説教「ほめられる人生」

2016年11月20日、三崎教会
「降誕前第5主日

説教・「ほめられる人生」、鈴木伸治牧師
聖書・ミカ書2章12-13節
    マタイによる福音書25章31-40節
賛美・(説教前)讃美歌21・386「人は畑をよく耕し」
    (説教後)讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」


 今朝はキリスト教の暦では終末主日であります。収穫感謝日あるいは謝恩日でもありますが、キリスト教の暦は今週で終わり、次週からは主イエス・キリストを待望する新しい暦となります。終末主日につきましては終わりを示されるということであります。終わりというのは、私たちの人生の終わり、あるいはこの世の終わりの意味合いで示されるのでありますが、私たち自身の終末がいつ来ても、神様に祝福される、ほめられる信仰の人生でありたいと願っています。
 今朝は収穫感謝礼拝でもあります。今年は11月の第三主日を収穫感謝日としていますが、もともとアメリカの行事でもありました。日本では11月23日は勤労感謝の日とされています。どちらかというと、今までは仕事をするお父さんに感謝をする傾向が強かったように思います。しかし、今はどのような人も働く時代でありますから、むしろ働く人に感謝をするということより、働くことの恵みを知るときでもあるでしょう。しかし、働くのは、生きている人は皆働いていることになるのであります。私の両親が亡くなったとき、二人とも浄土真宗の葬儀でありました。お寺の和尚さんが、死んだ両親を前にして、そこにいる家族や親族にお話をされました。「今こちらのお父さんは、死ぬという大きなお仕事を終えられたのであります。生きて、それぞれのお仕事をしつつ今日まで来られましたが、今、大きなお仕事を終えられたのであります」というようなことを話されました。お仕事は死ぬことばかりではなく、生きている存在そのものが働く姿であるでしょう。キリスト教的に言うのであれば、生きている証がそれぞれに導かれているということです。仕事をすることだけが勤労というのではなく、どのような情況でありましょうとも、例えば寝たきりの人であったとしても、その状況において証をされているのです。その姿において神様から祝福をいただくのでありますから、広い意味で勤労者ともいうことができるのです。
 そのような勤労感謝と共に収穫の感謝を心からささげたいのであります。収穫は自分の汗の結晶でありましょうが、しかし、これは神様のお恵みでもあるのです。少し歴史的に始まりを見ておきましょう。西洋史の中世の頃、宗教改革によりプロテスタント教会ができたことについては、既に示されています。当時のヨーロッパの国々はプロテスタントカトリックかと選択を迫られました。そういう中でイギリスはカトリックプロテスタントの両方を取り入れるのであります。それが英国国教会聖公会)であります。聖公会の下にあっても新しい信仰を求める人々がいました。ピューリタン清教徒といわれる人々です。彼らは英国国教会に圧迫されるようになり、1607年頃に信仰の自由を求めてオランダのアムステダルムやライデンに逃れました。しかし、ここでも圧迫されるようになりましたので、1620年9月6日、メイフラワー号という船に乗ってアメリカにわたったのでありました。男子78名、婦人24名の人々であったと言われます。二ヶ月かかって大西洋を渡り、プリマスという場所、新しい土地に降り立ちますが、まさに原始林でありました。森の木を切り倒し、丸太小屋を造り教会を建てました。堅い土地を開墾して農耕を始めて行きました。飢えと寒さのために半数が死んだといわれます。しかし、現地人のインディアンに助けられながら、種をまき、畑を広げていったのであります。そして、ついに収穫を得たのであります。アメリカについてから一年後でありました。収穫を手にしたとき、人々は、これは自分達の汗の結晶とは思いませんでした。それぞれの収穫を持って教会に集まりました。そして、心から感謝の礼拝をささげたのであります。1864年リンカーン大統領は、11月の第四木曜日を国の祝祭日としたのでありました。最初に収穫感謝礼拝をささげてから200年も経てからであります。
 使徒言行録14章16節〜17節、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と示されています。働いたから恵みを知るのではなく、私の存在そのものに神様の恵みが与えられているのです。

