説教「神さまのみ言葉」

2021年12月5日、六浦谷間の集会

「降誕前第3主日」       

                      

説教・「神さまのみ言葉」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書36章1-8節

   テモテへの手紙<二>4章1-8節

   マルコによる福音書7章1-13節

賛美・(説教前) 讃美歌21・236「見張りの人よ」

   (説教後) 讃美歌21・511「光と闇とが」

 降臨節第二週となり、二本のローソクにより明るくなりました。クリスマスが近づき、一段と明るくなったことを示しているのであります。三本のローソクが点灯し、そして四本のローソクが点灯しますとクリスマスを迎えることになります。四週間前から主イエス・キリストのクリスマスを待望する、心の備えが導かれているのであります。

 この時期になりますと幼稚園もクリスマスにはページェントを演じて、イエス様のご降誕をお祝いします。そのため今は練習をしているところでありますが、子供たちはそれぞれの役になりきって、一生懸命に演じています。ページェントはイエス様のご降誕の物語であり、馬小屋の中で生まれたイエス様は飼い葉桶に寝かされており、そこに天使のお告げを受けた羊飼いさん達がお祝いにやってきます。星の導きを受けて博士さんたちがやって来て宝物をささげます。天使さん達も飼い葉桶を囲んで礼拝するのです。このクリスマス物語はマタイによる福音書ルカによる福音書に記されている物語を合成したものです。私たちは素朴にその物語を受け止め、イエス様のご降誕をお祝いしているのです。

 このことは聖書を読む人々の解釈が表現されることになるのです。西洋の歴史においてキリスト教が大きな役割を果たしていますが、なかでも芸術に関しては今でも鮮明に残されています。2011年でありますが、バルセロナに滞在したとき、娘がパリの三大美術館、ルーブルオランジュリー、オルセー美術館の見学に連れて行ってくれましたが、聖書物語を題材とした絵画の多さに驚くばかりです。ルーブル美術館ではキリストの十字架の絵画が数多く展示されており、キリスト教の信仰を持たない人々にとっては気持ち悪い印象があるのではないかと思います。パリの美術館ばかりではなく、各国の美術館、また教会にはたくさんの聖書に関する絵画、彫刻が展示されているのです。これらは作者の思い、聖書を受け止めた姿勢において描かれており、また制作されています。作品を鑑賞することにより、作者の聖書の受け止め方を示されるのです。

 聖書の言葉を何回も反芻しながら受け止めて行く姿、直観的に示される姿、いろいろな姿勢がありますが、聖書の言葉をどのように受け止めているのか、そのことを示されているのです。「神様のみ言葉をいただきながら」歩む私達として、今の状況の中でどのようにみ言葉が示されているのか、改めて示されたいのです。

 神様のお心をおろそかにすること、旧約聖書エレミヤ書が示しています。36章1節以下であります。神様はエレミヤに御心を示します。「巻物を取り、わたしがヨシアの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」と言われたのであります。神様がエレミヤに「語ってきた言葉」はここには具体的に記されていませんが、エレミヤ書のいたるところで神様がエレミヤに示した言葉であります。それは神様の御心に帰ることであります。御心に立ち帰り、御心により生きるならば救いの道が開かれるのであります。神様の御心とは、既に示されている十戒を中心として、他の何者にもこころを向けることなく、ただ神様に心を向け、他者の存在を大切にして生きることであります。既に示されている神様の御言葉なのであります。しかし、人々は神様から離れ、自分の思いのままに生きようとしています。それは滅びの道なのであり、神様の御心に立ち帰ることをエレミヤは示しているのです。「帰る」とは聖書の言葉で「シューブ」でありますが、エレミヤ書の主題はまさに「シューブ」でありました。神様の御心に立ち帰りなさいと示しているのです。

