説教「恐れずに歩む人生」

2020年10月25日、六浦谷間の集会

「降誕前第9主日

 

説教、「恐れずに歩む人生」 鈴木伸治牧師

聖書、箴言8章22-31節

   ヨハネの黙示録21章1-4節

   マタイによる福音書10章26-33節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・218「夜を守る友よ」

   (説教後)讃美歌54年版・433「みどりの柴に」   

 

 本日は前週18日より始まりました教育週間の最終日でもあります。同じく18日より始まりました信徒伝道週間は昨日の24日まででした。教育週間は日曜日から日曜日までの8日間になっています。二回の日曜日でキリスト教教育を祈り、その使命を深めるということです。前任の大塚平安教会時代、教育週間の意義を深めていました。まず、パンフレットを発行し、幼稚園や教会学校の子供たちの家庭に配布していました。キリスト教の中で成長した子供たちが、社会の人々に喜ばれる存在になっている事実をいくつか紹介し、キリスト教教育の大切さをお知らせしたのでした。今朝はキリスト教教育週間を覚えつつ御言葉を示されるのであります。

 教育週間と申していますが、「教育」はキリスト教の教育であります。それぞれの教会はキリスト教教育をいつも示されています。大人の礼拝の前に子どもの教会、教会学校と称していますが、子どもたちの教会を開いています。昔は大勢の子どもたちが教会学校に出席していましたが、その頃は日曜学校と称していました。今は教会学校に出席する子どもたちは少ないと言えるでしょう、教会学校を開いていても、今は誰も来ないような教会学校もあるのです。それでもも集まる子どもたちにイエス様のお心を示しているのです。

 私は小学校3年生より日曜学校に通いつつ成長しました。そして、今日までキリスト教の信仰を持ちつつ歩んでいるのです。この長い人生を振り返ったとき、私は自分の中に据えられている土台、すなわち主イエス・キリストの十字架による救いが私の「恐れずに歩む人生」となっており、今までの人生が導かれてきたと思っています。明日の歩みも力強く歩めると信じているのであります。

 キリスト教教育週間に当たり、教会教育の取り組みを示されました。それではキリスト教教育と言った場合、「教育」とは何でありましょうか。何を教育するのでしょうか。いうまでもなく、神様のお心なのであります。それは別の言葉で言いますと「知恵」であります。聖書の中で「知恵」という言葉が示されますが、それは神様のお心を示しているのです。箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」と示しています。さらに箴言2章2節以下、「知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声を上げるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう」と示されています。知恵はすべての基であるのです。知恵は神様のお心であるからであります。

 今朝はその箴言を示されています。8章22節からであります。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初(たいしょ)、大地に先立って」と示しています。22節から31節まで読みますと、「わたし」という一人称で記されています。「わたし」とは誰なのかと思います。実は、擬人的に記されていますが、「わたし」とは「知恵」なのであります。「知恵」が自分を証しているのです。「知恵」は天地が造られる前から造られていたというのです。「わたしはそこにいた。主が天をその位置に備え、深遠の面に輪を描いて境界とされたとき」と示しています。つまり、神様の天地創造の時、「知恵」が伴われて天地が造られたことを示しているのであります。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主が造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と示しています。これは「知恵」が人を支配することによって、神様の御栄光が現され、神様の喜びとなることを示しているのであります。

 神様の「知恵」、神様の御心が人間に行き渡るとき、それはどんなに小さな存在でも神様の御手の中にあることを示されることになるのです。また、どんなに大きな存在でも、「知恵」にあっては、何もできないのであります。「知恵」は大きな存在であり、人々を確実に祝福へと導くのであります。「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」と8章1節は示しています。神様の御心である「知恵」は私たちに勇気を与え、新しい一歩を歩みださせるのであります。もっと具体的に示されるならば、「わたし」と言っているのはイエス・キリストであるということです。イエス様が神様の知恵であり、イエス様によって、人生の土台が与えられるのです。

