説教「真実のささげもの」

2022年9月18日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第16主日

                      

説教・「真実のささげもの」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記上21章1-7節

   ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節

   マルコによる福音書12章41-44節

賛美・(説教前)讃美歌21・401「しもべらよ、み声きけ」

   (説教後)讃美歌21・504「主よ、み手もて」

 9月の歩みをしていますが、今年は9月10日が「中秋の名月」と言われる日でした。今年はその日が満月でもあり、まさに名月であったと言われます。実は昨年の中秋の名月も満月であり、2年続いて満月であったと言われます。「中秋の名月」と言われますが、今まで関心もなく、深く考えもしなかったのですが、今年は特に示されることでした。中秋の名月とは、旧暦の8月15日にでる月のことを指すということです。旧暦であり、今の暦にすると今年は9月10日になるそうです。昔のことですが、上流社会では「お月見」と称してこの日を楽しんだということです。この名月が満月であろうと、三日月であろうと、「お月見」として喜ぶのです。そのうち、この日にはお供えを用意するようになり、いわば月に向かって願いごとをするようになるのです。特に満月を見ていると、宗教的な思いにもなるのでしょう。このように自然のうつろいの中でも、自然に願い事が備わってくること、人間の素朴な姿でもありましょう。七夕神話もありますが、笹の葉に願い事を書くようにもなるのです。

 私の父は特別な宗教を持たなかったと思いますが、しかし、日本の皆さんがそうであるように、いろいろな宗教を身に受け止めながら歩んでいたのです。朝起きれば、東の空に向かってお参りをしていました。その後は神棚で拝み、仏壇で拝んでいたのです。いろいろな宗教を拝むというより、生活上、普通の生き方でもあるのです。人間は自然な姿で偉大な存在に心を向けているということです。私達は聖書に示される神様を信じています。信仰を持つものとして、信じる存在にどのように姿勢を持つか、それが本日の聖書の示しであります。信じる存在に、どのようにしてささげて生きるのか、示されたいのであります。

 私に与えられたお恵みを感謝し、与えられている人生を歩むこと、祈っていくこと、今朝は聖書の示しをいただいています。旧約聖書は列王記上21章であります。「ナボトのぶどう畑」の物語が記されています。ナボトはイズレエルの土地にぶどう畑を持っていました。ぶどう畑はサマリアのアハブ王の宮殿のそばにありました。アハブ王はナボトに「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と頼むのであります。それに対してナボトはアハブ王に、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と答えたのであります。アハブ王は、このナボトの言葉にすごすごと引き下がりました。王様なのだから、自分の権威でナボトの畑を自由にすることができると思われます。実際アハブ王の妻イゼベルは、アハブ王の弱気な姿勢を嘲るかの如く、王の名においてナボトをならず者によって殺させ、ナボトの畑をアハブ王のものにしてしまいます。それは聖書に記される通りであります。アハブ王がナボトの言い分を聞いて、すごすごと引き下がったのはアハブ王もナボトの言い分をよく理解していたからであります。すなわちナボトが述べた「嗣業の土地」ということであります。

「嗣業」とはもともと賜物と言う意味でありますが、神様によって与えられる土地を意味するようになりました。アブラハムに神様の召しが与えられた時、嗣業としての土地を与えるということであります。そして、モーセの時代に奴隷の国エジプトから脱出し、カナンの土地に入っていきますが、そこで得た土地がイスラエルの12部族の嗣業の土地になりました。そして、部族から個人の嗣業になっていったのであります。嗣業は神様の恵みによって与えられた土地であり、その土地を通して祝福の歩みが導かれることなのであります。嗣業の土地は大切なものであり、人に売ったり、関係ない人が相続することは許されないことでありました。このような嗣業の意味は、聖書の人々自身が神様の嗣業であると信じられるようになったのであります。従って、神様の嗣業でありますから、与えられた十戒を守り、正しく生きることが嗣業としての人々なのであります。

