説教「神さまのお恵みは気前よく」

2021年9月26日、三崎教会

聖霊降臨節第19主日」              

                      

説教・「神さまのお恵みは気前よく」、鈴木伸治牧師

聖書・コヘレトの言葉3章9-15節

   マタイによる福音書20章1-8節

賛美・(説教前)讃美歌21・402「いともとうとき」

   (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」

 

 9月の歩みをしておりますが、今朝は9月の終わりの礼拝であります。次週の10月からは、いくつかの祈りの課題を示されつつ礼拝をささげることになっております。10月3日の第一日曜日は世界聖餐日、世界宣教の日を覚えつつ礼拝をささげます。第二日曜日の10月10日は「神学校日、伝道献身者奨励日」であります。そして、17日は「信徒伝道週間、教育週間」を迎えます。いろいろな課題を示されながら、10月の礼拝をささげることになっています。それでは9月の第四日曜日、本日はどのような課題になっているのでしょうか。本日は「働くことの意味」ということで、み言葉を示されているのであります。その示しとしてマタイによる福音書20章に示されている「ぶどう園の労働者」により御心を示されているのであります。

 労働とか働くと言われると、仕事をするとか家事に勤しむことなどを考えるのでありますが、大きな意味では私達の生きる存在が「働く」ということであります。ですから「働くことの意味」は私達の存在そのものが導かれていることを示されるのであります。今年の夏の間はオリンピックやパラリンピックが開催され、いろいろなスポーツ競技を楽しみました。中でもパラリンピックのいろいろな競技を示されましたが、ある意味では驚きつつ観戦したのでした。両手が使えない人が、足だけで泳いでメダルを授与される姿を示され、感動しました。人間の可能性はどのような状態でありましょうとも成し遂げられることを示されたのでした。人間にはそれぞれの賜物が与えられていることは、聖書の示しでも、例えば「タラントン」のお話の中でも示されているのです。自分の存在をしっかりと受け止めることが大切であると示されるのであります。この自分に神様がお恵みくださっているので、日々祝福のうちに歩んでいることを示されたいのであります。

 私達は自分の人生を顧みるとき、辛いこと、悲しいこと、苦しいことを数えることができますが、しかし、今の自分は神様が気前よくお恵みをくださっていると示されなければならないのです。今日までいろいろな「時」を迎えながら、そのために祈り、与えられた人生を歩んでまいりました。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と示しているのは旧約聖書コヘレトの言葉3章であります。新共同訳聖書になって「コヘレトの言葉」との題になりましたが、以前の口語訳聖書では「伝道の書」と称していました。旧約聖書のコヘレトは「集まる」とか「集会を開く」という意味があります。そこで、集会で神様のお心を語るのでありますから、伝道者とも理解されるのであります。そのため「伝道の書」と称しましたが、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されるので、コヘレトとは人の名前と理解するようになりました。ダビデの子とありますので、知恵者ソロモンではないかと考えられていましたが、そうでもなく、知恵ある人のニックネームとしてこの名が使われていると理解するようになっています。

 今朝はコヘレトの言葉3章11節から示されていますが、3章1節からは「時」が示されています。「何事にも時がある」として、生まれる時、死ぬ時を示し、すべては「時」の中で生きていることを示しています。このように「時」の流れの中におかれている人間でありますが、11節に示されるように、「神は時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」のであります。「永遠を思う心」と言われますと、永遠の生命を考えますが、旧約聖書ではその信仰はありません。「永遠を思う心」とは、時の流れを受け止め、一つひとつの出来事を認識し、歴史の流れを受け止めることができることを示しているのであります。歴史を顧みれば、神様の気前良い導きを示されるのです。それは神様の恵みを認識することであり、神様の恵みを喜ぶことができる人間として示しているのであります。「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ」と示しています。「空しい」と最初に示していましたが、空しいと思える時の育みの中で、やはり神様の恵みの時としての今があるということを示されなければならないのであります。そのように示されるならば、神様は気前よくお恵みをくださっていると示されるのであります。

