説教「今を導く神様」

2021年11月7日、六浦谷間の集会

「降誕前第7主日」       

                      

説教・「今を導く神様」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記15章1-7節

   ヤコブの手紙2章14-17節

   マルコによる福音書12章18-27節

賛美・(説教前) 讃美歌21・402「聞けよ、愛と真理の」

   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」

 前任の大塚平安教会は、1982年8月27日に厚木霊園に大塚平安教会の墓地が完成し、献堂式を行いました。私は1979年に大塚平安教会に就任したばかりですが、すぐに新しい墓地建設計画が始まり、3年後には完成したのですから、墓地建設のために大塚平安教会に就任したような印象です。墓地建設委員会も墓地の設計等はすべて私にお任せくださったので、示されるままに設計に臨んだのでした。実は大塚平安教会の前任、陸前古川教会時代も墓地建設に取り組みました。そのときは役員の皆さんと計画をするだけで、実際には設計等には携わりませんでした。設計は教会の知り合いの建築設計者に依頼したのです。しかし、その人と共にいろいろな教会墓地を見学に行ったことは、随分と参考になっています。ですから大塚平安教会の墓地を設計するときにも、見学した教会墓地を示されながら、新しい教会墓地の設計を試みたのでした。教会墓地は二つの納骨堂にしました。向かって左側は、それぞれの遺骨を納める墓地です。そして向かって右側は納骨堂の中に棚を作らず、土にしたのです。古くなった遺骨は土に返すという目的です。

 こうして与えられた大塚平安教会の墓地です。1982年に完成し、2010年3月に退任まで28年間、毎年のようにこの墓地に訪れては、11月の墓前礼拝をささげていました。さらに召天された皆さんの埋葬式があり、いつも教会墓地には訪れていたのです。既に納骨堂の前に立てられている墓誌には多くの皆さんのお名前が刻まれています。大塚平安教会には30年間在任しましたが、教会員の多くの方の葬儀を行いました。そして関係する綾瀬ホームやさがみ野ホームの利用者の皆さんの葬儀をとりおこなってきました。

 今朝は召天者記念礼拝を覚えつつ礼拝をささげていますが、示されることは、やがて私達も天に召されるのですから、生きている今、神様の国を与えられて歩みたいのです。それには主イエス・キリストがお導きくださった「神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことなのです。その愛の基はイエス様の十字架であります。今朝は「今を導く神様」を示されるのであります。

 今朝の旧約聖書は、聖書の最初の人アブラハムの神様の導きが示されています。神様はアブラハムに、「あなたは、今、住んでいるところから、神様が導く場所に行きなさい。そこであなたを大きな国民にします」との約束を与えるのです。今は少しの家族だけで過ごしていますが、多くの民族が与えられると示しているのです。アブラハムは神様の約束を信じて住んでいた家を出ることになり、神様の約束の場所に行ったのです。神様は「あなたを祝福する」と言っているのです。祝福は今の歩みがよりよく導かれることですから、アブラハムは元気に神様のお導きに従ったのでした。神様のお約束に従ったアブラハムでしたので、アブラハムには多くの家族、民族が与えられ、祝福の歩みが導かれたのでした。それはアブラハムが神さまの約束を信じ、守ったからでした。神様の約束は私たちの祝福の歩みへとお導きくださるのです。