 エレミヤは神様の「シューブ」を示します。それをバルクという人がエレミヤの語る言葉をすべて巻物に記したのであります。エレミヤは時の指導者たちによって神殿に入ることは禁じられていました。それはエレミヤがはっきりと神様の御心を示すので、指導者たちはエレミヤの言葉を聞こうとしないし、人々にも聞かせてはならないとしているのであります。それでエレミヤは自分が神殿には行かれないので、弟子のバルクに巻物に記した言葉を神殿で読ませるのであります。バルクはエレミヤの指示通り、神殿に行き、大勢の人の前で巻物を読んだのであります。それを聞いた良心的指導者たちは、この事が王様の耳に入るとエレミヤの命が危ないと判断し、エレミヤとバルクに隠れるように促すのであります。エレミヤの巻物については指導者たちも知ることになり、実際に巻物が取り寄せられ、それが王様のもとへと渡ります。王様は巻物を読ませます。王様は巻物を聞きながら、読み終えた部分を暖炉の火で燃やしていくのであります。ついに巻物を全部読み終えたとき、手元には巻物が残らず、すべて暖炉で燃やされてしまったのです。神様のお心をおろそかにし、顧みようともしない王様の姿勢でした。王様の部下達も巻物の内容を聞いても、悔い改めるどころか、いきりたってエレミヤを捕らえようとします。しかし、エレミヤもバルクも良心的な指導者たちの勧めによって隠れていますので捕らえることができなかったのであります。普遍的な神様のお心は時代を経ても変ることはありません。

旧約聖書の人々は神様の御言葉を拒否しましたが、新約聖書の人々は都合よく御言葉を変えて生きていました。自分達の都合の良いように神様のお心を変えてしまっていました。そのことを示すのがマルコによる福音書7章1節以下です。イエス様のもとへ当時の指導者といわれるファリサイ派の人々、律法学者が来ました。イエス様のお弟子さん達が手を洗わないで食事をしているのを見て批判するのです。手を洗うということ、これは汚れたものを洗い清めるという意味です。今日のようにばい菌を洗い、コロナの感染予防ということではなく、汚れから身を守るということなのです。旧約聖書レビ記11章には「清いものと汚れたものに関する規定」が記されています。その中に、「死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。また、死骸を持ち運ぶ者もすべて夕方まで汚れる」と記されています。つまり死骸に触れた人が、柱や構築物に触れたとき、その触れた部分を誰かが触れたとき、その人は間接的に汚れたものに触れたことになり、汚れを持つことになるのです。従って、食事の前には手をよく洗い、汚れを洗い流すのです。これは宗教的な教えでありました。

それに対してイエス様は14節以下で、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」と示しています。これらのことは宗教的な言い伝えでした。イエス様は言い伝えを厳格に守ろうとしている人々に対し、むしろ神様の御心、御言葉を都合よく変えてしまっていることに対して反省を求めているのです。神様が人間に与えた十戒の中に、「あなたの父と母を敬いなさい」との戒めは第五戒として与えられています。神様からいただいた御言葉を守ることの教えでありました。しかし、「あなたにさし上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に何もしないで済むのだ、と言っているのです。これは言い伝えで、神様の御言葉を都合よく変えているのです。都合の良いように神様の御言葉を変えてしまうこと、イエス様の怒りがここに示されているのです。

 クリスマスを迎えていますが、クリスマスは十字架への始まりであり、救いの始まりであることを示されなければならないのです。世の中は、もはやクリスマスにもなっています。町を歩けばきらびやかな電飾で、流れるクリスマスソング、気持ちはまさにクリスマスです。クリスマスは十字架への始まりであることを知っていただきたいのです。

 クリスマスには博士さんが登場しますが、東の国の占星術の学者さん達です。この人たちは星占いの人たちで、いつも星を見続けていました。その「見る」という姿勢が、救い主が生まれたという導きの星を見ることができたのです。さらに羊飼いさんたちは多くの羊を飼っており、いつも羊の声を聞いています。それぞれの羊の鳴き方を知っています。小さい声の鳴き声でも聞こうとしていたのです。その「聞く」ということが、イエス様がお生まれになったという天使の歌声を聞くことができたのです。

 クリスマスを迎えます。私たちもマリアさんのようにお告げを信じ、羊飼いさんや博士さんのようになることが、「神様のみ言葉」いただく人生へと導かれるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。お導きのみ言葉を感謝致します。み言葉に導かれつつ歩ませてください。主イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。

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