 イエス様の土台が与えられており、それによって「恐れずに歩む人生」が与えられているのです。今朝の聖書は「人々を恐れてはならない」と示しています。マタイによる福音書10章26節以下が今朝の聖書です。神様の「知恵」が私たちを包んでくれているのです。「人々を恐れてはならない。覆われているものであらわされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と示しています。マタイによる福音書10章はイエス様がお弟子さん達に教えられているのです。10章の始めにイエス様が12人のお弟子さんを選んでいます。そして、イエス様はこの12人を町や村に派遣することになりました。派遣にあたり、その心構え等をお話しするのであります。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と派遣の内容、その働きを教えています。そして、派遣に当たっての心構えも教えています。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」のです。余分なものを持つことにより、その余分なものに依存するからであります。ただ御言葉に依存することです。「知恵」に依存しなさいということであります。

 10章16節からは、「知恵」に導かれる歩みでありますが、迫害があることをを示しています。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」というのです。お弟子さん達の働きを妨害し、迫害するだろうと厳しく言っています。そのように示した後で、26節以下の今朝の聖書になります。「人々を恐れてはならない」と力強い示しを与えています。恐れなければならないのは、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方であるということです。つまり神様を畏れるということです。死後の世界をもご支配なさる神様を中心にしなければならないということです。そして、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と言われました。一アサリオンはローマの貨幣単位で、一番低い単位であります。一番低いお金で、しかも一羽ではなく二羽であります。いわゆる価値がないということです。しかし、価値のない二羽の雀は人間の理解でありますが、神様は人間が価値のないと判断しても、大切になさっていることを教えておられるのであります。ルカによる福音書にも同じような部分が記されています。ルカによる福音書12章2節以下です。ここでは、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と記されています。マタイは一アサリオンで二羽の雀です。従って、ルカは二アサリオンでは四羽の雀ということになります。しかし、ルカは一羽おまけして五羽にしています。つまり、ルカは人間の価値観からすれば、雀の価値のなさを強調しているのです。おまけまでつける雀の価値です。マタイにしてもルカにしても、人間の考えでは価値のない存在でも、神様は人間の価値観を否定しているのです。雀ですら神様が大切にしてくださっているのです。だから「恐れるな」と言われ、「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と示しているのです。

 このようにして主イエス・キリストはお弟子さん達を世の中に派遣するに当たり励ましました。まさに、この世の中は何が起きるか分かりません。しかし、神様の「知恵」、神様のお心に生きる限り、恐れるものは何一つないことを教えておられるのです。まさに、この「知恵」に生きること、「恐れずに歩む人生」が導かれるのです。新しい一歩を踏み出せるのです。

 神様の知恵をいただいて生きるときにも、私たちは弱さを覚えずにはおられません。以前、一人の女性からお電話をいただきました。その女性は泣きながらいわれました。通りを歩いていると、倒れている人を見かけました。その人が倒れているのはお酒に酔って寝ているのか、急病なのか分かりませんが、自分はただ恐ろしくなって、気がついたら家に帰ってきていました。その倒れている人が気になって、自分はその時、どうしてその人のそばに行き、声をかけたり、また救急車を呼んだりしなかったのか、それを思うと自分の弱さが悲しくて、どうしてよいか分からないのです、と電話の声は泣きながらいわれました。だから、教会に行きたくても行かれないのですとも言われました。私はその時、教会に来ている人たちは、私を含めて、あなたと同じように、どうしてよいか分からないから教会に来て、神様のお心を示されているのですよ、とお話しいたしました。改めて私たちの主にある姿を示されたのであります。

 主イエス・キリストは私たちの弱さの故に十字架にお架かりになったのであります。常に自己満足に生きる私たちに十字架が示されています。その原点は、私たちを実践的に神様の知恵に生きるよう導いているのです。この社会に生きるものとして、私の存在は大切であります。自分の存在を雀のように小さくしても、「その一羽さえ」神様は覚えてくださっています。神様の知恵、十字架を仰ぎ見つつ歩むことが、私たちの歩みなのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。私の存在を大切にしてくださり感謝します。神様の知恵を力強く実践できますよう導いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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