説教「本当の喜びをいただくために」

2019年12月8日、三崎教会
待降節第2主日」 アドベント

 

説教、「本当の喜びをいただくために」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記上22章10~17節
          ヨハネによる福音書5章31~40節
賛美、(説教前)讃美歌21・236「 見張りの人よ」

           (説教後)448「 お招きに応えました」

 


降臨節第二週となり、二本のローソクにより明るくなりました。クリスマスが近づき、一段と明るくなったことを示しているのであります。三本のローソクが点灯し、そして四本のローソクが点灯しますとクリスマスを迎えることになります。四週間前から主イエス・キリストのクリスマスを待望する、心の備えが導かれているのであります。
 今、勤めている伊勢原幼稚園もクリスマスにはページェントを演じて、イエス様のご降誕をお祝いします。そのため今は練習をしているところでありますが、子供たちはそれぞれの役になりきって、一生懸命に演じています。ページェントはイエス様のご降誕の物語であり、馬小屋の中で生まれたイエス様は飼い葉桶に寝かされており、そこに天使のお告げを受けた羊飼いさん達がお祝いにやってきます。星の導きを受けて博士さんたちがやって来て宝物をささげます。天使さん達も飼い葉桶を囲んで礼拝するのです。このクリスマス物語はマタイによる福音書ルカによる福音書に記されている物語を合成したものです。私たちは素朴にその物語を受け止め、イエス様のご降誕をお祝いしているのです。
 このことは聖書を読む人々の解釈が表現されることになるのです。西洋の歴史においてキリスト教が大きな役割を果たしていますが、なかでも芸術に関しては今でも鮮明に残されています。以前のことですが、バルセロナに滞在したとき、娘がパリの三大美術館、ルーブルオランジュリー、オルセー美術館の見学に連れて行ってくれましたが、聖書物語を題材とした絵画の多さに驚くばかりです。ルーブル美術館ではキリストの十字架の絵画が数多く展示されており、キリスト教の信仰を持たない人々にとっては気持ち悪い印象があるのではないかと思います。パリの美術館ばかりではなく、各国の美術館、また教会にはたくさんの聖書に関する絵画、彫刻が展示されているのです。これらは作者の思い、聖書を受け止めた姿勢において描かれており、また制作されています。作品を鑑賞することにより、作者の聖書の受け止め方を示されるのです。
 私は数年前、横浜市立大学のエクステンション講座を受講しました。そのときのテーマは「イタリア・ルネサンス美術の3大巨匠」(天才芸術家の名作探求)で、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロの芸術を学ぶものです。最初に開かれた講座は、「イタリア・フレスコ画の歴史」について学びました。昔からの画家たちが精力的に残した名画を鑑賞する時、その絵のすばらしさだけを見て、その制作過程については思いも及びませんでした。その講座でテンペラ画、フレスコ画、油絵画等を知ることになりました。フレスコ画は、まず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描きます。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を必要とします。失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直すほかはないということです。このフレスコ画が始まるのは1250年頃で、ミケランジェロが1508年から1512年までの4年間でヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画を描くのはこのフレスコ画であります。フレスコ画は漆喰が乾かない状態で顔料を施すので、漆喰が乾いたとき岩盤になります。従って、その絵は空気に触れても衰えることがなく、何百年も原型のままなのです。ところがフレスコが現れる前の時代はテンペラ画でありました。テンペラ画は卵と顔料を融合させて仕上げるもので、年月の経過と共に衰えることになります。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はテンペラであり、だんだんと劣化している現状であるということです。レオナルド・ダ・ヴィンチは熟考する人で、作品に向かっては何回もやり直しをするのです。そのためフレスコ画が流行るようになっても、やり直しができないフレスコ画では描かなかったと言われる。その点、ダ・ヴィンチに師事していたミケランジェロフレスコ画により師を抜くことになるのです。レオナルド・ダ・ヴィンチは絵を描いては、また思い直して修正し、更に描き直して作品を仕上げたということです。それに対してフレスコ画はやり直しができないので、直観的に絵にして行くわけです。レオナルド・ダ・ヴィンチは、例えば「最後の晩餐」の絵を描く時にも、その場面、聖書の場面を繰り返し思い返し、手を加えて行ったと示されます。それに対してミケランジェロは聖書の場面を直感的に受け止めて描いていたと示されるのです。聖書の言葉を何回も反芻しながら受け止めて行く姿、直観的に示される姿、いろいろな姿勢がありますが、聖書の言葉をどのように受け止めているのか、そのことを示されているのです。「本当の喜びをいただくために」聖書に向き、御心を示されて歩みたいのであります。

