説教「私を養う存在」

2014年5月4日、六浦谷間の集会
「復活節第3主日

説教・「私を養う存在」 鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル書34章11-16節
    ペトロの手紙<一>5章1-11節
     ヨハネによる福音書10章7-18節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・149「とこよにわたりて」
    (説教後)讃美歌54年版・354「牧主わが主よ」 


 私たちは、主イエス・キリストのご復活をいただき、主のお導きをそれぞれの生活の中で与えられながら歩んでおります。今年は4月20日が主イエス・キリストのご復活日でありました。イエス様はそれから40日間、ご復活のお姿をお弟子さん達や人々に現されているのであります。ですから、私達はご復活のイエス様をしっかりと示される時なのであります。ご復活のイエス様は私達の生活、職場、社会の中に生きる中で現わされているのであります。従って、私達は今いる状況の中でご復活の主が共におられて導いておられることを信じつつ歩みたいのであります。
 今朝の旧約聖書新約聖書も羊飼いと羊の関係が示されています。羊飼いが羊を養うこと、それは教会の牧師と教会員の関係にたとえられるのです。すなわち羊飼いである牧師は羊である教会員を養うのであります。「牧師」という呼称も「牧する人」という意味で、羊を牧すること、教会に集まる人を牧するのです。その関係の職務を「牧会」と称しています。「牧会」と言われても、一般社会の人たちはその意味が分かりません。キリスト教の独特な言葉であります。牧師になるとき、または牧師が教会に赴任するときに歌われる讃美歌があります。讃美歌21の97番です。その3節は、「身をおしまぬ羊飼いとなるため、朝に夕に主に従い、ゆかせたまえわが主よ」と歌っています。これは牧師の立場です。そして1節は、「羊飼いの羊飼いよ、主イエスよ。いまささぐるわが祈りに、こたえたまえ、愛もて」と歌うのです。牧師は人間でありますが、神様の選びをいただき羊飼いとなります。しかし、人間の羊飼いに対して、その羊飼いを養う存在、主イエス・キリストを大羊飼いと称します。大牧者と称しているのです。人間の羊飼いはイエス様の真の羊飼いから職務を委ねられて、イエス様の十字架の救いへと人々を導くのです。
 牧師はイエス・キリストから職務を委ねられていると申し上げました。イエス様の十字架の救いを人々に宣べ伝えるのです。しかし、牧師として教会の皆さんのすべてを担うことになります。結婚式の司式をします。結婚した二人に対して聖書の導きを与えます。赤ちゃんが生まれれば、お祈りして祝福をします。教会学校に通う子ども達にイエス様の御心を教えます。そして、日曜日の礼拝により、イエス様の神様による救いを示すのであります。教会員の生活の諸問題を共に担います。そして、教会の葬儀を行います。葬儀を通して神様の御国に生きることの喜びを示すのです。牧師は教会に集まる皆さんと共に、イエス様の御心を示しながら歩むのです。それを「牧会」と称しているのです。現役の頃、イエス・キリストを信じて生きる決心をした人が洗礼を受けますが、42年間で私が洗礼を授けた人は100人近くおられます。そして、葬儀の司式をしたのは200回までは行きませんが、それほど多くの皆さんの葬儀を行いました。牧師としての務めなのです。
 そのような自分自身を思いながら、改めて羊飼いの羊飼い、イエス様の示しをいただきたいのであります。

