説教「救い主を信じること」

2020年7月19日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第8主日」 

 

説教、「救い主を信じること」 鈴木伸治牧師

聖書、ミカ書7章14-20節

   使徒言行録24章10-21節 

   ヨハネによる福音書5章31-40節

讃美、(説教前)讃美歌54年版・238「疲れたる者よ」

   (説教後)讃美歌54年版・502「いともかしこし」 

                             

 いつもいろいろな世界の報道で心を痛めていますが、香港の報道も心を痛める一つです。香港は以前は国でしたが、今は中国の一つの町でもあります。もともと中国の町でしたが、戦争により香港はイギリスの支配下になりました。その後、香港は中国に返還されますが、中国の共産主義に対して、今までの香港は民主主義であり、そのため中国に返還されても、中国のようにはならず、今までの香港、民主主義の社会です、それで中国は一国二制度の方針を取り、香港の歩みを認めるようになりました。しかし、最近の傾向は、いろいろな意味で中国的な取り組みにしようとしています。香港では、いつも抗議活動をしており、多くの人々が捕らえられたり、迫害されたりしています。それでも今までの香港の歩みを求めて人々の戦いが繰り広げられています。

 世界を見ると、同じ国に生きながら民族的にも異なるので、独立を希望している地域があります。スペインでもカタルーニャ地方が独立を主張しています。2012年9月からスペイン・バルセロナにいる娘の羊子のもとで、2ヶ月間過ごしました。9月11日が独立を願う日であり、その時は多くの人がバルセロナに集まっていました。150万人とも言われています。スペインのカタルーニャ地方は広い地域で、人々は観光バスでバルセロナに集結したのでした。人々はカタルーニャの旗を背中に負ったり、旗を振りながら広場に集まって行く様子を目の当たりにしました。結局、独立は今でも認められていませんが、9月11日に近くなると、独立派の人々が、独立を求めてアピールするのでした。夜の10時頃になると、町の人々はそれぞれの家のベランダで鍋やフライパンを叩くのです。その音を聞いたとき、何事が起ったのか驚きました。羊子の説明で、独立を訴えているのだということでした。すごい騒音にもなっていましたが、1時間くらいで音がやんだようです。

 バルセロナカタルーニャの中にありますので、バルセロナの人々も独立か、残留かでいつも議論しています。羊子の家に親しい皆さんをお招きして食事会をしました。その時、バルセロナの公認観光ガイドである山田修平さんもお招きしていました。その山田さんが、独立か残留かの話題を持ち出してしまったのです。そうすると、皆さんは仲良く、楽しく食事をしていたのですが、それぞれの主張を言いはじめたのです。山田さんは、まずい話題を提供してしまったと悔いていました。その後、議論は治まりましたが、どこの国の人々も、やはり自分達の最も良い生き方を求めているのです。

 何を信じ、根拠にして生きるのか、人間の基本的な希望です。私達は信仰者として、改めて、主イエス・キリストは救い主であると信じることです。そこに人生の基本があるのであります。今朝は救い主、主イエス・キリストを信じる信仰の人生へと導かれるのです。

今朝は約束を示されます。今朝の旧約聖書はミカ書7章14節から示されていますが、7章8節からは「新しい約束」として示されています。いままでも神様の救いの約束は示されてきています。しかし、ミカという預言者は「新しい約束」として人々を導いているのです。「約束」は「くくり束ねること」であると説明されます。つまり、ある物事に対して、そこから離れないようにくくり束ねてしまうことなのです。さらに言えば、ある物事に関して、あらかじめ取り決め、将来それを変えないことを互いに誓うことでもあります。このような意味合いから、規則、規定、決まりなども約束の範疇になります。従って、約束は互いに内容を確認して、それに向かって歩むことであります。約束の「約」は「おおよそ」の理解がありますが、「将来について互いに取り決めをする」ことの意味があります。

聖書は旧約聖書新約聖書がありますが、「旧約」、「新約」は「約束」の意味であり、古い約束、新しい約束ということになります。それでは旧約聖書の古い約束とは何かと言いますと、「十戒」を中心とする約束です。つまり、神様が与えられた十戒を守ることによって、生きながらえ、幸せが与えられるということなのです。それに対して、新約聖書の新しい約束は、旧約聖書の約束を土台としながら、主イエス・キリストの教えをいただき、十字架の贖いを信じること、それにより永遠の命が与えられるということであります。古い約束だから、新しい約束だけでよいというのではなく、新しい約束は古い約束を土台としていますから、旧約も新約も共に大切な約束なのであります。

今朝は「新しい約束」を示されていますが、土台である古い約束をまず示されるのであります。古い約束の書はミカ書が示しています。「あなたの杖をもって、御自分の民を牧してください。あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に、ただひとり守られて住み、遠い昔のように、バシャンとギレアドで草をはむことができるように」と祈っています。この祈りに対して神様が答えます。「お前はエジプトの地を出たときのように、彼らに驚くべき業をわたしは示す」と救いの約束を与えています。それに対して、16節からは神様を讃美する歌になります。そして、18節からは神様をほめたたえる頌栄になるのです。「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が」と讃美の声をささげてこのミカ書は終わるのであります。

