説教「永遠の命への道」

2022年9月11日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第15主日

                      

説教・「永遠の命への道」、鈴木伸治牧師

聖書・ホセア書11章1-9節

   コリントの信徒への手紙<一>13章1-13節

   マルコによる福音書12章28-34節

賛美・(説教前)讃美歌21・360「人の目には」

   (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」

 暑い8月が終わり、9月は涼しい日々を歩むことで、喜びを持っていました。ひところは猛烈な暑さで熱中症にならないよう、いろいろと注意しながら歩んだのでした。9月になりますと、教会学校では「振起日」としての礼拝を守っていました。8月は夏休みと言うことで、何となく気が緩んでいたこともあります。改めまして、イエス様のお心をいただいて、元気に歩みましょう、とのことで礼拝をささげていました。教会にしても秋を迎え、改めて信仰の歩みを強めながら歩みたいのであります。そのため修養会を開いては、信仰を強める訓練、学習をするのでした。大塚平安教会時代、修養会と言う名称は古風であり、今の時代にふさわしくないのではないか、との意見があり、「学びと交わりの集い」と称して集会を開いていました。確かに、学ぶこと、交わりを深めることなのですが、やはり信仰の修養なのですから、「修養会」でよろしいのです。

 今朝の聖書の主題は、「最高の道」と言うことで聖書から示されることになっています。人生、それぞれの道がありますが、聖書が示す道は、人間は共に歩まなければなりません。聖書の「最高の道」を示されて「永遠の命への道」を与えられたいのです。日々の歩みで、日曜日はお休みということで、予定をこなしたいのですが、まず教会の礼拝に導かれることです。この日に、永遠の命への道を与えられなければ、いつ、そのような日があるのでしょうか。週日は何かとするべきことがあるのです。仕事、勉強、家庭の歩みがあるのです。まず、日曜日に「永遠の命への道」をいただきつつ、そして一週間を力強く歩みたいのです。私達の歩みとは、イエス様が導いてくださっている「隣人を自分のように愛する」歩みなのです。愛のある人生、それが永遠の命へと導かれることなのです。

 旧約聖書は、今朝はホセア書の示しです。11章1節からが今朝の聖書ですが、「神の愛」として記されているのです。聖書の示しは、特に旧約聖書の示しは、神様に選ばれた聖書の人々は神様の御心に忠実に従わなければならないのです。しかし、人々は神様の恵みの導きを忘れて、偶像を拝むような姿になります。その人々の堕落を神様は悲しみ、預言者を通して御心に戻そうとするのです。その繰り返しが旧約聖書の記録であるということです。ですからイザヤ書エレミヤ書エゼキエル書等に記されていることは、神様から愛されている人々が、その愛を裏切り、偶像を拝むことで神様の審判があり、預言者の説得が続くのです。

 今朝のホセア書も形式は同じです。神様の御心から離れている人々を、神様の愛へと戻すことがホセアの働きであります。しかし、ホセア書は他の預言者たちとは異なった教えで人々の心を取り戻そうとしているのです。すなわちホセアは自分の体験において、人々に神様の愛を教えているのです。ホセアは自分の人生の中に神様の御心を示されて生きてきているのです。人生の戦い、自分自身との戦いがあり、その中に与えられている神様の御心により、辛い、苦しいながらも祝福の歩みへと導かれてきている自分の体験において、神様の愛を示され、人々に神様の御心として示したのであります。ホセアの体験とは、結婚の体験でした。ホセアはゴメルと言う女性と結婚しました。このゴメルは神殿娼婦でありました。古今東西、神殿、神社仏閣には娼婦と言われる人々がいました。お参りに来た人は娼婦と遊んで帰るということが、信仰的に許されていたようです。ホセアはその娼婦であるゴメルを妻に迎えたのです。しかしながら、ゴメルはその後、ホセアと結婚していながら再び娼婦になるのです。従って、ホセアはこのゴメルとは離婚することになります。そういう自分を示されたとき、神様と人々との関係を示されるのです。神様に選ばれ、神様の御心により歩む聖書の人々との関係は、ある場合には花婿と花嫁の関係、あるいは夫婦の関係として、密接な関係でありました。その関係を裏切って、人々が別の偶像を拝むようになったとき、夫婦の関係が壊れたのであります。ホセアは神様と人々との関係をその様に示されたとき、それは自分とゴメルとの関係として示されるのでした。従って、ホセアは自分のところから去って行ったゴメルを赦し、再び夫婦の関係を持つのです。そして、これは神様と人々との関係であることを示すのでした。神様は愛をもって、忍耐をもって、人々が御心に戻るのを待っておられるのです。