 主イエス・キリストはこの私のすべてを担ってくださっている、今朝のメッセージであります。聖書の世界は羊と羊飼いの例えが多く示されていますが、イエス様が羊飼いであり、私達が養われる羊であること、今朝の示しであります。
 旧約聖書は神様が良い羊飼いとして人々を導いているのであります。今朝はエゼキエル書34章により示されています。エゼキエルという預言者は囚われの状況の中で神様の御心を示した人であります。聖書の国は王国としてサウル、ダビデ、ソロモンと続きますが、ソロモン王の後は北イスラエルと南ユダの国に分かれてしまいます。北イスラエルは紀元前721年にアッシリアという大国によって滅ぼされてしまいます。南ユダは紀元前587年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。時の指導者たちは神様の御心に従わず、大きな国々の狭間にあって、こちらの国の力、あちらの国の力に頼ろうとします。滅びに至るのは、神様の御心に従わない審判でもありました。バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに囚われの民として連れて行かれるのであります。その中にエゼキエルがいました。囚われの民を捕囚の民といっていますが、エゼキエルは捕囚としてバビロンで過ごすうちに神様の召しをいただくのであります。そして捕囚となっている人々、希望をなくし、力をなくし、苦しみつつ生きる人々に神様の御心を示すのであります。
 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」と示します。神様は羊飼いであると示し、ばらばらになっている羊を一つに群れに導くと言われているのであります。聖書の人々は歴史を通して外国から攻められ、そのたびに人々は外国に逃れ、散り散りになっています。その人々を離散の民と称しています。ディアスポラと称していますが、今や神様がディアスポラを集め、一つの群れに導くと言われるのであります。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と示すのであります。
 聖書の人々は神様に選ばれた民です。それは最初の人であるアブラハム、次にイサク、ヤコブと続きますが、神様が選びの民として導いていますが、この関係を通して聖書の人々で無い人々にも神様の導きを与えているのであります。選びの民との関係は人々への示しであります。従って、選びの民への示しは、広く世界の人々への示しであり、導きであるのであります。私達は聖書の示しを私自身への神様の示しとしていただかなければならないのであります。今、エゼキエルが捕囚の人々に神様の導きを与えたとき、この導きは私の導きとして示されなければなりません。「わたしは良い牧草地で彼らを養う。彼らは山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる」と示しております。羊が良い牧場で養われること、まさに希望であります。神様が生活の糧を与え、生活の場を与えてくださるのです。神様に心を向けるとき、神様は必ず良い羊飼いとなって、私という羊を養ってくださるのです。そうであれば、今生きている場が神様の牧場であるのです。この牧場で生きることであります。この牧場は御言葉という牧草をいただく場、教会であり、教会という牧場で神様が私達を養ってくださるのであります。

 「わたしは良い羊飼いである」と主イエス・キリストは宣言されています。イエス様は旧約聖書で示されている神様と人々との関係を、そのままご自分にあてはめているのであります。イエス様が世の人々の前に現れた時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。時が満ちるとは、主イエス・キリストによる救いが実現する時なのであります。今まで聖書の人々は救い主を待望しつつ生きてまいりました。ダビデ王の時代は、まさに平和な時代でした。そういう時代が再び来るために、そのために救い主が現れることを待望していたのであります。しかし、人々の待望は力の強い王様的な存在として、権力を持って平和を与えてくれると信じていたのであります。イエス様が現れた時もそのように思っていました。イエス様は人々に神様のお心を示し、神様の業を現しました。人々は心の潤いを与えられ、体を損ねている人々を喜びへと導かれたのです。しかし、人々はイエス様を救い主として信じるまでには至りませんでした。人々がイエス様を真の救い主として信じるのは十字架に寄らなければなりません。その救いの時はまだ来ていなかったのであります。
 「わたしは良い羊飼いである」と宣言されています。「わたしが来たのは、羊が命を受けるためである」と示されています。羊が命を受けるために、イエス様がご自分の命を捨てられたのであります。イエス様が十字架によりご自分の命を捨てられたのは、私達がイエス様の命をいただき、永遠の命へと導かれるためであります。イエス様はヨハネによる福音書11章25節で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と示されました。「死んでも生きる」、「信じる者は死ぬことはない」と示されていますが、私達の信仰の人生を示しているのであります。イエス様の教えは神様の国に生きることであります。この現実はいかなるものでありましょうとも、苦しい状況かもしれませんし、悲しい現実なのかもしれません。しかし、イエス様を信じるとき、すでに神の国に生かされているのであります。神様の国は死んで行くところではありません。今の現実の生活において、ここが神の国であることを信じて生きることなのであります。
 ヨハネによる福音書11章はラザロの復活が示されています。死んでから4日も経ているラザロの墓にイエス様が行きました。人々はラザロの死で悲しんでいるところでした。イエス様は墓の中のラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれました。すると死んでいたラザロが墓から出てきたというのです。この事実をどのように解釈するのでしょう。これはイエス様が言われたように、「死んでも生きる」「信じる者は死なない」と言われたことが現実に示されたということであります。イエス様の示す神様のお心により生きる者は、現実が神様の国に生きていますから、死ということではなく、永遠の命に生きる者として示されるのであります。その神の国に生きること、良い羊飼いの牧場に導かれ、御心をいただきつつ生きる羊となることであります。良い羊飼いはどんなことがあっても、羊の私達をお守りくださるのであります。偽りの羊飼いは自分に危険が迫れば、羊を放り出して逃げてしまうとも記しています。羊のことを心にかけていないからであります。良い羊飼いは私達のことを常に心にかけておられるのであります。
 クリスマスを迎えるアドベントの時、幼稚園の子ども達に羊飼いのお話をしていました。救い主がお生まれになったことを天使のお知らせで知り、いち早く馬小屋に駆けつけたのは羊飼い達でありました。なぜ羊飼いが救い主がお生まれになったことを知ることができたのか。羊飼いは羊を養う者として、いつも耳を傾けています。今ないている羊はどの羊なのか分かります。羊のメイタロウというわけです。あのなき方はお腹がすいているということ、あるいは具合が悪いということ、羊のなき声で知るのです。だから羊飼いさんはいつも聞こう、聞こうとしています。その姿勢が神様のお告げを聞くことができました。だから私達もいつもお友達の声に耳を傾けましょう。神様のお告げも聞こえてきます、とお話しています。人間の羊飼いがそのような姿勢であるなら、イエス様の羊飼いは私達のどんな声でも聞きとってくださるのであります。