 旧約聖書は列王記上22章10節以下を示されています。預言者ミカヤの預言活動について示されています。今、聖書の民・イスラエルの国はアラムの国と戦っています。同盟国のユダの王様がイスラエルの王様に、アラムを攻めるべきか神様の御心を尋ねなさい、と勧めるのです。そこで、イスラエルの王様は預言者400人を集めて、神は何を示しているかと問うたのであります。「わたしは行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と預言者たちに問います。すると預言者たちは「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と口を揃えて答えたのでありました。これは真実の預言ではありません。王様の満足を得るための預言でありました。同盟国のユダの王様は、預言者はこれだけかと聞きます。するとイスラエルの王様は、まだ一人いる、しかし、彼はわたしに幸運を預言することなく、災いばかりを預言するので、わたしは彼を憎んでいます、と答えたのであります。憎んでいる預言者ミカヤと言う預言者でした。そのとき、ユダの王様はイスラエルの王様をいさめ、ミカヤからも神の言葉を聞くように勧めるのです。イスラエルの王様は使いを出してミカヤを呼びに行かせます。その使いの者はミカヤに、「預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」と言い含めるのです。ミカヤイスラエルの王様に、使いの者が言い含められたとおりのことを言います。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言います。すると、イスラエルの王様は、いつも災いばかりを預言するのに、幸運をもたらすというミカヤの言葉が信用できず真実を迫るのです。するとミカヤは神様から示された通りの預言を語るのです。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』といわれました」と預言を示します。「羊飼いのいない羊」になるということは王様が敗れることを意味しているのです。王様はミカヤの預言を無視して戦いに出ます。しかし、ミカヤの預言通りに戦いで死んでしまうのです。イスラエルの王様は神様のお心ではなく、常に自分の思いによって生きようとしました。だから、ミカヤの預言はいつも自分には災いなので、聞く耳を持たなかったのでした。
 偽りの預言があります。それを喜んで受止めようとすることは、自分がそのように思っているからであります。神様の御心を聞くとき、私には不都合であることもあり、聞きたくないときもあるのです。真実を聞く姿勢、それは祈りつつ神様に求めることであります。「本当の喜びをいただくために」自分の思いを捨てなければならないのです。

