースターペンテコステと言う行事がありますが、それらの行事を通して永遠の生命へと導かれるのであります。人生をどのように生きるのか。私達は生きている今、その今は主イエス・キリストの救いをいただきながら歩んでいるのですから、「救いの光を見つめつつ」歩みたいのです。今朝は、改めてイエス様の「救いの光」を示されているのであります。そして、イエス様が示してくださる「永遠の命」へと導かれたいのであります。

 本日の旧約聖書の中で、ダニエル書は復活という希望を与えていますので、その示しに導かれたいのです。

 少しダニエルの物語を見ておきましょう。青年ダニエルは捕われ人としてバビロンに連れて行かれましたが、神様の導きのままに王様に気に入られることになります。ヨセフ物語と似たところがありますが、王様が見た夢を誰も解くことができません。導きのままに青年ダニエルが王様の不思議な夢を解いてあげるのです。それによりダニエルは王様に次ぐ高官になります。ダニエルの知恵はその次に就任した王様にも喜ばれていました。そのことが他の家来達の妬みとなります。何とかしてダニエルを失脚させようとするのです。それで、他の家来達は、王様に勅令を出すようお願いいたします。勅令というのは、「向こう30日間、王様を差し置いて、他の人間や神に願い事をする者は、誰であれ獅子の洞窟に投げ込まれる」というものでした。家来達はダニエルが日に三度、神様に祈りと賛美をささげていることを知っていたのであります。王様は勅令に署名します。早速、家来達はダニエルの様子を窺います。そして、ダニエルの祈りと賛美を見届け、王様に訴えるのであります。王様はダニエルを愛していましたが、自分が出した勅令に背いたのでありますから、止む無く家来達の思うつぼにはめられてしまうのであります。ダニエルはライオンのいる洞窟に投げ込まれてしまいます。王様はダニエルをライオンの洞窟に投げ込んだことで深い悲しみを持ち、食事もせず、その夜は寝ることもできませんでした。朝になると、すぐにライオンの洞窟に行きます。そして、洞窟のダニエルに呼びかけます。「ダニエル、ダニエル、いける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」と不安な声で呼びかけるのでした。すると、ライオンの洞窟からダニエルの声がしました。「王様がとこしえまでも生き永らえますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした」とダニエルは元気に言うのでした。すぐにライオンの洞窟からダニエルは救い出されたのでした。神様はどのような苦難に生きようとも救ってくださることを示しているダニエル書であります。

ダニエル書は、そのように迫害を受けて生きる人々を励まし、12章になって復活を示し、希望を与えているのであります。12章3節、「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」と示しています。だから、この困難な状況の中で神様を信じ、力強く生きなさいと示しているのです。

 今の状況を、神様の御心をもって生きるならば、「つまずくことはない」と示しているのが主イエス・キリストであります。ヨハネによる福音書11章は、ラザロの死と生き返りが主題のようでありますが、ラザロの生き返りは主イエス・キリストの復活の予告であり、復活の主が力強いお導きをくださることを示しているのであります。

 このヨハネによる福音書の背景にあるものはヨハネが指導する教会であります。ヨハネが主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、そこにヨハネの教会ができるのであります。それは紀元100年頃であり、キリスト教は成立していません。しかし、主イエス・キリストの述べ伝えた信仰は次第に広がって行きました。そのイエス様を信ずる群れをユダヤ教やローマの国が迫害をしていました。従って、ヨハネの教会も世から隠れるようにして信仰に生きていたのであります。ヨハネによる福音書に登場する主イエス・キリストは孤独な姿であります。人々から理解されなく、信じられない、そういうイエス様を示しているのです。そのイエス様の教えこそまことの道であり、私達を永遠の命へと導いてくださるのである、とを示すのがヨハネ福音書であります。

 「ある病人がいた」と書き始められています。その病人はマリアさんとその姉妹マルタさんの村、ベタニアの出身で、ラザロさんという人でした。このラザロさんが病気なので、マルタさんとマリアさんは親しくしているイエス様に知らせるのです。その時、イエス様は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と不思議なことを言われるのでした。この後、ラザロさんは死んでしまいます。イエス様は、死んだ後にラザロさんのもとに行き、死んだラザロさんを生き返らせることが、この11章の示しであります。それについては、後に示されることになります。今朝は前段階のイエス様の示しを与えられているのであります。

 イエス様はラザロさんの病気の知らせを聞いても、なお二日間同じところにいます。そして、ようやくラザロさんのもとに出かけるのでした。「もう一度、ユダヤに行こう」と言われていますが、ここでいうユダヤは都エルサレムのことであります。弟子達は心配します。都ではイエス様が石で殺されそうになったからであります。そこに行けば、再び危険な状況になるのであります。その時、イエス様は言われました。「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われています。昼のうちに歩くのか、夜のうちに歩くのか、大きな違いがあります。言うまでもなく、昼歩くというのは太陽の光の中で歩くのであります。夜は太陽の光はありません。太陽の光は、実に主イエス・キリストなのであります。今は明るい光があるのです。その光の時間をおろそかにするなら、暗い危険な状況になるのです。弟子たちにとって、今は確実に主イエス・キリストがおられるのであります。イエス様の光のうちに歩むならば、都に行けば危険があるとか、人間的な心配はないことを示しているのであります。イエス様の光のうちにあるならば、決してつまずくことがないと示しているのです。弟子達の人間的な思いではなく、イエス様の光の中で歩むべき方向を示しているのであります。「わたしは世の光である」と主イエス・キリストは導いておられるのであります。

 私たちは主イエス・キリストの光をいただいて歩んでおります。このイエス様の光に日々導かれている私達であります。この光の中で人生の終わりに至るまで歩みたいのです。

 本日は、日本基督教団は神学校日、伝道献身者奨励日としています。私の高校生時代は横浜の清水ヶ丘教会に出席していました。そして、10月の第二日曜日の神学校日に、礼拝の中で倉持芳雄牧師が、将来、伝道者として歩む決心をされている人はお立ちくださいと言われたのです。そのとき、常々将来の道を示されていましたので、私も立ちました。そのとき4、5名の若者が起立したのでした。その後、それぞれ神学校に入りましたが、私はなかなか神学校に入れませんでした。高齢になりつつある両親を思うと、その道には進めなかったのでした。そういう私を励ましてくれたのが、一番上の姉でした。「お父さん、お母さんとは、私が一緒に暮らすから、あなたは牧師さんになりなさい。」と言ってくれたのです。その励ましをいただいて神学校に入ったのでした。その姉は両親を見送り、2年後には召天しましたが、その姉が「約束を果たしたよ」と言っているようで、姉の励ましは今でも示されているのです。

 主イエス・キリストの救いの光を人々に示すこと、それが牧師の務めであると示されています。

 今日は私の家族のそれぞれの歩みをお話しさせていただきましたが、どのような状況でありましょうとも、私達はイエス様を信じ、イエス様の光を見つめながら歩んでいるのです。宗教的にも社会的にも、私達はいろいろな困難がありますが、「救いの光を見つめつつ」歩む人生であり、その人生は豊かな祝福へと導かれるのです。

 

<祈祷>

聖なる御神様。今朝もあなたの光へと導かれ、感謝します。いよいよ十字架の光により、力強く歩ませてください主イエス・キリストのみ名によりおささげいたします。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com