説教「豊かな人生を与えられつつ」

2020年10月4日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第198主日

 

説教、「豊かな人生を与えられつつ」 鈴木伸治牧師

聖書、箴言3章13-20節

   ローマの信徒への手紙11章33-36節

   ヨハネによる福音書14章15-24節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・204「すくいの君なる」

   (説教後)讃美歌54年版・506「たえなる愛かな」

 

 10月を迎え、やはり秋の深まりを示されています。秋を迎え、思うことは秋の味覚ということです。最近は秋の味覚、ナシであるとかブドウをおいしくいただいています。さらに冬のミカンも出始めて、楽しみとなりました。味覚の秋でありますが、信仰の道を歩む私たちにとりまして、秋は信仰をふかめる意味でも修養会が開かれるのであります。もっとも、そういう取り組みは、昔のことであり、今はコロナウィルス感染予防対策で、人が集まることは避けられており、修養会といえども開催することはできない状況です。しかし、私はこの修養会が信仰の出発点でもありますので、お話しをさせていただきます。

 私はこの修養会によって信仰の道を歩むようになりました。中学生時代から横浜の清水ヶ丘教会に出席していました。そして高校生でありましたが青年会の修養会に参加したのでした。修養会で、葉山ですから海水浴の時間があり、水泳を楽しむときがありました。みんなで泳いでいたのですが、気がつくと、私は牧師と並んで泳いでいるのでした。牧師と並んで岸辺に向かって泳いでいたとき、その時、自然に洗礼の決意を並んで泳いでいる牧師に告白したのです。泳ぎながらの洗礼の告白は、牧師も驚いたようでした。しかし、泳ぎながら喜んでくださり、「よかったね、よかったね」と言いながら泳いだのでした。それが8月のことであり、そして10月6日、その日は「世界聖餐日」であり、私の洗礼式が執行されたのでした。倉持芳雄牧師でありますが、洗礼の告白がよほど印象的であり、洗礼式の説教で、海で泳ぎながら洗礼の告白をしたことを長々と話すのでした。その後、神学生として講壇に立ったとき、紹介は「海で泳ぎながらの洗礼告白」でした。その紹介はまだ続きます。私たちが婚約式をしたときにも、結婚式をしたときにも「海で泳ぎながらの洗礼告白」は紹介されたのでした。

 修養会により、洗礼の告白が導かれました。泳ぎながらの告白でしたが、その修養会で信仰が導かれ、霊性が高められていたのです。それが告白へと導かれたということです。修養会を通して、今朝の旧約聖書箴言で示されるように、「神様の富と知恵」を知り、その道へと導かれたのでした。今朝のローマの信徒への手紙11章33節で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と示されていますが、主の御心を尋ね、求めれば求めるほど、このパウロの言葉になるのであります。どんなに私たちが修養しても、神様の深さ、高さ、大きさには、もちろん到達できません。しかし、その道に導かれていることを喜びたいのであります。そして、神様の富と知恵を求めて歩むことが「豊かな人生を与えられつつ」歩むことになるのです。今朝は、「神様の富と知恵」を与えられ、「豊かな人生」を歩みたいのであります。

 今朝の旧約聖書箴言3章13節からであります。「いかに幸いなことか。知恵に到達した人、英知を獲得した人は」と示しています。神様の知恵に到達した人は幸いであると示しているのです。「知恵」とは神様の御心であります。神様の御心に到達した人は幸いであると言っています。到達すると言われていますが、到達といわれると、私たちは、到達は無理だと思ってしまいます。なぜならば私たちは到達するどころか、まだ途上だと思っているからであります。到達した人は幸いでありますが、しかし到達できない私たちであるのです。すると、この箴言の言葉は困難な言葉として示されるのです。「いかに幸いなことか」と示されるとき、私たちは詩編の言葉を思い浮かべます。詩編1編1節、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどませず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」と示されています。幸いな人とは、到達した人と言ってはいません。幸いな人は、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人だと言うのです。そうであるなら、それは私たちが求めていることなのであり、幸いは私たちの中にあることを示されるのであります。到達は完成ではありません。まだ途上でありますが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人としての歩みが導かれているのであります。

