説教「祝福の人生」

2021年10月24日、六浦谷間の集会

「降誕前第9主日」       

                      

説教・「祝福の人生」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記2章4-9節

   ヨハネの黙示録4章1-11節

   マルコによる福音書10章1-12節

賛美・(説教前) 讃美歌21・401「しもべらよ、み声きけ」、

   (説教後)讃美歌21・412「むかし主イエスの」

 毎年、日本基督教団は10月の第三日曜日から第四日曜日までを教育週間としています。教会教育の大切な意義を示されるのです。教育は子供達ばかりではなく、大人も教育を受けて、教会員として成熟して行かなければならないのです。しかし、やはり教育と言えば子供達の良い成長と言うことであります。その意味でも教会は幼稚園を設置しています。幼児からイエス様のお心により成長すること、そのために幼稚園を設置し、イエス様の「お友達と共に成長する」教えを与えているのです。

今は隠退していますが、現役の牧師の頃はいつも教会学校、幼稚園と関わり子供たちと共に過ごして来たのです。子供達の信仰はすばらしいものであります。幼稚園では全園児の合同礼拝がありました。始まりの前奏のときには、胸の前で手をくみ、静かに黙祷する姿は、まさに神様に心を向けているのです。このような礼拝の姿勢は人間関係におきましても、お友達の声に耳を傾ける姿勢が養われるのです。礼拝においては神様のお心をいただくことですから、聞こうとする姿勢なのです。キリスト教教育の自然な取り組みであるのです。そして、礼拝では、いつも先生が休んでいるお友達、病気や怪我で休んでいるお友達のことをお祈りしますので、子供達もいつもお友達のことをお祈りするようになるのです。あるとき、お祈りについてお話をしました。お祈りするとき、「ケーキを下さい、かわいいお人形さんを下さい、とお祈りしましょうか」と聞きました。すると子供たちは「違いまーす」と答えるのです。そのようなお祈りはお祈りではないと思っているのです。お祈りはお友達のことを神様にお願いすることであると思っているのです。聖書のイエス様の教え、「お友達を自分と同じように愛しましょう」の示しが子供たちにしみ込んでいるということです。まさに今朝示される「命の息」をいただいているのです。改めてキリスト教教育の使命を示されています。

 今朝の旧約聖書創世記は人間創造が示されています。今朝の聖書の前には神様が天地、宇宙万物をおつくりになったことが記されています。いずれも神様の「言」によって創造されていくのであります。そして、最後に人間も造られるのであります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり」ました。しかし、それはまだ人間ではありません。人の形を粘土で造り、その鼻に「命の息」を吹き入れられました。「人はこうして生きる者となった」のであります。「命の息」をいただいて人間として生きる者になったのであります。「命の息」はヘブル語で「ルアッハ」という言葉であります。「ルアッハ」は「霊」とも訳され、「風」とも訳されています。

旧約聖書エゼキエル書があります。その中で預言者エゼキエルはこの「ルアッハ」について証しています。それはエゼキエル書37章に記されます。彼は幻のうちに、ある谷の真ん中に降ろされました。見ると枯れた骨が谷中に散らばっていたのであります。触れれば骨がくずれてしまうほど枯れているのです。神様の導きのままにエゼキエルはこれらの枯れた骨に預言いたします。神様の言葉を与えたということです。すると、骨と骨があい重なり、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆うのでした。さらにエゼキエルが預言すると、四方から霊が吹き付けたのでありました。この霊の風が「ルアッハ」であります。枯れた骨は生きかえり、「自分の足で」立ち上がったのでありました。霊の風が吹きつけ、苦しみと、嘆きに生きている人々は自分の足で立ち上がるのです。神様の命の息をいただくことにより、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々が立ち上がったのであります。聖書の人々は常に苦しみつつ生きていました。その人々に希望を与え、力を与えたのがエゼキエルという人でありました。

人々が「自分の足で立つ」ために、神様は私たちにも命の息を与えておられるのです。その為に教会が建てられ、み言葉を取り次ぐ人を立てました。そして、教会に導きいれられた人々に聖霊を与え、命の息を与えて、「自分の足で」立つ者へと導いてくださっているのです。「自分の足で立ち」、力強く歩むために、私たちも「ルアッハ」を与えられているのです。

