説教「祝福される人生」

2016年11月13日、横浜本牧教会
「降誕前第6主日

説教・「祝福される人生」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記18章15-22節
    マタイによる福音書5章38-48節
賛美・(説教前)讃美歌21・105「ガリラヤの村を」
     (説教後)讃美歌21・394「信仰うけつぎ」


 前週は召天者記念礼拝をささげ、また午後からは墓前礼拝をささげました。生前、信仰に生きた人々の証を示されたのであります。信仰に生きたことがどんなにか祝福であったかを示されたのであります。今朝は幼児祝福礼拝であります。教会に集う子ども達がまさに信仰の人生へと導かれ、生涯を通して祝福の人生を歩むことを祈るのであります。
教会は幼児洗礼式と幼児祝福式を行います。幼児洗礼式は幼児の保護者が信者であり、幼児が成長して自分で信仰の告白ができるまで、祈りつつ信仰の成長を導く保護者の決心として子どもに洗礼を授けます。従って、子どもの意思ではなく、保護者の意思であります。子どもは教会に連なりながら成長し、主イエス・キリストの十字架の救いを自分の救いとして受け止めるとき、信仰告白式をいたします。または堅信礼と言います。大体、中学生や高校生になって堅信礼を受ける場合が多いです。しかし、幼児洗礼を受けているものの、成人しても、または生涯信仰告白をしない人もいます。それに対して幼児祝福式があります。この幼児祝福式は、いわゆる七五三的な祝福ではありません。幼児洗礼を授けないものの、やはり神様のお心にあって成長してほしいという保護者の願いであります。保護者が信者の場合に限らず、信者でなくても幼児祝福式を執行しています。幼児洗礼は子どもに負担をかけるのではないかとの思いで、幼児祝福式に臨む保護者もおられるのです。祝福を受けていることが、子どもを励まし、いよいよイエス様のお心に導かれて歩むことを祈る次第であります。
幼児洗礼を授けられ、青少年の頃になって堅信礼を受けてキリスト教の信者になります。堅信礼は信仰告白式とも言っています。私どもの三人の子供たちも幼児洗礼を授けましたが、それぞれ中学生の頃、自分の意志で堅信礼を受けました、親として強要したのではなく、自らの信仰において堅信礼を受けたことを喜び感謝しています。こうして堅信礼を喜びますが、西洋において、特にカトリック教会の堅信礼を深く受け止めています。娘がバルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、私たち夫婦は何度か滞在しています。娘がカトリック教会でミサの奏楽をしていますので、一緒にミサに出席していました。ある時、教会に行きましたら、教会の玄関付近が賑わっていました。結婚式かと思いました。花嫁さんのように白いドレスを着ている女の子、スーツを着ている男の子の周りで、人々が喜びあっていたのです。よく見れば、まだ子供です。結婚式ではなく、堅信礼が行われたということでした。カトリック教会では聖体拝受式と言っています。幼児洗礼を授けられた子供が、信仰の告白をする日です。その時は親戚、知人が集まり、みんなでお祝いするのです。ピカソが妹の聖体拝受を受けた絵を描いていますが、厳粛におこなわれ、そして喜びあうこと、大きな出来事なのです。
今朝は幼児祝福式ですが、祝福をいただく子供たちを喜び、今後も背後にあって祈り支えたいと示されるのであります。

