説教「命の言を聞く」

2012年12月30日、六浦谷間の集会
「降誕後第1主日」歳晩礼拝

説教、「命の言を聞く」 鈴木伸治牧師
聖書、 サムエル記上3章1〜9節、
ヨハネの手紙<一>1章1〜4節
    ルカによる福音書2章8〜20節
賛美、(説教前)讃美歌54年版119「羊はねむれり」
   (説教後)讃美歌54年版453「きけや愛の言葉を」


 前週はクリスマス礼拝で、それぞれの教会は主イエス・キリストのご降誕の喜びを持ちつつ礼拝をささげたことでございます。また、お祝いの集いも祝福されたことでありましょう。このクリスマスで新たなる救いのメッセージを与えられ、希望をもってそれぞれの歩みが導かれたと示されています。私達の六浦谷間の集会もクリスマス礼拝をささげましたが、9名の出席でした。いつもは夫婦でささげる礼拝であり、時には私共の子ども達、また追浜にお住まいになり、大塚平安教会の教会員ですがご高齢になられて教会には行かれない方が、娘さんの送迎で出席されることもあります。いつも少人数ですが、クリスマス礼拝には皆さんが出席されて恵みのひとときを与えられました。その中で特に印象深く示されているのは、一人の方が熱心に説教を聞いてくださったということです。今年の5月に知人の結婚式の司式を致しましたが、今回のクリスマス礼拝に結婚したお二人が出席してくださいました。そして花嫁さんのお姉さんも一緒に出席してくださったのです。礼拝後にお二人の結婚式のビデオを見せていただきました。結婚式ではお二人に向けてメッセージを取り次ぐのですが、メッセージを聞いている会衆の中に、常に頷きつつ聞いてくださっている方がビデオに写されていました。花嫁さんのお姉さんです。メッセージを感銘深く聞いてくださったということです。それで結婚したお二人が六浦谷間の集会のクリスマス礼拝に出席することになったとき、そのお姉さんも出席されることを申しでたのです。六浦谷間の集会でのクリスマス礼拝におきましても、そのお姉さんはメッセージを深く受け止められ、翌日24日の大塚平安教会聖夜礼拝にも出席されたということでした。
 今朝は「命の言を聞く」と題してのメッセージですが、神様の御言葉に耳を傾けること、救いの始まりなのです。クリスマスには、私はいつも「見つめる博士さん」と「聞こうとする羊飼いさん」について、幼稚園の子供たちや施設の礼拝でお話してきました。今はそのような機会がありませんので、お話しができませんでした。今回は降臨節からルカによる福音書におけるクリスマスのメッセージを示されていましたので、まだ「聞く」ことのメッセージには至りませんでした。今朝の聖書で、ようやく「聞く」ことのメッセージに至りました。「見る」ことについては、次週のマタイによる福音書から示されることになります。「聞く」こと、「見る」ことは福音の中心であります。

