説教「神さまの御心に導かれつつ」

2021年10月31日、三崎教会

「降誕前第8主日」       

                      

説教・「神さまの御心に導かれつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記4章1-5節

   マルコによる福音書7章14-23節

賛美・(説教前) 讃美歌21・377「神はわが砦」、

   (説教後)讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」

 

今朝は10月の最後の日曜日になりますが、10月31日は宗教改革記念日になります。西洋の中世の時代、16世紀でありますが、マルチン・ルターという人が、今までのカトリック教会の信仰のあり方に疑問を持ち、問題提起をしたことが始まりです。それは1617年10月31日の日で、今年で504年になるのです。カトリック教会というのは「公同教会」「普遍性」と言う意味ですが、そのカトリック教会にマルチン・ルターが抗議したのであります。そこで新しいプロテスタント教会が発展していくのですが、抗議する、プロテストすることから始まったわけです。「プロテスト」という言葉は、「抗議する」とか「主張する」、「異議申し立てをする」と言う意味ですが、普遍的なカトリック教会でも、長い歴史の上で、人々の疑問点が出てくるのです。それから500年を経ていますが、カトリック教会もプロテスタント教会も、聖書に示される信仰を持ちながら歩んでいるということです。

 イエス様が教えて下さった「互いに愛し合う」こと、それが私達の人生として示されています。その人生が永遠の生命への歩みなのであります。人々とどう向き合うか、今朝の聖書のお導きなのです。今朝は創世記4章に記されるアベルとカインの物語であります。

 神様によって最初に造られたアダムとエバは、神様の戒めを破り、禁断の木の実を食べてしまいます。それにより彼らはエデンの園から追放されてしまうのです。追放された彼らに神様は生きる恵みを与えておられます。すなわち、男性の存在は大地を耕してパンを得ることになります。女性の存在は子どもを産んで、子孫を残していく恵みをいただくのです。神様の配慮ある導きでありました。アダムとエバに二人の子どもが与えられます。最初の子はカインと名付け、次に生まれた子をアベルと名付けたのでした。

成人した彼らがそれぞれ神様にささげ物をします。大地を耕すカインは土の実りを神様にささげます。アベルは羊を飼う者であり、肥えた初子を献げたのであります。すると、神様は弟のアベルの献げ物に目を留められたのでありました。何故、カインの献げ物に神様は目を留められなかったのか、と思います。カインは「収穫の中から適当にささげた」と解釈する人もいます。カインは「土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた」と記されているのであり、収穫の中から適当にささげたという解釈は成り立ちません。アベルも羊の群れの中から肥えた初子をささげました。二人とも「良きもの」を献げたのです。それなのに、どうしてアベルの献げ物に神様は目を留められたのでしょうか。

 カインとアベル、実は二人の名前がこの物語の意味を示しているのです。カインが生まれたとき、母親のエバは「わたしは主によって男子を得た」と言い、カインと名付けられました。カインは「得た」という意味になります。ここで「得た」と言っていますが、この言葉はヘブル語で「カーニーティ」であります。このカーニーティがカインという名になるのですが、ここにはエバの喜びの声が込められているのです。まさに喜びの子供カインでありました。それに対して、次に生まれた子どもはアベルと名付けられたのであります。「アベル」の意味は「空虚さ、無意味、無価値」という意味なのです。従って、アベルが生まれたとき、そこには喜びがなかったということであります。無意味な存在として生まれてきたのでしょうか。エバの喜びの声は何も聞こえては来ないのです。カインとアベル、この物語は人間的な判断に対する神様の判断が示されているのであります。人間的には無意味、無価値と判断されても、神様は一人の存在として、意味深く、価値ある者とされるのであります。

 二人が献げ物をしたとき、献げ物に目を留めたのではなく、存在そのものに目を注がれているのです。カインは自分の献げ物に目を留められなかったということで、激しく怒りました。もし、カインが怒らず、アベルの献げ物に神様が目を留められたということで、共に喜ぶことができたとするなら、祝福の二人でありました。しかし、カインは親の自分への誇りを背景にしていますし、アベルという存在の無意味、無価値を心に秘めていたのであります。アベルに劣るはずがないと思っていたのです。カインは自分中心に生きた、アベルは痛みを持ちつつ生きた、そこに神様の顧みがあるのであります。