 旧約聖書は神様のお心を人々に示す存在として預言者といわれる人々がいました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの預言者が、人々の中で苦闘しながら神様のお言葉を示したのであります。エレミヤは人々に理解されないまま、それでも神様のお言葉を人々に語り伝えたのであります。
今朝の旧約聖書申命記でありますが、モーセに対する神様の示しであります。モーセは神様の導きのもとに、聖書の人々を奴隷から解放した人であります。聖書の人々は、最初の人であるアブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、ヤコブの時代にエジプトに寄留することになりました。大変な冷害、飢饉に見舞われ、既に神様のご計画のもとにエジプトで大臣になっていた11番目の子ども・ヨセフの招きにより、ヤコブの一族はエジプトに寄留することになったのであります。そのエジプトでヤコブが死に、ヨセフも死んでしまいます。そして、エジプトに外国の民族、イスラエル人が居ることの訳を知らない王様の代になります。むしろ、次第に多くなっていく外国人に脅威を感じるようになるのです。それで外国人であるイスラエルの人々を奴隷にしてしまうのでありました。過酷な奴隷の作業で苦しみつつ生きる人々でした。その苦しみの声を神様が受け止め、モーセを立てて人々を奴隷から解放したのであります。申命記は苦しみからの解放を改めて回顧し、救いの意味と今後の生き方を教えているのであります。
モーセは人々を奴隷から解放すること、そして預言者としての使命がありました。モーセはエジプトで奴隷であった人々を連れて荒野の旅を始めるのですが、最初の宿営地はシナイ山の麓でありました。切り立った山々の間にあります。私たちは山のイメージは緑の木々に覆われているということですが、聖書の世界における山というのは、赤茶色の岩が麓から立ち上がっているのです。イスラエル旅行をしたとき、その旅行はまずシナイ山に登ることでしたので、まずエジプトにより、そこからバスでシナイ山の麓を目指すというものでした。ここがシナイ山の麓として示されたとき、ほとんど緑の木がないことが驚きでした。夕食をとり明日の朝は午前2時に起きてシナイ山に登るということでした。暗いうちに起き、ラクダに乗ってシナイザを登るのです。ラクダに乗って登るのですから、まさに楽でした。しかし、最後は歩いて登らなければなりません。頂上に着きますが、まだ暗いのです。すなわち、そこで日の出を見るための登山計画でもあったのです。東の空が明るくなり、赤い太陽が見え始めますと、瞬く間にあたりが明るくなり、すごいところにいることに気がつくのでした。明るい中をラクダに乗って登ってくることは、怖くてできなかったでしょう。切り立った壁を縫うようにして登ってきたのであります。
聖書によれば、このシナイ山モーセが登ったのであります。そして、神様から十戒を授けられます。今後、神様のお心を持って生きる人々の基本的な戒めであります。シナイ山から降りたモーセ十戒を基本にして、人々の生きる指針を与えました。そして、この申命記モーセが人々に語ったことが記されているとされています。しかし、歴史的にはいろいろと付け加えながら書かれたものであります。申命記18章15節以下は、神様がモーセに与えた言葉が示されているのです。ここには、預言者が神様によって立てられるという約束が与えられています。モーセのように神様のお心を人々に示す存在を立てるということです。この預言者は、この後、いつの時代にも存在し、人々の生き方を導くのであります。神様は言われます。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」と神様はモーセに言われています。まさに神様によって立てられた預言者が、神様のお心を人々に示したのであります。人々は預言者の言葉により強められ、しかしまた、預言者の言葉をおろそかにして困難な状況に立たなければならなかったのでありました。