ヨハネによる福音書は5章31節からですが、主イエス・キリストが、神様の証しにおいて人々の中にいることを示しています。このヨハネによる福音書5章は1節から9節において、主イエス・キリストがベトザタの池で一人の病人を癒したことが記されています。ベトザタの池の周りには病気の人等が大勢横たわっていました。池の水が動いたとき、池の中に入ると病気が癒されるとされていました。池の水が動くというのは、間欠泉であり、温泉のような池であったと思われます。源泉に触れると癒しの効果が働くのでしょう。そこに38年間病気の人がいました。イエス様はその人に「良くなりたいか」と聞くのです。良くなりたいのは当たり前であると思いますが、その後の会話により、イエス様が尋ねた意味が示されます。聞かれた人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言うのでした。つまり、この人は誰かが自分を池の中に入れてくれないから、だからこの病気が直らないと思っているのです。人任せになっているということなのです。「良くなりたいか」と聞かれたイエス様の意味はここにあるのです。そして、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と促します。自分で、人の力を待つのではなく、自分で起き上がりなさい、と励まされたのでありました。この人は立ち上がりました。歩くようになったのです。
 その日は安息日であり、この日に床を片付けるということは労働行為でありました。安息日は一切の働きを休んで、神様の創造の恵みを感謝する日であります。従って、人々はイエス様を批判します。そこでイエス様と人々の間に論争が繰り広げられるのでありました。今朝の聖書はその流れの中にあるのであります。人々はイエス様の働き、教えを批判するようになり、イエス様の存在すら否定するようになります。それに対してイエス様はご自分の証をされているのがヨハネによる福音書5章31節以下の今朝の聖書であります。
 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」とイエス様は言われています。自分自身の証しでもなく、人の証しでもない、唯神様が真実を示しているのであり、その真実の証を信じなさい、と示しているのであります。神様は旧約聖書以来、預言者を通してメシア・救い主の出現について示してきました。そして、イエス様も言われるとおり、バプテスマのヨハネが真実の救い主であるイエス・キリストの証をしました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解くしかくもない。」(ヨハネによる福音書1章26節)と真実を示したのでありました。
 そして、何よりも真実の示しはイエス・キリストの教えであり、力ある業に真実が示されていました。人々はその教えを耳にし、その業を示されては驚き、心に強く示されていたのであります。それでいながら真実を受止めない姿勢は、かたくなな姿勢のなにものでもありません。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」とイエス様は言われています。「本当の喜びをいただくために」主イエス・キリストの御心を示されなければならないのです。

 クリスマスを迎えていますが、クリスマスは十字架への始まりであり、救いの始まりであることを示されなければならないのです。世の中は、もはやクリスマスにもなっています。町を歩けばきらびやかな電飾で、流れるクリスマスソング、気持ちはまさにクリスマスです。クリスマスは十字架への始まりであることを知っていただきたいのです。
 先ほども触れましたが、幼稚園のクリスマスではページェントでお祝いします。ページェントでそれぞれの役割を演じる子供たちは、一生懸命に役になりきっています。マリアさん、ヨセフさん、そして博士さんや羊飼いさんの役を演じるのですが、その役が今後の歩みの励みになっていただきたいと思います。昔、宮城県の教会で牧会しているころですが、ある年の幼稚園のクリスマス、演じられたページェントが忘れられません。マリアさんとヨセフさんが、宿屋さんの入口に立っては、「泊めてください」とお願いします。すると、「宿屋さんは、うちの宿はいっぱいなので、向こうの宿屋さんに行ってください」と断ります。その年のマリアさんは宿屋さんの主人の前で、土下座してお願いするのです。これにはびっくりしました。練習では、土下座することなく、ヨセフさんと共に立ってお願いしていました。クリスマスの当日になって、いきなり土下座することになるのです。おそらく家の人、きっとお母さんが、そのようにお願いしなさいと教えたと思われます。東北のしきたりなのかもしれませんが、お願いするときには、身を低くすることなのでしょう。それはそれで意味があると示されたのでした。このマリアさんが、その後、身を低くして成長したのでしょうか。いろいろと考えさせられたのであります。クリスマスには博士さんが登場しますが、東の国の占星術の学者さん達です。この人たちは星占いの人たちで、いつも星を見続けていました。どんなに小さい星でも、光の弱い星でも見ることでした。その「見る」という姿勢が、救い主が生まれたという導きの星を見ることができたのです。だから博士さんのようにお友達を、どんなお友達も見ましょうと子どもたちにはお話しています。さらに羊飼いさんたちは多くの羊を飼っており、いつも羊の声を聞いています。それぞれの羊の鳴き方を知っています。だから、小さい声の鳴き声でも聞こうとしていたのです。その「聞く」ということが、イエス様がお生まれになったという天使の歌声を聞くことができたのです。私達も羊飼いさんのようになりましょうとお話しています。
 クリスマスを迎えます。私たちもマリアさんのようにお告げを信じ、羊飼いさんや博士さんのようになることが、「本当の喜びをいただくために」大切なことなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。クリスマスの喜びを与えて下さり感謝致します。聖書の御言葉を示され、本当の喜びをもって歩ませてください。キリストの御名よりおささげします。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com