 旧約聖書は「聞く」ことについての示しです。サムエル記上3章1節から9節の聖書は少年サムエルが主の御声を聞くことが記されています。サムエル記上1章にはサムエルの誕生について記されています。母でありますハンナは子どもが与えられないということで悩んでいました。夫エルカナにはもう一人の妻ペニナがおり、彼女は数人の子供が与えられていたのです。ハンナは子供が与えられないということで、神殿に行っては常にお祈りをささげていたのです。神殿に仕える祭司エリは、彼女の祈りを示され、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と励ますのでした。そしてハンナにも子供が与えられたのです。サムエルと名付けられました。そしてハンナはサムエルが乳離れしたとき、サムエルを神殿に仕えるエリに託したのでした。「わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」と言い、サムエルを神様に仕える者としてささげたのでした。
 こうしてサムエルは祭司エリに仕えつつ成長していきます。そこで今朝の聖書になります。エリは高齢になりつつあり、目がかすんできて、見えなくなっていたということです。少年サムエルが神殿の中で寝ていると、神様はサムエルを呼びました。しかし、サムエルはエリが呼んでいると思い、「ここにいます。お呼びになったので参りました」とエリのもとに行くのです。しかし、エリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言うのでした。その後も神様はサムエルを呼びますが、呼んだのはエリであると思い、エリのもとに行くのです。三度目に呼ばれたときにもエリのもとに行きます。そのときエリは、もしまた呼ばれたら「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言いなさいと諭すのでした。そして、四度目に神様はサムエルを呼びます。サムエルはエリに言われた通り、「どうぞお話しください。僕は聞いております」とその場で神様に応えたのでした。少年サムエルが祈りつつ神様の御声を聞く聖画があります。子ども達にその聖画を示しながら、神様の御声を聞くことをお話しているのです。
 サムエルは神殿のエリに仕えつつ過ごしています。エリの言葉にはいつも従っていたのです。従って、エリの声にはいつも耳を傾けていました。サムエルが寝ているときに、呼ぶ声が聞こえたのですから、サムエルが常にエリの声に耳を傾けていたかを示されるのです。神様がお呼びになったとしても、サムエルはまだ神様の声を聞いたことがありませんので、エリが呼んでいると思うのは当然であります。神様ではなく、エリと言う祭司の声ですが、常に聞く姿勢を持っていたのでした。「主よ、お話しください。僕は聞いております」との姿勢は、サムエルは生涯持つことになります。常に神様の御心を求めて生きたのです。サムエルは年老い、二人の息子も祭司としての務めをするのですが、不正な利益を求め、賄賂を取るような者になってしまいます。そこで、イスラエルの長老たちは「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」と言うのです。しかし、サムエルは王を立てることは悪であると思っています。そこでサムエルは神様の御心を聞くのです。その時、神様は「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい」と言われています。サムエルはこの国が王国となることを望まないのですが、神様の御心として聞き、王国にするのでした。常に「僕はここにおります。お話しください」との姿勢であり、年老いてもなお聞こうとしていたのでした。

 イエス様がお生れになったとき、いち早く駆けつけたのは羊飼いであった、とルカによる福音書は伝えています。世はローマ帝国、皇帝アウグストゥスの時代でありました。皇帝は全領土の住民に、登録をせよとの勅令を出します。それでヨセフさんとマリアさんは住民登録をするために、ダビデの家に所属していましたので、ベツレヘムにやって来たのでした。しかし、多くの人がベツレヘムに来ていますので宿屋に泊まることができませんでした。それで彼らは馬小屋で過ごしたとルカによる福音書は報告しています。そして、マリアさんからイエス様が生まれ、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたとも記しています。ここまでは前週のメッセージで示されています。すなわち、「こんなところ」に救い主がお生れになったということです。人間が思いもかけない所に救いが置かれていたのです。人間の知識、常識では測り知ることのできない神様の御心があるのです。
 「こんなところ」にいち早く駆けつけたのは野原にいた羊飼いさん達でした。聖書の世界は、羊は産業でもありました。産業ですからたくさんの羊を飼うのです。イエス様のたとえ話の中に「見失った羊」があります。設定は百匹の羊を持っている人が、一匹見失ってしまったので、九十九匹を野原に残して、捜しに行き、そしてついに見つけ、近所の人たちと喜びあったのです。失われている存在を捜してくださるイエス様として教えられているのです。実際、羊飼いと羊の関係はそのような関係なのです。百匹の羊を飼っていても、羊飼いは百匹の羊のすべての特徴を知っています。今鳴いている羊はどの羊であるか分かるのです。どのような状況で鳴いているのか、分かるというのです。ですから羊飼いさん達の耳はいつも羊の群れに向けられていたのです。聞こう、聞こうという姿勢を持っていたのです。いろいろな羊の声を聞きながら、羊の状態を把握していたのでした。
 羊飼いさん達が野宿しながら、夜通し羊の番をしていたと聖書は記しています。すると天使が現れ、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生れになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げるのでした。常に羊の声を聞いている、また聞こうとしている羊飼いさん達は、羊の声と共に天使の声を聞くことが出来たのでした。天使は羊飼いさん達ばかりではなく、世界中の人々に告げたのかもしれません。しかし、羊飼いさん以外は、誰も天使のお告げを聞くことが出来なかったのです。世の人々は聞く耳を持たないと、聖書の行間から読みとれないでしょうか。天使は、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子である」と告げています。人間の思いでは「そんなところ」、「こんなところ」に救い主が生まれるはずがないのです。だから、天使のお告げを聞いたとしても、「そんなところ」なので、信じなかったということでしょう。
 「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と羊飼いさん達は話し合い、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探しあてたのでした。ルカによる福音書を読む限り、どこにも「馬小屋」とは記されていません。生まれた乳飲み子は布にくるまれて飼い葉桶に寝かされたのです。飼い葉桶が大切な意味があるからです。宿屋さんのそばにある飼い葉桶ですから、やはり馬小屋と言うことになるのでしょう。遠くから馬や驢馬でやって来て宿屋さんに泊まるからです。宿屋さんには馬小屋があるということです。その馬小屋であるから、羊飼いさん達は来ることが出来たのです。彼らは、確かにメシアが生まれ、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子として天使から聞いたのです。立派な御殿であるとか宮殿であるとすれば行くことはできなかったでしょう。羊飼いさん達は「飼い葉桶」であると、確かに聞くことが出来たのです。常に聞く耳を持つ羊飼いさん達は、天使のお告げを正しく聞いたということです。「救い主は御殿で生まれた」と言うお告げでなければ、人々は聞くことが出来なかったということです。
 主イエス・キリストは「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた、とルカによる福音書8章8節で言われています。ここでは「種を蒔く人のたとえ」をお話しされたのですが、お話しが終わると「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたのです。「種を蒔く人が種を蒔いているうちに、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽が出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。他の種は良い土地に落ち、百倍の実を結んだ」と言うたとえ話です。このお話は、人々にとって面白いお話であったでしょう。しかし、ただ面白いでは意味がないということです。イエス様はお弟子さん達に対して、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」と言われています。聞くことが出来ない、見ることが出来ないのは、「こんなところ」、「そんなところ」との常識があるからでした。神様の御心に「聞く耳があるか」、「聞こうとしているか」と聖書は問うているのです。羊飼い物語はそのようなメッセージなのです。