 最初の部分で、私の現役牧師時代を振り返りました。もう少し振り返っておきたいと思います。大塚平安教会の牧師でありましたが、教会の幼稚園でもあるドレーパー記念幼稚園の園長を担っていました。現在は教会の牧師は幼稚園の園長ではありません。それぞれの職務を兼務することは大変であるからです。ところが私が大塚平安教会に就任したころ、ドレーパー記念幼稚園は学校法人に移行したばかりでありました。今まで宗教法人の教会幼稚園であったのに、学校法人になることによって教会からまったく分離してしまった例がいくつもありました。牧師が学校法人幼稚園を私物化してしまうということです。その様にならないために、大塚平安教会の牧師は幼稚園の園長であり、しかも学校法人の理事長を兼務すすることにしたのです。こうして大塚平安教会の牧師は幼稚園の園長であり、学校法人の理事長であったのです。これらのことを反省として、私が退任するにあたり、教会の牧師は学校法人の理事長になりますが、園長は別の人、大塚平安教会の教会員が担うことになったのです。それでよろしいと思います。
 私の時代はすべて牧師が担っていました。しかも大塚平安教会は社会福祉法人である知的障碍者の二つの施設、綾瀬ホームとさがみ野ホームと密接な関わりを持っていました。牧師はそれぞれのホームの嘱託牧師になるのです。それぞれ週に一回は職員と利用者の礼拝をささげていました。そして利用者が召天されると葬儀の司式をするのです。このほかに外部の活動をしなければなりません。私は神奈川教区の書記、副議長、議長を担いました。神奈川教区の職務が終わると日本基督教団の職務を担うようになりました。まず教師委員会の委員を2年間担いました。そして教団総会書記に選ばれ、4期8年も書記を担ったのです。早稲田の教団事務所に行き来していました。更に八王子医療刑務所教誨師、神奈川医療少年院篤志面接委員を16年間も担ったのです。これだけの職務を、よくも担ったものだと、自分で感心しています。いろんなことをしているので、牧会がおろそかになっていると言われないために、教会の牧会や事務仕事、幼稚園の園長としての職務や学校法人の理事長としての職務を取りこぼしが無いように担ったのです。決して余計なことをしたとは思っていません。すべては私に与えられた牧会であると思っていたのです
 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とイエス様はお示しになりました。十字架によって私達を真の命へと導いてくださっているのです。そのイエス様に導かれての牧会でありました。私たちの羊飼いであるイエス様を見つめるということです。
<祈祷>
聖なる御神様。日々、良い羊飼いのイエス様に導かれ感謝いたします。御心をいただき、真の命を与えてください。イエス様のお名前によりおささげいたします。アーメン。