説教「新しい生き方」

2014年5月11日、横須賀上町教会
「復活節第4主日

説教・「新しい生き方」 鈴木伸治牧師
聖書・レビ記19章9-18節、
    ヨハネによる福音書13章31-35節
賛美・(説教前)讃美歌21・546「世界中の父や母を」
   (説教後)讃美歌21・481「救いの主イエスの」 


 毎年5月の第二日曜日は「母の日」として、社会的にも覚えられています。しかし、それは表面的なことであり、必ずしも「母の日」を喜べない方もおられるわけです。現在の状況、親子の関係がどのようなものでありましょうとも、自分を生んでくれたお母さんなのであります。そこに原点をおいて、本日の「母の日」を受け止めるべきであります。
 インターネットで「母の日」について検索してみました。ほとんどがギフトの紹介で、起源については、探すことができませんでした。根気よく調べれば良いのでしょうが、プレゼントばかりの紹介です。この「母の日」の始まりはアメリカの教会から始まりました。教会学校の教師をしていた母が亡くなり、その後、娘が母の記念会にたくさんのカーネーションを飾って、母を称えたということです。人々に感銘を与え、5月の第二日曜日であり、この日は母を称える日として覚えられるようになったということです。お母さんへの感謝を現すということで、やはり贈り物をしましょうと商売に乗せられているのです。
 聖書の中にもいろいろなお母さんの姿があります。旧約聖書ではイサクの母サラ、ヤコブの母リベカ、ヤコブの12人の子ども達の母レア、ラケル、ビルハ、ジルパ。サムエルの母ハンナ、オベドの母ルツ等が登場しています。新約聖書ではイエス様の母になるマリアさんバプテスマのヨハネの母エリサベト、イエス様のお弟子さんになったヤコブヨハネの母マリア等が登場しています。いずれのお母さんも子どものために一生懸命な姿が記されています。マタイによる福音書15章21節以下に記されるカナンの女性、娘の病気のためにイエス様に懇願しているお母さんの姿は感銘深い姿であります。イエス様がティルスとシドン地方に行かれた時、カナンの女性がイエス様のところにまいります。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びながらイエス様について行くのであります。最初、イエス様は何も答えませんでした。女性が叫びながらイエス様についてくるので、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」とイエス様は女性に言いました。マタイによる福音書の目的は、聖書の人々、イスラエルの人々のためにイエス様が現れ、福音を示されているということであります。ですから、冷たい言い方でありますが、外国人のために来ているのではないと言われるのであります。それに対してカナンの女性は、なおも「お助けください」とお願いいたします。イエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われるのです。あくまでもイスラエルの人々への福音であると示しているのです。それに対してカナンの女性は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と、主イエス・キリストへの信仰を告白するのであります。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とイエス様はカナンの女性を祝福したのでありました。ここではカナンの女性の信仰として示されていますが、子どもへの深い愛情がイエス様の祝福へと導かれたのであります。不可能であるということは、最初に断言されました。しかし、それでも、不可能でも、なおもイエス様にお願いするする姿勢が祝福されているのであります。このように外国人であるのに、イエス様への信仰が祝福されることを、マタイによる福音書は証しているのであります。
 今朝は家族を示されながら、単に家族ばかりではなく、他の存在を受け止め、共に生きることが示されているのです。それが新しい生き方であると教えられています。