アハブ王とイゼベルの行為は許されざることでありました。神様は神の人エリアを通して、アハブに対する審判を告げます。アハブ王は自分のしたことは悪いことであることを知っていましたから、エリアの言葉を聞くと、すぐさま悔い改めを行います。アハブ王はエリアの審判の言葉を聞くと、「衣を裂き、粗布を身にまとって断食し、打ちひしがれて歩いた」と21章27節以下に記されています。神様はアハブの悔い改めを受けとめ、アハブ王の命を長らえさせたのでありました。嗣業に対するアハブ王の姿勢も示されているのであります。神様の恵み、賜物は大切であり、生涯の恵みとし、嗣業を通して神様を仰ぎ見ることなのであります。

 嗣業には賜物という意味がありますが、新約聖書ではタラントンのたとえ話があります。主イエス・キリストの示しであります。ある人が旅に出かけるにあたり、僕たちに持っている財産を預けます。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを預けます。預けられた人は商売をし、倍の利益を得るのであります。主人が帰ってきて預けた財産の清算をした時、倍にした人たちは褒められました。しかし、何もしないで地面に隠しておいた人は叱られたというのです。タラントンは神様が人々に与えている賜物であり、その賜物を通して神様の祝福に与ることであります。タラントンは嗣業でもあるのです。十分に与えられた嗣業を用いるということなのであります。

 そこで新約聖書の示しは「やもめの献金」であります。イエス様は神殿で、人々がささげものをするのをご覧になっています。大勢の金持ちが沢山のささげものをしていました。そこに一人の女性がやってきました。この人はレプトン銅貨二枚をささげたと言われます。レプトン銅貨は最も低いお金であります。1デナリオンの128分の1と言われます。1デナリオンは一日の日当と考えられています。イエス様は弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と言われたのであります。イエス様はささげる人々がいくらささげたのか知っているのでしょうか。誰がいくらささげたか、分からないと思います。マルコによる福音書の著者が記したいのは、ささげものは額や量ではなく、その人自身であると示しているのであります。今朝の聖書の前、12章38節から40節に「律法学者を非難する」ことが記されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩きまわることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と厳しく批判しています。律法学者は当時の社会はユダヤ教の宗教社会ですから、人々を戒律、律法によって導く存在であります。今、神殿の賽銭箱にささげる人々は、大勢の金持ちであったと示しています。どのくらいのお金を入れているのかは分かりません。そして、女性がレプトン銅貨二枚ささげたということであっても、この女性の生活状態も分からないと思います。イエス様だから、みんな知っているのだ、と考える必要もありません。マルコによる福音書が示しているのは、人間の評価ではなく、神様にどのように向くかと言うことなのであります。金持ちが有り余るお金の中から、多くささげたと思っている姿勢であります。神様に向かっているのではなく、人に対する評価を求めているのであります。

 神様にどう向かうか。神様の嗣業である私が、私という嗣業をどう生きているかということなのであります。イエス様も嗣業の意味を含めて示しておられるのであります。嗣業は私自身であるということ、神様の嗣業である私は、私自身を神様にささげることであります。持てる物すべてをささげる姿勢が嗣業としての生き方なのであります。一人の女性が「だれよりもたくさん入れた」と言われたのは、この女性が自分自身をささげていることをお弟子さん達に示しているのであります。

私達には賜物が与えられているのですが、賜物を考えたとき、自分には賜物などはないと思ってしまうことがあります。いつも人の姿を見ているので、いろいろな人たちの賜物を示されています。それに対して自分は、と思うのです。どう見ても自分には賜物はないと思ってしまいます。そうでしょうか。自分がそのまま生きればよいのです。いつも人と比較しての生き方ではなく、自分の生活をしていれば良いのです。そこには必ず賜物が働いているのです。自分の一言が友達に喜ばれこともあるでしょう。自分の笑顔が、ある人の励みになっていることもあるのです。何か、賜物と言うと、特別な才能のように受け止められますが、自然の姿で良いのです。例えば、畑に立てられている案山子を考えてみると、何も感じない人もいれば、その案山子によって慰められている人もいるのです。案山子というのではたとえが悪いのですが、私という自然の姿で過ごすこと、しかし、その自然な姿は神様の御心をいただく姿勢でなければなりません。その姿が賜物に生きる、生涯のささげものなのです。特別な人生を考える必要はありません。今の現実を感謝しつつ歩むことなのです。

<祈祷>

聖なる神様。神様をあおぎみる歩みを導いて下さり感謝いたします。恵みを数えつつ歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

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