説教「喜びの種がまかれる」

2022年2月13日、六浦谷間の集会

降誕節第8主日」       

                      

説教・「喜びの種がまかれる」、鈴木伸治牧師

聖書・箴言2章1-9節

   コリントの信徒への手紙(一)2章6-10節

   マルコによる福音書4章1-9節

賛美・(説教前) 讃美歌21・288「恵みにかがやき」

   (説教後) 讃美歌21・575「球根の中には」

 2月の半ばを歩んでいますが、教会の暦はこの時期になると受難節となることが多いのです。昨年の場合、受難節は2月17日から始まっています。40日間、イエス様のご受難、十字架の救いを仰ぎ見ながら過ごすのであります。しかし、今年はイースター、復活祭が4月17日になりますので、受難節が遅くなっているのです。今年の受難節は3月2日からになりますので、昨年よりも二週間遅くなっています。遅くなっている分、イエス様の教えをいただくことになるのです。私達の人生の支えを示してくださり、御心をお示しくださっては私達に人生の指針を与えてくださっているのであります。

  明日の2月14日はバレンタインデーという日です。バレンタインという呼び名は人の名前ですが、今はチョコレートの日になっています。スーパーにしてもコンビニにしても、もう一ヶ月前からチョコレートが並べられていました。バレンタインさんというキリスト教を宣べ伝える人がいました。一般的な説明は、ローマ帝国時代のことですが、若者が戦いに行かなくなったのは、結婚するからだとして、結婚を禁止したのでした。しかし、その若者の結婚式をしてあげていたのがバレンタインさんでした。そのことで捕らえられ殉教したということです。しかし、これとは別の言い伝えもあります。これはキリスト教例話集で紹介されていました。バレンタインさんは修道院にいました。他の修道僧たちは歌が上手で、美しく讃美歌を歌い、イエス様の福音を伝えていました。また、ほかの修道僧は聖書の絵を描いてはイエス様の教えを伝えていたのです。しかし、バレンタインさんは何の特技もなく、そのことで悩んでいたのです。ところが、知り合いに手紙を送ったところ、それがとても喜ばれたことで、それからは手紙を書いてはイエス様の愛を伝えたのでした。その愛の手紙がチョコレートと結ばれて今のようになったようです。こちらの方が意味のあるお話であると思います。バレンタインデーはイエス様の愛を示される時なのです。イエス様の愛の種がまかれていると示されたいのです。

 その人生の指針を旧約聖書が示しています。まず、旧約聖書箴言の示しをいただきましょう。箴言は針の言葉であります。針のようにちくちくと私たちの心を刺します。それは神様の御言葉が真実であるからであり、偽りがある私たちの心を刺すのであります。箴言とはそのような意味合いで記されているのです。箴言は神様の知恵を私たちに示しています。知恵と言う場合、長い歴史の中で培われてきた事柄であり、生きて行く上に大変便利であり、生活の糧になる場合を考えます。例えば、漢方と言い、長い歴史の中で人間のためになる薬草等は知恵の産物でもあります。先祖代々にわたり、培ってきた生き方があり、歴史に育まれた知恵であります。

 「健康十訓」という格言があります。手ぬぐいに書かれてもいました。以前のことですが、旅行した際、土産物屋で売っていたので、面白いので買い求め、部屋に掲げていました。健康のためにこのように努めましょう、というわけです。「小肉多菜」の説明は「お肉ほどほど、野菜たっぷり、健康もりもり」ということです。「少憂多眠」の説明は「くよくよしたって同じ、とっとと寝てしまおう」ということです。なるほどと思います。このような人生訓、あるいは格言というものは、生活から生まれてきた人間の知恵でもあります。それはそれで参考になりますが、私たちの命そのものを導くものではありません。この私を一人の存在として真に生かす存在、主イエス・キリストの教えに向かいたいのであります。

 聖書で知恵と言う場合、人間の長い経験で生み出されたものではなく、神様の御心をいただくことが知恵ということなのです。箴言2章は「父の諭し」とされています。父親が子どもを諭す設定で神様の御心が示されているのです。「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向って声を上げるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう」と示しています。御言葉に向う姿勢を導いているのです。示される御言葉に全身を傾け、そこから指針をいただく姿勢です。神様のお示しに全身を向けるなら、「神を知ることに到達するであろう」と示されています。そして、「知恵を授けるのは主」であると断言しています。人間の経験から生まれることではなく、神様のお心が知恵であり、人間が祝福の人生を歩むことへと導かれるのであります。