 羊飼いは羊の声を聞き、羊もまた羊飼いの声を聞き、従っていくのです。昔、「ベン・ハー」と言う映画を観ましたが、物語が展開し、最後のシーンは羊飼いと羊が写されて終わりとなります。羊飼いについて行く羊たちを象徴的に現しているのです。イエス様の飼い葉桶に、なぜ羊飼いが馳せ参じたのか。それはイエス様がそのような存在であるからです。主イエス・キリストは私達に耳を傾けてくださっていますが、羊である私達もイエス様の羊飼いに耳を傾けて歩むということです。イエス様が現れたときから、もうそこから羊飼いと羊の関係を示しているのです。
 今朝は歳晩礼拝です。2012年の最後の礼拝です。六浦谷間の集会として、少人数ですが、このところで礼拝がささげられることは神様のお恵みであり、お導きであると思っています。神様の御声を聞くことは、私達の生活の中で聞くことですが、やはり礼拝をささげることにより神様の御声が聞こえてくるのです。今年は9月から二ヶ月間、スペイン・バルセロナにいる娘の羊子のもとで連れ合いと共に過ごしてきました。土曜日にバルセロナ日本語で聖書を会の礼拝が行われ、日曜日には羊子が奏楽奉仕をしているカトリック教会のミサに出席しました。私としてはもはや礼拝をささげたとの思いを持っていたのですが、娘の羊子が六浦谷間の集会バルセロナ礼拝をささげたいというのです。もう礼拝をささげたのに、と思わず娘に言ったのですが、娘の言う通りに礼拝をささげたのでした。主体的に礼拝をささげる、神様の御声が聞こえてくるのです。羊飼いさん達のように、絶えず羊の群れに耳を傾けている、そのことは私達も常に神様に耳を傾けていることを示されて来るのです。主イエス・キリストの十字架の贖いに耳を傾けるということです。私達の歩むべき道を神様は示しておられるのです。この十字架の言葉に耳を傾けることです。
<祈祷>
聖なる御神様。聞く耳を与えてくだり感謝致します。十字架から聞こえてくるみ声を真実聞くことができるよう御導きください。主の御名によりおささげします。アーメン。