説教「豊かな人生を与えられつつ」

2016年9月18日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第19主日

説教、「豊かな人生を与えられつつ」 鈴木伸治牧師
聖書、箴言3章13-20節
    ローマの信徒への手紙11章33-36節
    ヨハネによる福音書14章15-24節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・169「きけよやひびく」
    (説教後)讃美歌54年版・537「わが主のみまえに」


 秋を迎え、やはり思うことは秋の味覚ということです。テレビでも秋の味覚として栗の収穫を報じていましたが、これからお米の収穫、野菜の収穫等が続くのでしょう。とはいうものの、今年は相次ぐ風雨被害で収穫が減少しており、野菜も収穫が少ないので高値で売られているようです。穏やかな秋の日照りを願っている次第です。私たちの体を養ってくれる収穫物ですが、私自身を養う神様の御心をいただくことが中心とならなければなりません。その意味で、教会は秋になると修養会を開催します。大塚平安教会時代も毎年のこと、秋になると修養会を開催していました。しかし、前任の大塚平安教会時代、「修養会」との名称は古めかしいというので、「学びと交わりの集い」と称していました。しかし、長年の間、「修養会」と称してきましたので、つい修養会と言ってしまいます。呼びやすい面があるからです。修養会ですから、信仰の修養をする集いであるのです。「修養」とは「徳性をみがき、人格を高めること」であると国語辞典は説明しています。私たちがこの言葉を使う場合には、徳性は信仰でありますから、「信仰をみがき、霊性を高める」ことになります。そうすると、「学びと交わりの集い」としていますが、修養会の意図とは異なってくることになります。しかし、「学びと交わり」に「信仰をみがき、霊性を高める」内容を含ませることとして開催していたのでした。何かこじつけたような取り組みですが、今でも「修養会」として受け止めています。「学ぶこと」は学習であり、「交わり」は教会の皆さんの信仰のお交わりということであります。それらと「修養」とは結び付かないと思っています。「修養」は私自身の信仰を深めることであります。神様の御心をいただき、信仰を土台として生きることが「修養」であるのです。
 私はこの修養会によって信仰の道を歩むようになりました。中学生時代は横浜の清水ヶ丘教会に出席していました。私はまだ高校生でありましたが参加したのでした。修養会で、葉山ですから海水浴の時間があり、水泳を楽しむときがありました。みんなで泳いでいたのですが、気がつくと、私は牧師と並んで泳いでいるのでした。他の友達は少し離れたところで泳いでいたのです。牧師と並んで岸辺に向かって泳いでいたとき、その時、自然に洗礼の決意を並んで泳いでいる牧師に告白したのです。泳ぎながらの洗礼の告白は、牧師も驚いたようでした。しかし、泳ぎながら喜んでくださり、「よかったね、よかったね」と言いながら泳いだのでした。それが8月のことであり、そして10月6日、その日は「世界聖餐日」であり、私の洗礼式が執行されたのでした。倉持芳雄牧師でありますが、洗礼の告白がよほど印象的であり、洗礼式の説教で、海で泳ぎながら洗礼の告白をしたことを長々と話すのでした。その後、神学生として講壇に立ったとき、紹介は「海で泳ぎながらの洗礼告白」でした。その紹介はまだ続きます。私たちが婚約式をしたときにも、結婚式をしたときにも「海で泳ぎながらの洗礼告白」は紹介されたのでした。
 修養会により、洗礼の告白が導かれました。泳ぎながらの告白でしたが、その修養会で信仰が導かれ、霊性が高められていたのです。それが告白へと導かれたということです。修養会を通して、今朝の旧約聖書箴言で示されるように、「神様の富と知恵」を知り、その道へと導かれたのでした。今朝のローマの信徒への手紙11章33節で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と示されていますが、主の御心を尋ね、求めれば求めるほど、このパウロの言葉になるのであります。どんなに私たちが修養しても、神様の深さ、高さ、大きさには、もちろん到達できません。しかし、その道に導かれていることを喜びたいのであります。そして、神様の富と知恵を求めて歩むことが「豊かな人生を与えられつつ」歩むことになるのです。今朝は、「神様の富と知恵」を与えられ、「豊かな人生」を歩みたいのであります。

 今朝の旧約聖書箴言3章13節からであります。「いかに幸いなことか。知恵に到達した人、英知を獲得した人は」と示しています。神様の知恵に到達した人は幸いであると示しているのです。「知恵」とは神様の御心であります。神様の御心に到達した人は幸いであると言っています。到達すると言われていますが、到達といわれると、私たちは、到達は無理だと思ってしまいます。なぜならば私たちは到達するどころか、まだ途上だと思っているからであります。到達した人は幸いでありますが、しかし到達できない私たちであるのです。すると、この箴言の言葉は困難な言葉として示されるのです。「いかに幸いなことか」と示されるとき、私たちは詩編の言葉を思い浮かべます。詩編1編1節、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどませず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」と示されています。幸いな人とは、到達した人と言ってはいません。幸いな人は、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人だと言うのです。そうであるなら、それは私たちが求めていることなのであり、幸いは私たちの中にあることを示されるのであります。到達は完成ではありません。まだ途上でありますが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人としての歩みが導かれているのであります。
 「いかに幸いなことか」と言い、一つは「知恵に到達した人」であり、もう一つは「英知を獲得した人は」であります。「英知」は「深遠な道理を知りうるすぐれた知恵」と説明されますが、聖書がこの言葉を使うとき、神様の創造の秩序を知るということでありましょう。それを別の言葉で言うなら、「神様の富」ということになるのです。すべてが神様の創造に与かっているからであります。神様の富を獲得することはできませんが、創造の恵みを知ることができるということでありましょう。「いかに幸いなことか」と示し、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさみ、神様の創造の恵みを喜びつつ生きる人を示しているのです。14節、「知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる」と示しています。「彼女」とは「知恵」のことであります。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人の果実は金にまさるというのです。あるいは17節、「彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどっていくことができる」と示しています。ここでも「彼女」は「知恵」であります。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、平和のうちに人生を生きることができると示しているのです。
 箴言は、神様の「富と知恵」、すなわち「創造の恵みと御心」に生きることが、どんなにか祝福であるかを示しているのです。今朝の箴言は3章12節からでありますが、3章3節に、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」と示しています。先ほどの詩編では、「教えを昼も夜も口ずさむ人」と示しています。私たちが、私たちの生きる根源から離れないための努力が必要であることを教えているのです。その努力がないと、神様の「創造の恵みと御心」から離れてしまい、祝福されない人生になりますよ、と警告しているのです。
 新約聖書において、パウロという伝道者は、やはり同じ示しを与えています。コリントの信徒への手紙(二)9章25節以下に、「競技をする人は皆、すべてに節制をします。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と示しています。自分の体を打ちたたいて、神様の「富と知恵」に従わせると教えているのです。