 「いかに幸いなことか」と言い、一つは「知恵に到達した人」であり、もう一つは「英知を獲得した人は」であります。「英知」は「深遠な道理を知りうるすぐれた知恵」と説明されますが、聖書がこの言葉を使うとき、神様の創造の秩序を知るということでありましょう。それを別の言葉で言うなら、「神様の富」ということになるのです。すべてが神様の創造に与かっているからであります。神様の富を獲得することはできませんが、創造の恵みを知ることができるということでありましょう。「いかに幸いなことか」と示し、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさみ、神様の創造の恵みを喜びつつ生きる人を示しているのです。14節、「知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる」と示しています。「彼女」とは「知恵」のことであります。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人の果実は金にまさるというのです。あるいは17節、「彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどっていくことができる」と示しています。ここでも「彼女」は「知恵」であります。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、平和のうちに人生を生きることができると示しているのです。

 箴言は、神様の「富と知恵」、すなわち「創造の恵みと御心」に生きることが、どんなにか祝福であるかを示しているのです。今朝の箴言は3章12節からでありますが、3章3節に、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」と示しています。先ほどの詩編では、「教えを昼も夜も口ずさむ人」と示しています。私たちが、私たちの生きる根源から離れないための努力が必要であることを教えているのです。その努力がないと、神様の「創造の恵みと御心」から離れてしまい、祝福されない人生になりますよ、と警告しているのです。

 旧約聖書に示されることは、「教えを昼も夜も口ずさむ人」であり、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」でありました。これらは人に求められる努力であります。努力を怠ると祝福に与れないのです。しかし、私たちは自分で努力しますが、限界も知ることになるのです。時には投げ出してしまうこともあるのです。

 この時、私たちは主イエス・キリストの導きをいただいております。今朝のヨハネによる福音書14章15節以下の示しに励まされましょう。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と示されています。イエス様は、今はお弟子さん達に別れの説教をしていますが、この後、捕らえられ十字架に架けられるのです。死んで葬られ、復活して天に昇られるのです。するとイエス様がいなくなってしまうわけですが、ここで示されていることは、「別の弁護者」が神様から遣わされるということです。それは真理の霊であります。別の弁護者と言っていますが、イエス・キリストが霊の存在として遣わされるということなのです。19節、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と示しています。十字架に架けられて死んでしまったイエス様を、世の人々は忘れていくのです。「去る人は、日々に疎し」と日本でも言われるところです。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる人々は、再びイエス様とまみえるのです。弁護者として、真理の霊として、私たちと共におられることを示しているのです。

 再びイエス様とまみえておられる方を示されています。最近、「追悼文集」が送られてきました。「相浦和生先生追悼文集」です。相浦先生のお連れ合いから送られました。相浦和生先生とは、特別に親しくお交わりをしたのではありませんが、特別な出会いを与えられています。1979年に大塚平安教会に赴任しましたが、それから数年後であったと思いますが、牧会者共同研修会に参加しました。これは日本基督教団の主催で、現場の牧師たちの研修会ですが、何を研修するか決められてなく、集まった人々によって学習が決められるのです。そのとき、相浦和生先生も参加しておられたのでした。しかし、その後、相浦先生とはお会いすることはありませんでした。お会いしないままお交わりが深められたということです。2013年にマレーシアのクアラルンプールのキリスト教日本語集会のボランティア牧師として三ヶ月でありましたが、勤めてまいりました。その集会は2012年3月までは前任の牧師がおられましたが、退任されました。そのため、日本基督教団の隠退牧師がボランティアで務めるようになったのです。その集会の最初の牧師が相浦和生先生でした。私は五番目の牧師でしたが、最初の相浦先生が、いろいろとメモを残してくださっていましたので、なんとかお勤めを果すことができたのです。私たちが在任中に、娘の羊子のチャペルコンサートを開くことができたのですが、そのとき、相浦先生が私や娘の羊子について役員会に紹介してくださったのでした。そして、その後、羊子が関西でコンサートを開いた際、ご夫妻でお出で下さり、羊子ともお交わりくださったのでした。

 一人の伝道者が天に召され、その追悼集が発行されたとき、生前、イエス様の十字架の

救いを人々に示され、そして今はイエス様の豊かな祝福をいただいていることを示されているのです。まさに「豊かな人生を与えられつつ」お働きになられました。私たちもまた、「豊かな人生を与えられつつ」歩んでおりますことを示されたのであります。

<祈祷>

聖なる神様。神様の御心を御示しくださり、豊かな人生へと導かれ感謝致します。神様の富と知恵を求めて歩ませてください。イエス様のみ名によりおささげ致します。アーメン。

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