 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに香をたいた」と示しています。偶像崇拝に走った人々を述べています。そういう人々ですが、神様は、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と示すのです。裏切りの人々ですが、「見捨てない」、「引き渡さない」と示しています。ホセアは、これが「神様の愛」と示しているのです。自分の体験において、示されている神様の御心なのです。その体験的神様の愛を示すとき、人々は実際的な神様の導きとして示されるのでした。旧約聖書のホセアが自分の体験において、人々に生きる指針を与えているのです。

 今朝の新約聖書は「最も重要な掟」として示されています。イエス様のお話しを聞いていた当時の社会の指導者、律法学者と言われる人ですが、イエス様の教えを称賛しているのです。そして、イエス様が人々の疑問に対して立派にお答えになっているので、改めて「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのでした。この律法学者は、どうしてイエス様が立派なお答えをしていると思ったのでしょうか。それは前の部分を見なければなりません。イエス様は人々から、二つの難問を突き付けられたのです。一つは税金問題でした。新約聖書の時代は、聖書の国はユダヤでした。ユダヤは当時のローマに支配されていたのです。従って、人々はローマに対して税金を納めなければなりませんでした。もちろん、人々は面白くないと思っていたのです。それで時の指導者たちがイエス様を陥れようと、意地悪な質問をします。「ローマの皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているのでしょうか。適っていないのでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきではないでしょうか」との質問です。そのとき、イエス様は「銀貨を見せなさい」と言い、銀貨を示しながら「これは誰の肖像と名前か」と人々に聞くのです。人々が「皇帝のものです」と答えます。するとイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのでした。この世に生きる者として、国民の責任があるわけです。それが税金です。ローマに支配されているのですから、義務としての税金は納めなければならないのです。しかし、同じ皇帝の肖像が刻まれた銀貨でも、お恵みにもなるのです。その銀貨によって生きる支えがあるのです。それが神様のお恵みというものです。人々はイエス様のお答えに驚いたと言われます。

 もう一つの問題がありました。復活についての問題です。これについてもイエス様は的確にお応えになっています。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われる通りであります。こうしてイエス様は人々の意地悪な質問にお答えになったのです。

 これらのイエス様と人々との対話を聞いていたときの社会の指導者、律法学者が立派な答えだと称したのです。そして、さらに大切な生きる指針は何かとイエス様に尋ねたのでした。すなわち「人生の中心は何か」と聞いているのです。そのときイエス様が示されたのは、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということです。さらに、「隣人を自分のように愛しなさい」とお示しになっています。これは明らかに旧約聖書で示されている十戒を二つにまとめておられるのです。「神様を愛し、隣人を自分のように愛する」こと、旧約聖書以来十戒をもって教えられてきましたが、イエス様は二つにまとめて示されたのでした。これがイエス様の教えです。これがキリスト教の中心的な教えなのです。

 その人生の中心をいただくのが礼拝なのです。礼拝にて神様の御心をいただき、新しい一週間を歩むことなのです。牧師はいつも皆さんの祝福をお祈りしています。祝福を与えられるということは、神様の御心によって歩むことなのです。「祝福」というと、何か幸せな人生を与えられることのようですが、祝福をいただくことにより、神様の御心をいただいている者へと導かれるということなのです。礼拝では、最後に牧師が「祝祷」を与えてくれますが、祝祷は祝福のお祈りなのです。説教によって御心が示され、そして最後に祝祷が与えられるのは、祝福の人生を力強く歩むようにとのお祈りなのです。

 私は礼拝の終わりに祝祷をしますが、祝福のお祈りをしても、後奏が終わるまで手を上げています。祝福が終わると、すぐに手を下ろされる牧師もおられますが、祝福のお祈りは後奏が終わるまで、お祈りしているのでした。この取り組みは、私も教えられたことなのです。教団書記を担っている頃、台湾の教会との交流会があり、その時、台湾の牧師の祝祷は後奏が終わるまで手を上げ続けたことで示されたのでした。「人生の中心をいただきつつ」歩みなさいとお祈りしているのです。

<祈祷>

聖なる神様。御心を与えてくださり感謝いたします。祝福の人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。

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