「ルアッハ」、「風」については使徒言行録に記される聖霊降臨においても示されています。主イエス・キリストがご昇天になられ、弟子達は人前に出る力もなく、イエス様が示されたように、家の中で祈っていたのであります。すると、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」たのでありました。「すると、一同は聖霊に満たされた」のでありました。この風は「ルアッハ」であります。「命の息」なのです。「命の息」をいただくことにより、力強く立ち上がることができるのです。今、み言葉に向かう私達にも「命の息」が与えられているのです。「ルアッハ」がこのところに満たされているのです。

 天地創造の示しを人間が勝手に変えてしまうことに対する主イエス・キリストの警告が新約聖書の示しであります。マルコによる福音書10章1節以下が今朝の聖書となっています。ここには「離縁について教える」イエス様が示されています。離縁についての示しが天地創造の示しとどのように関わるのかと思います。しかし、イエス様はこの問題に対して、天地創造の初めから示されていることとして教えておられるのです。イエス様のもとへファリサイ派の人々が来て、イエス様を試そうとして尋ねています。ファリサイ派の人というのは、新約聖書の世界はユダヤ教の世界であり、中心は律法という戒律を守る世界でありました。ファリサイ派の人々はその律法を厳格に守る人々なので、社会のエリートであり、模範生でもあったのです。その人たちのイエス様への質問は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」との質問です。何事も律法が中心ですから、律法に適うかということです。2千年前の社会ですから、男性中心の考え方でもありました。それに対して、イエス様は、神様の御心をいただいて律法を与えたモーセはどのように示しているかと聞きました。すると、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。男性中心の社会ですから、離縁状を書けば離婚できるということになってしまっていたのです。それに対して、イエス様は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」と示しているのであります。天地創造の示しを与えています。人間創造において、最初に男が造られますが、そのもっとも相応しい相手が女性であることを創世記は示しているのであります。これは天地創造の示しでありました。しかし、その天地創造の示しを超えて、人間の勝手な解釈があり、離縁が横行するようになったのであります。

 現代の社会から理解しようとすると、このイエス様の教えは何となく不自然に受け止められます。主イエス・キリストは当時の男性中心の社会で、天地創造の示しを与えているのです。それは一人の人間の尊厳を示しているのであります。「命の息」をいただいた人間の尊厳を示しているのであります。自分勝手に人間関係を作り上げてはならないということであります。一人の存在を大切にするということ、それが天地創造の示しなのであります。「命の息」をいただいている人間の尊厳、天地創造の示しに立つべきなのであります。

 天地創造から神様の御心を示されていますが、そもそも天地創造を信じない状況があります。宇宙の始まり、地球の始まりについては具体的には判明されていません。科学的に説明がありますが、なんだかわからないのです。子ども達もそのあたりを心得ていて、聖書の天地創造のお話をしても信じないのです。信仰に熱心な人が教会学校の先生をしていて、天地創造を子ども達にお話をしています。子ども達は神様がお造りになったと言われても信じないのです。そこで教会学校先生も生徒も信頼関係がなくなってしまうのです。天地創造は科学的に示されているのではありません。聖書の示しは信仰の励ましなのです。信仰的に受け止めることなのです。ですから、「神は天地をお造りになったとき」、何が何だかわからない状況でもあったのですが、神様が「言」を与えることによって、形あるものができた、見えるのができた、ということなのです。神様の「言」が新しい状況へと導くことなのです。人間創造も生まれながらの姿は自分勝手であり、自己満足、他者排除の存在ですが、神様の「息」、ルアッハをいただくことにより、イエス様のお導きのように「隣人を自分のように愛する」存在へと導かれるのです。聖書は科学を示しているのではなく、信仰を導いているのです。人間のすべての決まりごとの根源は、神様の「息」によって整えることが大切なのです。祝福の人生になるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。御心を与え、真に生きる者へと導き感謝いたします。共に生きるものへとお導きください。主の名によって祈ります。アーメン。

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