 他の存在を大切にしなさいと旧約聖書レビ記において示されています。レビ記は聖書の人々が、生きるに必要な戒め、掟が記されています。いわば六法全書のようなものです。基本はシナイ山モーセに与えられた「十戒」であります。この十戒を中心にして、いろいろな戒めが与えられているのであります。神様に選ばれた民として、聖なる民として生きなければなりません。神様の導きは他の存在と共に生きるということです。
 今朝の聖書は馴染みのないレビ記でありますが、私達にとって大切な教えであります。レビ記19章は「聖なる者となれ」との表題で示されています。1節以下、「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。父と母を敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい」と示されています。ここにも十戒をもって示された戒めが含まれています。聖なる者の生き方は、このようにあるべきですと示しているのは、今朝の聖書9節以下であります。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽してはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である」と示しています。
 穀物は刈りつくしてはならない、むしろ隅のほうは残しておきなさいと教えているのです。ここにも示されていますように、残された穀物は貧しい人達、あるいは外国から来ている寄留の人たちの権利であるとしているのです。何よりも聖書の人々がエジプトで400年間、寄留の民でした。しかも奴隷として生きなければならなかったのであります。困難な生活は身を持って経験しているのです。そうであれば、貧しい人々、寄留の人々を顧みるのは当然であります。ミレーという画家が「落ち穂拾い」を絵に描いています。落ち穂を拾っている婦人達はこの畑の人たちではありません。貧しい人達であり、寄留の人たちであります。この人たちは落ち穂を拾い、落ちた実を拾いつつ日々の生活が導かれているのであります。働くときには、いつも他の存在をも心にとめつつ、恵みを分かち合いなさいと教えているのであります。
 前任の教会時代、幼稚園にスリランカ人の子どもが入園しました。しかし、生活が困難であり、入園料を割り引いたり、保育料も半額にするとかで支援してあげました。その家族は滞在のビザがないままに日本に住んでいたのであります。勤めていた会社に入国管理局の立ち入り検査が入り、ビザのない人を働かせてはならないということで、辞めさせられてしまいました。会社の社宅に入っていましたので出なければなりません。仕事はなくなる、住むところもなくなる、教会の有志が支援会を立ち上げ、今でも支援しています。私も関わり上、家族の保証人となりましたので、この家族は仮放免という身分で何とか日本にいることができています。難民申請を出していたのでありますが、スリランカは形の上では紛争がなくなりましたので、難民申請は却下されてしまいました。何とか日本で生活したいとの希望がありますので、支援する会が皆さんに呼びかけて協力していただいています。皆さんが支援金や生活物資で支えているのであります。
困難な状況に生きる人々は多くおります。聖書の教えがあるから、支援しますということではなく、手を差し伸べざるを得ないのであります。そのような中でレビ記を読みます時、神様の御心は人間が共に生きることであることであり、そのために人道上の教えを与えているのであります。聖書で教えられなくても、社会の人々は貧しい人々に心を向けているでしょう。しかし、聖書の根本的な示しは、レビ記19章18節で示されますように、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」との示しであります。自分の気持ちにおいて貧しい人々に心を向けることではなく、神様の示しは、自分を超えて他の存在を受けとめなさいということであります。ここに社会の人々と異なる姿勢が導かれるのであります。