 自分中心ではなく、他の存在を心から受け止めて生きることが大切であることを主イエス・キリストが教えておられます。まず、自分自身の内面を見極めなさいと示しておられるのです。今朝の新約聖書はマルコによる福音書7章14節からでありますが、7章1節以下を見ておかにければなりません。イエス様を批判し、何とかして訴える口実を作ろうとしているファリサイ派の人々、律法学者達がイエス様に批判的に尋ねたことが始まりです。イエス様の弟子達が手を洗わないで食事をしていることに対する批判でもあるのです。食事の前に手を洗うこと、それは今日でもしています。汚いばい菌を落とすためです。しかし、ここではそのような意味合いではなく、手を洗うということは、汚れたものから身を清めるという宗教的な儀式なのであります。すなわち、外を歩けば汚れた物があるのです。例えば、誰かが動物の死体を触り、触った人がその手で柱等に触れます。その柱は汚れたものになるのです。ですから、柱に誰かが触れた場合、間接的に汚れたものに触れることになるのです。だから、手を洗わないで食事をすると、汚れた物が体内に入って、その人も汚れた人になると考えられていたのです。これは神様の教えではなく、人間的な言い伝えでありました。神様の教えより、言い伝えを大事にしていたのであります。

 このような考え方に答えたのが今朝の聖書であります。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」とイエス様は教えられました。群衆に対してはそれだけの教えでありますが、弟子達はその意味がわからなくてイエス様に改めて聞いています。イエス様は示されています。「汚れる」と言っていますが、宗教的な意味においての汚れであります。外から入る物、それは食べ物であります。手を洗わないで食べた場合、ばい菌により病気になることもありますが、汚れというのは、悪い人になってしまうということです。食べ物は胃袋に入るのであり、人の心の中に入るのではないとイエス様は教えています。胃袋に入って、栄養を取って、不要なものは外へ出されるのであります。

 問題は人の中から出てくるものこそ、人を汚すのであります。「つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」とイエス様は弟子たちに諭されたのであります。これらのことを一口に言うなら、自分中心の生き方であるということであります。自己満足、他者排除の姿であります。神様は主イエス・キリストを通して人間に生きる方向をお与えになりました。主イエス・キリストの十字架の贖いであります。イエス様は御自分が十字架で死んで行かれるとき、人間が持つ汚れた姿など、人間の自己満足と他者排除を共に滅ぼされたのであります。

 10月31日は宗教改革記念日であることは先ほどもお話し致しました。16世紀になっていますが、ヨーロッパのローマカトリック教会一色になります。しかし、発展したローマカトリック教会は堕落が始まります。大きな教会を建設するために資金が必要です。資金を得るために免罪符を売り出します。その免罪符を買えば、どんな罪でも赦されるということなのです。お札を買えば善人になるのですから、人々は喜んで買うのでした。このようなことでよいのか、と疑問を持ったのがマルチン・ルターという人でした。このようなことは神様のお心ではないと思います。人間が考え出したことなのです。神様の御心は、人が共に喜び、共に歩むことなのです。人間の尊厳を大切にすること、聖書に向かう限り、いよいよ一人の人間の尊厳を示されてくるのです。新約聖書の中で、パウロという伝道者は、私達は「信仰によって義とされる」と示しました。人間の業ではなく、私達の信仰が祝福されるのです。人間は一生懸命努力して良い業を行っても、それは自分の栄誉のためであり、自己満足であります。しかし、神様を信ずること、イエス・キリストの十字架の贖いを信じること、そこからすべてが始まるのです。ルターは、このパウロの示しを受け止め、人間が神様によって祝福され、「義とされるのは信仰によってのみ」であると言い直しています。神様は私たちに御心を示し、お導きくださっているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。御心のお導きを感謝いたします。御心をいただき力強く証しつつ歩ませてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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