説教「愛を育む基」

2017年11月5日、六浦谷間の集会
「降誕前第8主日」 

説教・「愛を育む基」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記4章1-8節
    ヨハネの手紙<一>3章11-18節
     マルコによる福音書7章14-23節
賛美・(説教前) 讃美歌21・385「花彩る春を」
    (説教後)54年版・495「イエスよ、この身を」


 今朝は11月の第一日曜日であります。日本基督教団はこの日を「聖徒の日」、「永眠者記念日」と定めています。そのため各教会は召天された皆さんを示されつつ礼拝をささげています。そして、礼拝後は教会の墓地に行き墓前礼拝をささげるのです。前任の大塚平安教会時代、1979年に赴任したとき、教会墓地は川崎市生田にある春秋苑の中にありました。しかし、墓地の場所だけで、形ある墓石なるものは造られていませんでした。三角地帯であり、墓地の形を造るのは、困難な地形でもあったのです。その墓地には北村牧師夫妻と綾瀬ホームの利用者お二人が埋葬されていました。教会は春秋苑の墓地があるにしても新しい墓地建設を協議していたのです。墓地建設委員会を重ねるうちに厚木市の山の麓に厚木霊園があり、墓地を売り出している情報を得ました。すぐに調査し、大塚平安教会から30分もかからない場所であり、しかも周囲は静かな山に囲まれているので、ここに建設することは良い場所であると判断し、そこに建設することにしたのです。春秋苑は車で1時間以上も要する場所であり、なんとなく落ち着かない場所でありました。
 1982年8月27日に厚木霊園に大塚平安教会の墓地が完成し、献堂式を行い、さらに春秋苑に埋葬されていた4人の方の改葬式を行いました。従って、1979年に大塚平安教会に就任したばかりですが、すぐに新しい墓地建設計画が始まり、3年後には完成したのですから、墓地建設のために大塚平安教会に就任したような印象です。墓地建設委員会も墓地の設計等はすべて私にお任せくださったので、示されるままに設計に臨んだのでした。実は大塚平安教会の前任、陸前古川教会時代も墓地建設に取り組みました。そのときは役員の皆さんと計画をするだけで、実際には設計等には携わりませんでした。設計は教会の知り合いの建築設計者に依頼したのです。しかし、その人と共にいろいろな教会墓地を見学に行ったことは、随分と参考になっています。ですから大塚平安教会の墓地を設計するときにも、見学した教会墓地を示されながら、新しい教会墓地の設計を試みたのでした。教会墓地は二つの納骨堂にしました。向かって左側は、それぞれの遺骨を納める墓地です。そして向かって右側は納骨堂の中に棚を作らず、土にしたのです。古くなった遺骨は土に返すという目的です。死んでから骨が一緒になるのは嫌であるという人もあるのです。しかし、遺骨として残していても、場所が無くなってしまうということもあるのです。
 こうして与えられた大塚平安教会の墓地です。1982年に完成し、2010年3月に退任まで28年間、毎年のようにこの墓地に訪れては、11月の墓前礼拝をささげていました。さらに召天された皆さんの埋葬式があり、いつも教会墓地には訪れていたのです。既に納骨堂の前に立てられている墓誌には多くの皆さんのお名前が刻まれています。そして二つ目の墓誌も立てられています。それもいっぱいになりつつあります。大塚平安教会には30年間在任しましたが、教会員の多くの方の葬儀を行いました。そして関係する綾瀬ホームやさがみ野ホームの利用者の皆さんの葬儀をとりおこなってきました。
 今朝は召天者記念礼拝を覚えつつ礼拝をささげていますが、示されることは、やがて私達も天に召されるのですから、生きている今、神様の国を与えられて歩みたいのです。それには主イエス・キリストがお導きくださった「神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことなのです。その愛の基はイエス様の十字架であります。今朝は十字架の愛の導きを示され、愛を育む基として歩みたいのであります。