 「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と繰り返し示しておられるのは主イエス・キリストであります。ヨハネによる福音書はイエス様の十字架の時が刻一刻と近づいている状況です。13章1節以下では、イエス様がお弟子さん達の足を洗うことが記されています。足を洗うということ、相手の足を自分の目の高さまで持ち上げるならば、相手はひっくりかえってしまいます。足を洗うには相手の足もとに蹲って洗うのです。この行為を通してイエス様は「仕えて生きる」ことを示されたのであります。その後、21節以下ではイエス様を裏切るユダについて記されております。そのユダがいよいよ出て行き、行動を開始した時にお弟子さん達にお話しされたのが今朝の聖書であります。その時、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われました。「人の子」とはイエス様ご自身であります。「栄光を受けた」とは、神様の御心であります十字架による救いの時が始まったということであります。その十字架への道が始まった時、今までも教えられていましたが、「愛する」ことを示されました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお示しになっておられるのであります。イエス様は「互いに愛し合う」ことは掟であると示されたのであります。レビ記において、貧しい者、寄留者のために穀物を刈り残すことは掟でありました。そのようにしたほうが良いですよ、と示しているのではなく、掟、戒め、守らなければならない法律なのであります。
 「自分を愛する」ことは人間として当然の姿であります。「自分が嫌い」という人がいます。自分の性格、自分でも嫌であると自覚しているのです。自分の姿が嫌いという人もいます。親はどうしてこんな自分に拵えてしまったのかというわけです。しかし、自分が嫌いと言いながらも、根本的には自分が大切であります。自分が不利になったり、人から悪く言われたりすると、やはり腹立たしく、相手を憎むようにもなります。生きている者は皆、自分が大切であり、自分を愛しているのであります。そういう自分でありますが、同じように、自分を愛するように隣人を愛しなさいと神様は示され、主イエス・キリストも示されているのであります。掟であると示されています。
「自分を愛するように隣人を愛する」との教えは、大変良い教えとして示されるのであります。しかし、もし私達がその掟のように生きるならば、これはなんと難しい教えではないでしょうか。嫌いな人がいます。どうもあの人は私には向かない。話をするのも億劫であるとも思っています。あの人を愛すなんて、考えられないわけです。しかし、私達はイエス様の掟を守らなければならないのであります。「愛する」というから、困難を感じるのです。あの人を受けとめて生きるということです。何とか理解しようとする姿勢です。それが愛でもあるのです。イエス様の掟を守って生きる者へと導かれています。主イエス・キリストの十字架の救いが、愛する者へと導いてくださるのです。私達の根本的な姿は自分中心、他者排除であります。自分中心は悪い姿ではありません。しかし、その姿勢が大きくなっていくと他者排除になり、他者を傷つけることになっていくのであります。人間は、どうしてもその根本的な生き方から脱却できません。克服できないのであります。神様は主イエス・キリストの十字架の死と共に、私達の根本的な自己中心を滅ぼされたのです。それにより私達はイエス様の掟を守ることができるように導かれているのであります。

 主イエス・キリストは私達をとりなしてくださるお方でありますが、そのイエス様と重なるのは、私達のお母さんであります。お母さんは私達を見つめ、とりなしつつ育ててくれました。昔の讃美歌、これは昭和6年に発行された讃美歌ですが、その437番は昔の人々に親しまれた讃美歌です。私達は、今は讃美歌21を使って神様に讃美をささげています。讃美歌21は1997に発行されました。その前は1954年に発行された讃美歌です。その前が1931年に発行された昭和6年版の讃美歌であります。私が中学生くらいまでこの讃美歌で歌っていました。それで昭和6年版の讃美歌437番は「母ぎみに勝る」という讃美です。この歌は54年版の312「いつくしみ深き」の曲であります。一節「母ぎみに勝る、ともや世にある。生命の春にも、老いの秋にも、優しく労り、いとしみたもう。母ぎみにまさる、ともや世にある。」、二節「母ぎみに勝る、ともや世にある。ゑまいも涙も、共にわかちて、夕べの祈りに、こころをあはす。母ぎみに勝る、ともや世にある」と歌います。曲が良いので、親しみ深く、私くらいの方は皆さんの愛唱讃美歌であったと思います。この昭和6年版讃美歌を開いて、改めて437番の歌詞を味わいました。しかし、意味がよくわからないという感想です。「母ぎみに勝る、ともや世にある」と歌うのですが、「お母さんに勝る友が世にいる」と歌っているのであれば、それはイエス様を讃美していることになります。偉大なお母さんですが、そのお母さんに勝る存在、主イエス・キリストであると歌っているのです。それに対して、「お母さんに勝る友が、この世の中にいるか」とも解釈されます。それほどお母さんの存在が偉大であると歌っているのであります。そのように理解すると、これは讃美歌というより母親讃歌になってしまいます。そのように受けとめられるので、54年版312番は全体的にイエス様の導き、救いを歌うようになりました。「母ぎみに勝る、ともや世にある」と歌う時、ここにはイエス様のお名前が出てきませんが、私達が心から尊敬する母、その母に勝る友がこの私におられるのであります。
その母に勝る友、イエス様が私達に「新しい生き方」を教えてくださいました。隣人を自分のように愛するということです。その教えを実践し、私達が人々共に生きるために、イエス様は十字架にお架りになったのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。愛することを教えられ感謝いたします。神様はイエス様を私達にお与えになりました。この神様の愛に応えることができますよう。主の名によって。アーメン。