 神様のご判断に身を委ねること、その生き方が「神様の気前良さ」をいただいていることなのです。新約聖書マタイによる福音書20章1節以下は「ぶどう園の労働者」のたとえをイエス様がお話されています。「天の国は次のようにたとえられる」としてお話しされました。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。そこで、主人は一日につき一デナリオンの約束で労働者と契約し、働いてもらうのです。全体の文脈からして、労働者は朝の6時から働き始めています。その後、9時頃、主人は再び広場に行くと、働く場がないので立っている人がいたので、「あなたたちもぶどう園で働きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と約束しました。主人は12時頃、3時頃に広場に行くと、まだ仕事が無くて立っている人がいますので、ぶどう園で働くようにしてあげます。そして5時頃に行くと、まだ立っている人がいます。それで、その人達にもぶどう園で働かせてあげるのです。仕事は6時に終わりました。主人は一番後に来た人達、5時から働いた人達から賃金を払いました。5時から来た人達は1時間しか働きません。主人はその人達に一デナリオンの賃金を払ってあげました。これが「ふさわしい賃金」なのです。この一デナリオンは朝6時から働き始めた人達との約束の賃金です。主人は9時から働いた人にも、12時から働いた人にも、3時から働いた人にも同じように一デナリオンの賃金を払いました。問題は朝6時から来て12時間働いた人です。渡された賃金は一デナリオンでした。自分は12時間も働いたのだから、1時間の人が一デナリオンなので、自分には沢山の賃金が支払われると思っていたのです。ところが払われた賃金はみんなと同じように一デナリオンでありました。そこでこの人は主人に不平を述べ、抗議します。不公平であるというわけです。「最後に来たこの連中は1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中と同じ扱いにするとは」と言うのです。すると、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というのでした。気前の良い神様を示されているのです。

 このたとえ話はこの世的にはまさに不公平であります。しかし、イエス様は「天の国は次にたとえられる」としてお話しされたのであります。天の国に生きることの恵みであります。朝6時に働き始めた人は、そのような時を与えられたのであります。夕方5時に来た人も、そのような時が与えられているのであり、神様の恵みであります。神様の恵みを人間的に換算することに間違いが出てくるのです。神様は働き人、すなわち主イエス・キリストの十字架の救いを与えられ、主の御旨に生きる人々を同じように祝福なさいます。

すなわちどのような人も十字架の救いを信じるなら「天の国」に導かれるということです。この取り扱いをイエス様ご自身が「気前の良さ」と言っています。「天の国」に入るために、イエス様が「気前の良さ」を十分くださっているということです。

前任の大塚平安教会時代、一人の老婦人が礼拝に出席されました。77歳になられておられました。そして、その後は毎週礼拝に出席しました。やがて洗礼を受けられました。ピアノを教える先生であり、教会学校の礼拝奉仕をしてくださっていました。その後85歳の誕生日に、お子さんたちがお祝いとしてニューカレドニアに連れて行ってくれたのです。きれいな海で、心不全で召天されました。この方がいつもお証しされていたことは、「神様は77歳になるまで待っていてくださり、そして救いを与えてくださいました。残りの人生が短くても、神様が今までお待ちくださっていたことが喜びです」ということです。

エス様の「気前の良さ」は私たちに与えられているのです。85歳で天に召された姉妹のお証を示されました。神様は、77年間も待っていてくださった、その喜びをお証された姉妹を示されるとき、神様の気前良さをつくづくと示されるのであります。神様がお待ちくださって、気前よく迎えてくださるのです。気前の良い神様に委ねて歩むことを示されました。

<祈祷>

聖なる御神様。お恵みのお導きを感謝致します。気前の良いイエス様のお恵み喜びつつ歩ませてください。主の御名によりささげます。アーメン。

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