 神様の約束はアブラハムばかりではありません。いろいろな人たちに約束を与えています。聖書には少年サムエルのお話しが記されています。サムエルはまだ小さい子供です。サムエルは祭司エリの弟子になりました。サムエルも祭司になるために、まだ子供ですが、エリと共に生活するようになったのです。ある日のこと、夜寝ていると、「サムエル、サムエル」と呼ぶ声がします。サムエルはエリが呼んでいるのだと思い、エリが寝ている部屋に行きます。「お呼びになったので参りました」と言います。するとエリは、「わたしは呼んではいない。自分の部屋で寝なさい」と言われるのです。サムエルがしばらく寝ていると、また「サムエル、サムエル」と呼ぶ声がします。やっぱりエリさんが呼んでいると思い、エリのところに行きます。すると、エリは呼んでないというのです。確かに呼んでいたのに思いつつ、また自分の部屋で寝ています。するとまた「サムエル、サムエル」という呼ぶ声が聞こえるのです。「やっぱりエリさんが呼んでいる」と言いつつエリのところに行きます。「呼ばれたので来ました」とサムエルがエリのもとに行ったとき、エリは気がつくのです。「わたしは呼んでないのに、呼ぶ声を聞くのは、神様が呼んでおられるのだ」と知りました。それでエリは、「今度呼ばれたら、それは私が呼んでいるのではなく、神様が呼んでいるのだから、神様にお答えしなさい」と言いました。そして、またサムエルが寝ていると、呼んでいる声を聞きます。サムエルはエリの言われた通り、布団の上に座り、お祈りしながら、「神さま、お話しください。私はここにおります」と神様に向かって言うのでした。そこで、神様はサムエルに、これからのことをお話しされ、約束を与えてくださったのです。その約束により、サムエルは人々に喜ばれ、希望の人になったのです。

 「神さま、私はここにおります。神様のお約束をお話しください」というお祈りは、私たちもしなければならないのです。神様のお約束は、私たちを元気に導いてくださるのです。イエス様の御心を与えられ、「自分を愛するように、隣人を愛する」、そういう人に導いてくださるのです。神様は人々の現実をいつも導いて下さっているのです。

 今日の新約聖書のお話しは、当時の社会的指導者たちの質問です。今日の聖書は復活についての質問になっています。聖書の国は少数民族ですから、子孫を残す決まりごとがあるのです。それをそのまま質問としています。七人の男の兄弟がいます。一番上の人が結婚しますが、子どもが生まれないまま死んでしまうのです。そのような場合、弟がいれば、お兄さんのお嫁さんと結婚して子供を得るのです。そういう決まりがあるのです。質問は意地悪な内容です。一番上の兄が結婚して子供が出来ずに死んでしまい、それで次の弟が兄嫁と結婚するのですが、やはり子供が生まれないまま死んでしまいます。今度は三番目の弟が兄嫁と結婚しますが、やはり子供ができないまま死んでしまうのです。結局、七人の男の兄弟が一人女性と順次結婚したのです。やがて、この女性も死んでしまうのですが、天国では誰の妻なのか、という質問なのです。

その質問にイエス様が答えています。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と示しています。

天国ではみんな天使になっているので、結婚ということはないということ、天国はみな同じように神様の祝福を与えられている、と言われたのでした。だから現実を生きている者として、天国にいるように、みんな一緒に喜びあって過ごしなさいと示しているのです。「自分を愛するように、隣人を愛する」こと、これが約束なのです。今をお導き下さる神さまなのです。

今朝は召天者記念礼拝であり、今は天にある皆さんを心に示されます。そのことを示されながら、私達も永遠の命への道すがら、他の存在を見つめつつ生きること、イエス様が導いて下さっている「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という生き方を実践しつつ歩むことです。この「愛を育む基」、十字架を仰ぎ見つつ歩むことなのです。

 召天者記念礼拝ということで、今は天にある皆さんを示され、やがて私達も天の国へ召されることを示されています。その信仰を深めながら、現実を生きる者として示されたいのです。すなわち、イエス様は現実を神の国として歩むことを教えておられるのです。イエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と示されています。つまり、現実が神の国なのです。そして、この世の生が終わったとき、そのまま永遠の生命へと導かれるのです。文章にたとえれば、読み点「、」を入れて、その後も文章が続くのです。一般には、生の終わりは句点「。」であります。それで終わりということなのです。キリスト教の死生観は、現実も永遠の生命もつながっているということなのです。

 現実を神様の国として歩むのは、イエス様の十字架の救いを信じて歩むことです。「自分を愛するように、隣人を愛する」とき、「神の国はあなたがたの間にある」歩みとなるのです。愛を育む基はイエス様の十字架であると示されつつ歩むことなのです「今を導く神様」なのです。

<祈祷>

聖なる神様。永遠の命への道として愛を育む基を与えられ感謝いたします。互いに愛し合う僕とならせてください。キリストの御名により、アーメン。

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