 箴言1章7節に「主を畏れることは知恵のはじめ」と示しています。神様に心を向けることが、知恵ある生き方へと導かれることを示しているのです。従って、この箴言は「父親の諭し」とあるように、親が子に、高齢者が若者に知恵を示し、祝福の人生を促しているのです。その知恵をいただいて生きるとき、ただ教えられたことを聞くのではなく、その教えの意味、その教えの奥にあるもの、それを自らが尋ねるとき、知恵の力が増し加わるのであります。

 主イエス・キリストは神様の教えを多くの人々に教えて人生の指針を与えておられます。その中で心から御言葉に向かうことを導いておられます。今朝の聖書はイエス様が具体的な教えをされておられます。イエス様の種を蒔く人のたとえを示されましょう。

 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と始められています。種を蒔いていると、ある種は道端に落ちたということです。聖書の時代の種蒔きと言うのは、バラバラと蒔くのです。日本の場合は、畝を作り、丁寧に蒔いていきます。バラバラと蒔くので、種によっては風に乗って別のところに落ちるのです。道端に落ちる種もあります。道端に落ちた種は鳥が来て食べてしまったということです。他の種は、石だらけの土の少ないところにおちました。これは畑の端のほうで、そこはあまり耕してもいないので、土の下は石がたくさんある状態でした。すぐ芽を出しますが下からの水分がなく、太陽の熱で涸れてしまうのであります。そして、他の種は茨の中に落ちました。茨は雑草の生えているところです。畑と道端の境が茨の状態です。そこに落ちた種は、茨が生えているくらいですから芽が出るのです。しかし、茨に邪魔をされて実を結ばないのであります。そして、多くの場合、種は良い土地に蒔かれるのです。そこでは芽生え、育ち、豊かな実を結ぶということであります。「あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった」と言うことです。このたとえ話をされたイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われ、人々へのお話を終えるのであります。このイエス様のたとえ話を聞いた人々は、このお話をどのように受け止めたのでしょう。面白いお話と思う人、当たり前のことを話していると思う人がいたでありましょう。お話しの奥義を求めなければなりません。

 この種を蒔く人のたとえ話は、御言葉にどのように向くかを示しています。神様の御言葉を、よく耕された良い土地として受け止めるならば、祝福の成長があるということです。御言葉をいただく姿勢です。旧約聖書で示されているように、神様のお心に向くこと、それが知恵であり、生きる祝福になるのであります。ここで、注意しなければならないのは、この種を蒔く人のたとえ話を示されて、自分は道端である、石だらけの場所である、茨のような場所であると思ってしまうことです。だから私は御言葉が育たない、信仰が薄いと結論付けないことであります。ある場合には道端のような時もあり、石だらけの土地のような状況にいることもあり、茨の土地のような状況であることもあります。しかし、多くの場合、私たちは良い土地として、御言葉をいただき100倍の祝福へと導かれているのであります。神様に心を向ける限り、良い土地の状況なのです。知恵が与えられる状況なのです。

2月14日はバレンタインデーということで、先ほどもバレンタインさんの証しを示されました。この2月14日に召天された方のお証しを示されましょう。お仕事の関係で礼拝には出席できなかったのですが、定年退職になり、それからは毎週礼拝に出席されるようになりました。礼拝が終わりますと、突然立ち上がり、「私は聖書の言葉に励まされています」と言い、大きな声で聖書を読むのでした。多くの場合、マタイによる福音書の、イエス様の「山上の説教」の教えです。礼拝が終わったので、皆さんは立ち上がって帰ろうとしていたのですが、しばし、その方の聖書の朗読に耳を傾けているのでした。喜びの種がまかれているという証しであると示されていました。

<祈祷>

聖なる神様。神の国に生きる者へと導いてくださり感謝いたします。御言葉に向かい、100倍の実を結ばせてください。主の名によって。アーメン。

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