 イエス様が教えて下さった「互いに愛し合う」こと、それが私達の人生でなければなりません。その人生が永遠の生命への歩みなのであります。出会う人々とどう向き合うか、今朝の聖書の示しであります。旧約聖書は創世記が示されています。今朝は創世記4章に記されるアベルとカインの物語であります。
 神様によって最初に造られたアダムとエバは、神様の戒めを破り、禁断の木の実を食べてしまいます。それにより彼らはエデンの園から追放されてしまうのです。追放された彼らに神様は生きる恵みを与えておられます。すなわち、男性の存在は大地を耕してパンを得ることになります。女性の存在は子どもを産んで、子孫を残していく恵みをいただくのです。神様の配慮ある導きでありました。そして、アダムとエバに二人の子どもが与えられます。最初の子はカインと名付け、次に生まれた子をアベルと名付けたのでした。
このアベルとカインの物語は、どうもよくわからないのです。成人した彼らがそれぞれ神様にささげ物をします。大地を耕すカインは土の実りを神様にささげます。アベルは羊を飼う者であり、肥えた初子を献げたのであります。すると、神様は弟のアベルの献げ物に目を留められたのでありました。何故、カインの献げ物に神様は目を留められなかったのか、と思います。カインは収穫の中から適当にささげたと解釈する人もいます。カインは「土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた」と記されています。申命記26章2節、「あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所にいきなさい」と記されています。つまり、「土の実りを主のもとに献げ物とする」ということは、初物をささげるということなのです。従って、カインは収穫の中から適当にささげたという解釈は成り立ちません。アベルも羊の群れの中から肥えた初子をささげました。二人とも初物を献げ、初子を献げたのです。それなのに、どうしてアベルの献げ物に神様は目を留められたのでしょうか。
 カインとアベル、実は二人の名前がこの物語の意味を示しているのです。カインが生まれたとき、母親のエバは「わたしは主によって男子を得た」と言い、カインと名付けられました。カインは「得た」という意味になります。ここで「得た」と言っていますが、この言葉はヘブル語で「カーニーティ」であります。このカーニーティがカインという名になるのですが、ここにはエバの喜びの声が込められているのです。まさに喜びの子供カインでありました。それに対して、次に生まれた子どもはアベルと名付けられたのであります。「アベル」の意味は「息、はかなさ、空虚さ、無意味、無価値」という意味なのです。従って、アベルが生まれたとき、そこには喜びがなかったということであります。無意味な存在として生まれてきたのでしょうか。無価値の存在として生まれてきたのでしょうか。エバの喜びの声は何も聞こえては来ないのです。カインとアベル、この物語は人間的な判断に対する神様の判断が示されているのであります。人間的には無意味、無価値と判断されても、神様は一人の存在として、意味深く、価値ある者とされるのであります。
 二人が献げ物をしたとき、献げ物に目を留めたのではなく、存在そのものに目を注がれているのです。カインは自分の献げ物に目を留められなかったということで、激しく怒りました。もし、カインが怒らず、アベルの献げ物に神様が目を留められたということで、共に喜ぶことができたとするなら、祝福の二人でありました。しかし、カインは親の自分への誇りを背景にしていますし、アベルという存在の無意味、無価値を心に秘めていたのであります。アベルに劣るはずがないと思っていたのであります。その思いがアベルを殺すことになるのでありました。カインは自分中心に生きた、アベルは痛みを持ちつつ生きた、そこに神様の顧みがあるのであります。