 私の存在そのものに神様の恵みが与えられていることを示し、人々に希望を与えたのは、今朝の旧約聖書においてはミカという預言者でありました。預言者は神様のお心を人々に示す人たちです。イザヤとかエレミヤ、エゼキエルといわれる預言者の他に、旧約聖書には十二小預言書があります。ミカ書はその十二小預言書の一つであります。イザヤ書のように66章まであるというのではなく、ミカ書は7章までです。オバデヤ書は1章しかありません。ミカ書においてミカは、彼は貧しい農民であったと思われていますが、常に身分の低い者の側に立ち、社会の不正義を攻め、利をむさぼる指導者を攻撃したのであります。そして、弱い存在に希望と喜びを与えたのでありました。3章12節の言葉、「それゆえ、お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」と記されていますが、悪なる指導者達のゆえに都は荒廃し、人々が苦しむことを示しているのであります。
 今朝のミカ書は復興の預言を示しています。「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いてひとつにする。彼らは人々と共にざわめく」と示しています。人々を苦しめる指導者により、散り散りにされているとき、羊飼いが羊を養うように、羊を導くように、神様が人々を呼び寄せてくださるというのであります。そして、「打ち破る者が、彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」と示しています。つまり、彼らの王様がやってきて、苦しみ、悲しみ、涙を流す人々に先立って進むことを示しているのです。あなたがたはいつまでも苦しんではいない、悲しんではいない、涙を流し続けることはないと示しているのです。先立つ王様はあなたがた一人ひとりを顧み、恵みを持って導くと示します。このことは救い主の出現を指し示しているのであります。ミカにおいては明確な救い主の出現ではありませんが、多くの人が慰められ、希望を与えてくれる救い主が現れることを教えているのであります。

 恵みを与えてくださる存在、それは先立つ主であり、救い主であることをミカ書は示しているのであります。本日は終末主日でありますが、次週は待降節になります。救い主イエス・キリストの出現を待望しつつ歩むようになります。その救い主は一人ひとりの存在を心にかけてくださるのであります。そのことを示しているのが、マタイによる福音書25章31節以下のイエス様のたとえ話であります。
 このマタイによる福音書25章は終末の教えとして、1節から13節までは「十人のおとめ」についてのたとえ話であります。「十人のおとめ」は花婿さんを待っている乙女達でした。花婿さんが花嫁さんの家に来てお祝いの会があるのです。ところが花婿さんはなかなか来ないのです。もう夜になってしまいました。そこで乙女達はともし火を灯して待っています。なかなか来ないのでともし火が消えかかっています。五人の乙女は予備の油をもっていましたが、五人は予備の油を持ちません。そこで店に買いに行くのですが、その間に花婿さんがやってきて、門はぴたりと閉められ、油を買いに行った五人は入れなかったのでした。終末に備えなさいと教えられたのであります。
 その次は「タラントン」のたとえ話であります。ある主人が旅に行くにあたり、財産を僕たちに預けるのであります。5タラントンを預けられた人は、それで商売をしてさらに5タラントンを設けます。当前、主人からほめられます。しかし、1タラントンを預けられた人は、何もしないで主人の財産を隠しておいたのでした。主人が帰ってきて、そのことを知ると大変怒ったというのです。タラントンは神様が人に与える賜物、能力、才能等の意味があります。つまり、人は与えられた賜物を生かして一生懸命に生きるとき、天国の祝福があると教えられているのです。
 そしてマタイによる福音書25章における三つ目のたとえ話が今朝の聖書であります。やはり終末に関する教えでありますが、終末に関して人々がどのように生きたかが問われるのでありますが、王様の心、いわば主のお心がどこにあるかを示されているのであります。ミカ書においては先立つ者は、人々を牧場に導いてくれることを示して、人々に希望を与えています。マタイの場合は、先立つものが、その心を示して、導かれる者がその心に生きることを示しているのであります。
 31節以下のたとえ話は、人々が王様の前に集められ、右側の人たちは祝福され、左側の人たちは呪われるというお話しであります。王様は右側にいる人たちに、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」というのでした。すると、右側の人たちは王様にそのようなことをした覚えがないので、「いつ、王様にしましたか」と聞きます。そこで、王様は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われるのでした。つまり、王様には直接何もしていませんが、この社会に生きている者として、隣人を見つめつつ、また共に生きるものが神の国へと導かれることを示されたのであります。生きている現実の中で、隣人を受け止めて生きること、それが王様の心であり、救い主の導きなのであります。