 旧約聖書に示されることは、「教えを昼も夜も口ずさむ人」であり、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」でありました。これらは人に求められる努力であります。努力を怠ると祝福に与れないのです。しかし、私たちは自分で努力しますが、限界も知ることになるのです。時には投げ出してしまうこともあるのです。
 この時、私たちは主イエス・キリストの導きをいただいております。今朝のヨハネによる福音書14章15節以下の示しに励まされましょう。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と示されています。イエス様は、今はお弟子さん達に別れの説教をしていますが、この後、捕らえられ十字架に架けられるのです。死んで葬られ、復活して天に昇られるのです。するとイエス様がいなくなってしまうわけですが、ここで示されていることは、「別の弁護者」が神様から遣わされるということです。それは真理の霊であります。別の弁護者と言っていますが、イエス・キリストが霊の存在として遣わされるということなのです。19節、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と示しています。十字架に架けられて死んでしまったイエス様を、世の人々は忘れていくのです。「去る人は、日々に疎し」と日本でも言われるところです。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる人々は、再びイエス様とまみえるのです。弁護者として、真理の霊として、私たちと共におられることを示しているのです。
 イエス様は19節の後半で示しています。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」ということです。弁護者であり、真理の霊は生きた存在であります。常に私と共におられるのです。共におられるので、私たちは生きることになるのです。ここにも努力はしなければなりません。信ずる努力というものです。しかし、旧約聖書で示されるように、「その教えを昼も夜も口ずさみ」、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」ということの努力以上に、弁護者であり真理の霊が私と共におられるので、私は真実に生きる者へと導かれるのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主イエス・キリストは教えておられます。私の現実に主イエス・キリストがおられ、共に歩んでくださっているのです。

 もはや9月の半ばを過ぎまして、間もなく10月になります。実は10月からは横浜本牧教会付属幼稚園である早苗幼稚園の園長に就任いたします。それまで教会の牧師と園長を担っていた牧師・園長が9月末で退任することになったのです。それで暫定的ではありますが、教会は代務者として小林誠司牧師が就任することになり、幼稚園の園長は私が担うことになりました。実は2010年4月から9月まで横浜本牧教会の代務者を担い、早苗幼稚園の園長として務めた経験があるのです。そのため、一時的ではありますが園長を要請されたのです。
 横浜本牧教会は半年の牧会でしたが、二人の方の洗礼式があり、また二人の方の葬儀を執り行いました。再び横浜本牧教会の幼稚園でありますが、務めをするにあたり、忘れられないことがありますので、ここで紹介させていただきます。
 代務者として4月に就任しましたが、教会員の女性のお連れ合いが病気を宣告され、苦しい心境でおられることを伺いました。それで役員のご夫妻と共にご自宅を訪問しました。苦しい心境でおられるのですが、笑顔で迎えてくださいました。その時、信仰をもって生きるということをお話いたしました。主イエス・キリストの十字架の救いは現在を導き、永遠の生命に至る道を導いてくださることをお話したのであります。その方は静かにお話を聞いてくださっていました。お祈りをして帰ってきたのですが、それからすぐにお連れ合いの女性がバプテスマ志願書を持ってこられました。ご病気の方ご自身が、この洗礼を受けとめ、ご自分を神様に向けたのであります。洗礼式はペンテコステ礼拝であり、その後のお祝いの会で、その方はご自分の病状について、はっきりと皆さんにお話ししました。4月に余命半年と宣告され、ご自分の死と向き合って過ごすようになったのであります。4月にお会いした時は、普通に歩いていましたが、5月23日の洗礼式の日は車椅子を使っていました。明らかに病状が進んでいたのであります。その後、教会の近くにある女性のご実家に転居されましたので、皆さんもお訪ねくださり、お見舞いをされました。8月20日にお連れ合いからお電話をいただき、病院に入院されたことを伺いました。すぐにお見舞いに伺えないので、22日の礼拝が終わりましてから、病院にお訪ねしたのであります。明らかに死が近いと示されました。「イエス様が迎えてくださいますから、イエス様にすべてをお任せしましょう」と申し上げました時、その方はしっかりとうなずかれました。そして、お祈りをささげました。お祈りが終わったとき、がくんとベットに沈んだように思えました。力が抜けたのです。そしてその夜、8時36分に召天されたのであります。神様に向かう人生であったと思います。豊かな人生を与えられたと示されています。イエス様を見つめ、すべてを委ねてみもとに召されたのでした。
<祈祷>
聖なる神様。神様の御心を御示しくださり、豊かな人生へと導かれ感謝致します。神様の富と知恵を求めて歩ませてください。イエス様のみ名によりおささげ致します。アーメン。