ミカ書のミカという預言者はイザヤより少し遅れて活動した人であります。イザヤは都会の人でありましたが、ミカはおそらく貧しい農民であったといわれています。彼は身分の低い者の側に立ち、社会の不正義を攻め、また利をむさぼる指導者、偽預言者を攻撃したことでした。ミカ書2章1節以下に、「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」と厳しく攻撃するのであります。指導者に対しては、3章5節以下で、「わが民を迷わす預言者たちに対して、主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は、平和を告げるが、その口に何も与えない人には戦争を宣言する」と痛烈に批判するのでありました。このミカの預言の中でも、3章12節の言葉は、後にエレミヤという預言者が引用するほど感銘を人々に与えたのであります。「それゆえ、お前たちの故に、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」と預言しています。エレミヤはこの預言を引用しながら、神様の御心を示しているのであります。エレミヤ書26章19節、「ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている」とエレミヤは人々に反省を求めているのです。歴史においてミカの時代に、ミカが神様の審判を述べたとき、人々はミカを殺すどころか、ミカの預言を聞いて悔い改めたのでありました。

こうして神様の約束を真実人々は受け止めるのです。それでミカは神様を讃美して預言の言葉を終わるのでありました。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを、アブラハムに慈しみを示してください。その昔、我らの父祖にお誓いになったように」とミカは神様の約束の実現をお祈りしているのであります。

  ヨハネによる福音書は主イエス・キリストサマリアの女性と対話をされた関連で示されています。お弟子さん達がお昼の食事を買いに出かけているとき、イエス様はサマリアの女性に水を所望しました。サマリア人ユダヤ人は交際してないので、サマリアの女性は不思議がります。その対話の中でイエス様は言われました。「この水を飲む者はだれでもまた乾く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」との示しでありました。さらにサマリアの女性との対話が続きます。そして、礼拝について示されるのです。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と示されたのであります。そこへお弟子さん達が帰ってきました。買い求めてきた食事を差し出すと、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われます。お弟子さん達は、誰かが食べ物を持ってきたと思います。イエス様は、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。永遠の命に至る水、霊と真理の礼拝、イエス様の食べ物と示しが与えられていますが、神様の約束の実現を示しているのであります。主イエス・キリストを真の救い主として信じること、そこに神様の約束の実現があるのです。永遠の生命へと導く約束なのであります。

 聖書の最初の人、アブラハムが神様の導きの声に従って故郷を後にしたとき、その行き着く地は祝福で満たされるのでありますが、アブラハムはこの世に生きる限り旅人でありました。そして、行き着く地は永遠の生命であったのです。さらに、聖書の人々が奴隷の国、エジプトを脱出して、神様の約束の土地カナンへと向かいます。40年後にはそのカナンに到着しますが、この40年はアブラハムと同じように永遠の生命への旅でありました。聖書は私たちに永遠の生命への旅を示しているのであります。それが神様の約束なのであります。十戒を基にして導き、主イエス・キリストの十字架の贖いにより、永遠の生命へ導く約束が聖書の示しなのであります。

 主イエス・キリストの永遠の命にいたる水を飲みましょう。そして、霊と真理に導かれて神様を礼拝しましょう。イエス様が下さる食べ物、神様の御心に生き、その業を実践することであります。神様の約束が与えられるのであります。永遠の生命へと導かれるのであります。

 今朝は、世界のいろいろな取り組みを示されています。イギリスのEU離脱問題、スペイン・カタルーニャの独立問題、そして香港の今までの歩みを続けること、いろいろな取り組みを示されています。人々が信じて生きる道を示されているのであります。旧約聖書ミカ書においては、神様の「新しい約束」を信じることであり、新約聖書は神様から遣わされた主イエス・キリストを信じて生きることが祝福の歩みであると示されているのです。こうして私達には、はっきりとした基があり、信じて歩むことができるのです。

 私たちはイエス・キリストの十字架の救いを信じて歩んでいるのです。そのイエス様を見たわけでもなく、聖書に示されている証しを信じてあるのであります。イエス様が救い主であるということを証明することはできません。信仰によって信じているからです。最近、一つの物語の中に出てくる会話を示されています。神道の神主さんの家に女の子と男の子がいます。女の子は、ある時、神主でもある父親に尋ねるのです。「神様は、本当にいるのか」ということです。その時、父親はすぐには答えられなかったのですが、後に改めて娘に言うのでした。「神様はいるよ。しかし、いないと思っている人はいないのだよ。いると思って信じるからいるんだよ。太陽でも、大木でも、大きな石でも、神様だと思い、信じれば神様なのだよ。」と言って示すのでした。これはこれで一つの信仰のとらえ方でありましょう。イエス・キリストマリアさんから生まれたこと、成長して人々に神様のお心を示し、奇跡を行い、死人を生き返らせ、病気の人を治してあげる、そして捕らえられて十字架に架けられて死ぬ、しかし三日目に復活する、天に昇り、今度は聖霊として降り、人々を導いておられるイエス・キリストであり、そのイエス様を信じているのです。信仰なのです。信仰を現代において証明しなさいと言われても、証明できないでしょう。イエス・キリストの救いを信じること、それが信仰の人生なのです。今朝は、「救い主を信じること」の示しであります。聖書は私たちが信じるために、いろいろな示しを与えていますが、イエス・キリストを信じること、私たちもその信仰に導かれているということなのです。イエス・キリストは私たちの救い主であり、世界を平和へと導く存在であると信じているのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架による救いを感謝致します。何事も十字架を基として歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によっておささげします。アーメン。

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