 神様から立てられた主イエス・キリストはどのような存在であったでしょうか。イエス様は、ある日のことお弟子さん達に、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ねます。するとお弟子さん達は、「『洗礼者ヨハネだ』という人も、『エリヤだ』という人もいます。ほかに『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』という人もいます」と答えています。その時、イエス様はお弟子さん達に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねています。シモン・ペトロさんが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのであります。まさに人々にとって、イエス様は預言者でありました。神様のお心を正しく示しているからであります。
 今朝の新約聖書マタイによる福音書5章38節以下は、イエス様の預言者としての示しでありました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と示されています。これは旧約聖書において、モーセが人々に示したことでした。あたかも報復の教えをしているようであります。しかし、これは報復ではなく、こうなることへの戒めなのであります。これは出エジプト記21章22節以下の示しであります。そこにはこのように記されています。「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目を、歯には歯をもって償わなければならない」との教えであります。従って、最初から報復を教えているのではなく、むしろ報復されるから気をつけなさいとの教えなのであります。それがいつの間にか報復の教えになっているのです。イエス様はこの戒めの精神を示し、むしろ積極的に他者の行為を受け止めることを示したのであります。そして報復の精神を止めたのであります。右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさいと示しています。打たれても毅然と立つこと、打たれても屈しない姿勢、裁きは神様にあることを示しているのであります。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えておられます。そんなことはできないと、この教えを遠ざけてしまうのではなく、イエス様の基本的な示しを受け止めなければならないのであります。「敵を愛しなさい」との教えは、アメリカのマーチン・ルーサー・キング牧師に受け継がれました。「汝の敵を愛せよ」とのスローガンを持ちつつ、差別に立ち向かったのでありました。
 主イエス・キリストは時の社会の人々から預言者的に受け止められましたが、しかし、単に預言者として受け止めるのでは、神様のご計画である十字架の救いがもたらされないのであります。主イエス・キリストは当時の世界に一石を投じました。十戒、戒律によって生きていた人々に、表面的にしか戒律を守っていなかった人々に、真に内面的に戒律を守るように教えたのであります。そして、十の戒めを二つにまとめました。「あなたがたは神様を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と教えたのであります。人々にとってはイエス様の教えは本当に新鮮なものでした。主イエス・キリスト預言者として神様のお心を示したのではありません。御自分が神様のご計画である十字架の道を歩むこと、そこにこそ真の救いがあることを証されたのであります。従って、福音書で示される主イエス・キリストの教えは、その基が十字架である時、真にわたしに迫る預言者的言葉になるのであります。イエス様の十字架があるから、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」との言葉が迫ってくるのであります。主イエス・キリストは人々が「十字架につけろ」と叫び、そのために十字架の道を歩まれることになりました。ルカによる福音書には、十字架上でのイエス様の祈りが記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られているのであります。イエス様の教えを実践できるのは、イエス様御自身が十字架で導いておられるということであります。

 主の語られた言葉を示されましょう。このマタイによる福音書は5章から始まって7章まで、集中的に主イエス・キリストの教えが記されています。山上の説教とも言われます。文語訳聖書の頃は「山上の垂訓」と称して親しまれてきました。まず、「幸い」について示されています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」ここには九つの幸いについて示されています。幸い、幸福を考える私たちの思いとは全く異なる方向で教えておられるのです。5章13節からは「地の塩・世の光」について教えておられます。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と教えられるとき、まさに社会の中でこのような存在として生きることを示されます。21節以下には「腹を立ててはならない」と教えています。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は審きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」と示されています。つまり、イエス様は表面的に戒律を守っているといっている人々に、内面的に戒律を守りなさいと教えたのでありました。その次の「姦淫してはならない」も「誓ってはならない」もいずれも内面的に戒律を守ることであります。
 これらの山上の説教は人々にとって新鮮な教えとして受け止められました。しかし、人々は新鮮な教えを実践できたでしょうか。新鮮な教えとして示されましたが、実践はできないのであります。真に実践へと導かれるのは、主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、私たちを贖ってくださったことを信じることにより、実践する者へと導かれるのであります。私は、若い頃は横浜の清水ヶ丘教会に出席していました。ひとりの青年が証しされ、その証が今でも心に残っています。「自分はどうしても、ある人が赦せなかった。ある時、ふと聖書を開いて、目にした言葉はイエス様の『ゆるしてやりなさい』であった。その言葉と共に十字架のイエス様がまざまざと示された」とお話されたのであります。主イエス・キリストの十字架の救いをいただいているからこそ、語られた主の言葉が、いつも生き生きと迫ってくるのであります。
 今朝は子供たちの祝福礼拝であります。子どもたちがイエス様の教えをしっかりと受け止めつつ成長することをお祈りしています。それと共に、私たち自身がイエス様の御心に委ねて歩む事を示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。今朝はイエス様の下に子供たちを集めてくださり感謝いたします。祝福が基となってこれからの成長を導いてください。イエスの御名によりお祈りします。アーメン。