 自分中心ではなく、他の存在を心から受け止めて生きることが大切であることを主イエス・キリストが教えておられます。まず、自分自身の内面を見極めなさいと示しておられるのです。今朝の新約聖書はマルコによる福音書7章14節からでありますが、7章1節以下を見ておかにければなりません。イエス様を批判し、何とかして訴える口実を作ろうとしているファリサイ派の人々、律法学者達がイエス様に批判的に尋ねたことが始まりです。イエス様の弟子達が手を洗わないで食事をしていることに対する批判でもあるのです。食事の前に手を洗うこと、それは今日でもしています。汚いばい菌を落とすためです。しかし、ここではそのような意味合いではなく、手を洗うということは、汚れたものから身を清めるという宗教的な儀式なのであります。すなわち、外を歩けば汚れた物があるのです。例えば、誰かが動物の死体を触り、触った人がその手で柱等に触れます。その柱は汚れたものになるのです。ですから、柱に誰かが触れた場合、間接的に汚れたものに触れることになるのです。だから、手を洗わないで食事をすると、汚れた物が体内に入って、その人も汚れた人になると考えられていたのです。これは神様の教えではなく、人間的な言い伝えでありました。神様の教えより、言い伝えを大事にしていたのであります。
 このような考え方に答えたのが今朝の聖書であります。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」とイエス様は教えます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」とイエス様は教えられました。群衆に対してはそれだけの教えでありますが、弟子達はその意味がわからなくてイエス様に改めて聞いています。それに対してイエス様は、「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことがわからないのか」と示しています。「汚れる」と言っていますが、宗教的な意味においての汚れであります。外から入る物、それは食べ物であります。手を洗わないで食べた場合、ばい菌により病気になることもありますが、汚れというのは、悪い人になってしまうということです。食べ物は胃袋に入るのであり、人の心の中に入るのではないとイエス様は教えています。胃袋に入って、栄養を取って、不要なものは外へ出されるのであります。
 大分前のことですが、在任していた大塚平安教会は神奈川教区湘北地区にありますが、毎年、新年礼拝を開いていました。ある新年礼拝で、ある牧師がこのイエス様の教えをテキストにして説教しました。開口一番、「新年礼拝ですから、『うん』の良いお話をします」と話し始めたのです。「うん」と言ったのは運命の「うん」ではなく、「便」のことでした。そういうことをはっきりいうものですから、説教中に一人の女性が靴音も高らかに出て行ってしまいました。そんなことを思い出しますが、明らかにイエス様はそのことを言っているのです。食べ物は胃袋に入るのであり、手を洗わないで食べたとしても、汚れた物は心には入らないのです。「すべて食べ物は清められる」とイエス様は示されています。
 問題は人の中から出てくるものこそ、人を汚すのであります。「つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」とイエス様は弟子たちに諭されたのであります。これらのことを一口に言うなら、自分中心の生き方であるということであります。自己満足、他者排除の姿であります。実は、人間は根本的にこれらの姿を持っているのです。神様はこのような人間に対して歴史を通して導いてこられました。モーセを通して十戒を与え、人間の基本的生き方を導いてこられたのであります。しかし、人間は基本的な生き方を守ることができなかったのであります。そこで、神様は主イエス・キリストを通して人間に生きる方向をお与えになりました。主イエス・キリストの十字架の贖いであります。イエス様は御自分が十字架で死んで行かれるとき、人間が持つ汚れた姿、イエス様が示したみだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、人間の自己満足と他者排除を共に滅ぼされたのであります。イエス様は私の汚れを清めてくださったのであります。洗礼を受けた私達でありますが、汚れは常に私達に挑んでおります。主イエス・キリストの聖餐をいただき、汚れから解放されて歩む私達へと導かれているのであります。すなわち、愛を育む基はイエス様の十字架であるということです。

 今朝は召天者記念礼拝であり、今は天にある皆さんを心に示されます。そのことを示されながら、私達も永遠の命への道すがら、他の存在を見つめつつ生きること、イエス様が導いて下さっている「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という生き方を実践しつつ歩むことです。この「愛を育む基」、十字架を仰ぎ見つつ歩むことなのです。
 召天者記念礼拝ということで、今は天にある皆さんを示され、やがて私達も天の国へ召されることを示されています。その信仰を深めながら、現実を生きる者として示されたいのです。すなわち、イエス様は現実を神の国として歩むことを教えておられるのです。イエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と示されています。つまり、現実が神の国なのです。そして、この世の生が終わったとき、ちょっと点を打って、永遠の神の国へと導かれるのです。文章にたとえれば、読み点「、」を入れて、その後も文章が続くのです。一般には、生の終わりは句点「。」であります。それで終わりということなのです。キリスト教の死生観は、現実も永遠の生命もつながっているということなのです。
 宮城県の教会に在任しているとき、やはり召天者記念礼拝で、このキリスト教の死生観をお話ししました。礼拝が終わったとき、一人の老婦人が、「今までもやもやしていたことが、はっきりとわかりました」と言われました。「これで、今も天の国に生きている喜びを与えられました」と喜びを語られたのです。
現実を神様の国として歩むのは、イエス様の十字架の救いを信じて歩むことです。「自分を愛するように、隣人を愛する」とき、「神の国はあなたがたの間にある」歩みとなるのです。愛を育む基はイエス様の十字架であると示されつつ歩むことなのです。
<祈祷>
聖なる神様。永遠の命への道として愛を育む基を与えられ感謝いたします。互いに愛し合う僕とならせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。