 このイエス様のたとえ話を示されるとき、「靴屋マルティン」の物語が思われてならないのです。トルストイの作品ですが、今まで童話の絵本でしか見ていませんでした。説教の例話としてお話しをするつもりで、書斎の本棚を探しましたが見当たりませんでした。それでインターネットで「靴屋マルティン」を検索しましたら、原作そのものが出てきました。原作を読んでみて、今までの理解とは随分異なることを示されたのであります。そして、トルストイ自身がこのマタイによる福音書25章31節以下のイエス様のたとえ話から、「靴屋マルティン」の物語を作ったことを知りました。
 皆さんもよくご存知の物語でありますが、改めて物語を示されたいのです。
 ある町にマルティン・アヴデーィチという独り者の靴屋がいました。地下の一室が店になっており、部屋には明り取りの窓が一つありました。その窓から見える外は、ほとんど地面のすれすれの場所でした。要するに人が歩く足元しか見られません。マルティンは結婚して何人かの子どもが与えられましたが、子ども達も妻も亡くなってしまうのです。絵本によっては、独りきりになったマルティンがお酒ばかり飲んで、仕事をしなかったように記しますが、原作はそうではありません。寂しさが募ってきました。そういう中で、人生の意味とか救いについて考えるようになったのです。そんな時、昔ながらの友人が訪ねてきました。その友人と話しているうちに、聖書を読むことが示されるのです。早速、聖書を買い求め読み始めました。最初は休みの日に読もうと思っていたのですが、読み出すと止まらなくなり、毎日読むようになりました。「求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカによる福音書6章30-31節)と教えられていました。マルティンさんはこの聖書の言葉をしみじみと受け止めたのであります。
ある夜、寝ているマルティンさんを呼ぶ声がしました。「マルティン、あしたは通りに気をつけていなさい。私は必ず訪れます」とのイエス様の声を聞いたのでした。翌日、マルティンの地下室を訪れたのは三人の人でした。一人は道路の雪かきをしている老人でした。かなり大変のように見えたので、マルティンさんが声をかけてお茶をご馳走したのでした。二人目は貧しい女性でした。赤ちゃんを抱っこしながら寒さに震えているのです。マルティンさんはすぐに招きいれ、暖かい食べ物や着るものをあげたのでした。三人目は家には入りませんでしたが、子どもがりんごを盗んだというので、激しく叱っているおばあさんでした。マルティンさんの口利きで子どもは赦され、お婆さんも子どもを受け入れたのでした。そんなことがあった一日でしたが、マルティンさんは何時ものように聖書を読もうとしました。すると後でなにやら気配がするのです。振り返ると、雪かきのおじいさんが現れ、続いて貧しい親子が現れ、りんごを盗んだ少年とおばあさんが現れ、そして消えていったのでした。それを見たマルティンさんは心が喜びで満たされました。十字を切り、福音書をよみ始めました。その聖書はマタイによる福音書25章31節以下でした。王様は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という教えです。マルティンさんは気がつきました。主イエス様が確かにお出でになったことを。と記してこの「靴屋マルティン」の物語は終わっているのです。その原点は十字架によるイエス様の救いであるということです。
この社会の中で、一人の存在を受け止め、心を動かすこと、それが王様の喜びであり、神様のお喜びなのです。そして、神様がほめてくださることなのです。私たちに与えられている周囲の人々は、神様が与えてくださった人々と示されて歩みたいのです。
<祈祷>
聖なる神様。この社会の中でお導きくださり感謝します。いつも隣人を見つめつつ、歩む者へとお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。