説教「その日、その時のために」

2019年8月25日、三崎教会
聖霊降臨節第12主日



説教・「その日、その時のために」、鈴木伸治牧師
聖書・ エゼキエル書12章21-28節
    ルカによる福音書12章35-48節
賛美・(説教前)讃美歌21・342「神の霊よ、今くだり」、
   (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」



 毎日の生活の中で、私達は明日からの予定を心に留めながら歩んでいます。現役の頃は、毎朝机の前に座り、まず手帳を開いてその日の予定を確認します。合わせて今後の予定に目を通し、それとなく段取りを考えておくのでした。なにしろ手帳には毎日の予定がぎっしりと書き込まれているのです。ですから手帳は今後の人生ということになります。その大切な手帳をなくしてしまったことがありました。昔、今のように携帯電話がなかった時代です。郊外に外出して、高速道路であり、パーキングエリアに入って、自宅に連絡を取るため公衆電話ボックスで電話したのです。昔は、公衆電話ボックスはどこにもありました。電話することの不自由はなくなっていました。電話の要件が終わって、再び高速道に入り帰宅したのでした。帰宅してから大切な手帳がないことに気が付くのです。思い当たることは高速道のパーキングエリアで電話したことでした。手帳を見ながら電話をしたのですが、その手帳は公衆電話ボックスの電話機の上に置いていたようです。そのまま忘れてしまったのでした。今更、忘れた場所に行くこともできず、予定が書きこまれた手帳がないままに生活しなければなりません。もちろん、別の手帳に予定を思い出しながら書き込んだのですが、やはり不安の日々でした。
 明日のことがはっきり確認できない日々は不安があるということです。今は現役を退いていますので、そんなにいろいろな予定があるわけではありませんが、それでも朝は必ず手帳を開いては一日の歩みを確認しているのです。この時、私たちは日々の予定がはっきりしなくても、確実に示されていることは神の国に歩むということなのです。これは手帳に書き込まなくても、現在と終わりの時を結んでいる神の国の歩みをしっかりと見据えながら歩みたいのであります。

 聖書は「その日、その時のために」備えをすることが教えられています。旧約聖書は「その日、その時のために」は解放の時であり、救いの時であります。旧約聖書エゼキエル書12章21~28節が今朝の示しです。エゼキエル書は聖書の人々がバビロンの国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンの捕虜、奴隷として連れて来られています。バビロンの空の下で希望を無くしている人々に対して、神様は囚われの人々の中でエゼキエルを預言者として立て、神様の御心を示しているのです。今朝の聖書は、人々が希望もなく、救いはほど遠いことであると信じている状況です。むしろ人々は「ことわざ」とか「言い伝え」を信じていました。「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」という「ことわざ」に重きを置いている現実がありました。ここで言う「幻」はエゼキエルの預言の言葉、神様の御心なのです。苦しい歩みは変わりなく長引き、それに対してエゼキエルの預言、神様の御心だと示しているが、消え去っていくものだと言っている訳です。エゼキエルの預言をむなしい言葉としているのです。それに対して神様はエゼキエルに示しています。「もはや、イスラエルの家には、むなしい幻(預言)はひとつもない。なぜなら、主なるわたしが告げる言葉を告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する、と主は言われる」とエゼキエルは人々に示しています。
 「もはや、引き延ばされることはない」と神様の救いがすぐ近くであることを示しているのです。それなのに人々は相変わらず言うのです。「彼の見た幻(預言)は、はるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである」と。「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」と神様は繰り返し示すのであります。「その日、その時のために」備えをするにしても、「はるか先のこと、遠い将来のこと」としている人々は間違いであるのです。「いつか、そのうち、いずれ」は、そうなると信じつつも、決してその日が来ないと思っていることでもあるのです。諦めきっている聖書の人々に、エゼキエルは現実に神の救いが実現することを示し、「その日、その時のために」備えなさいと繰り返し示しているのです。

 日々歩んでいるうちにも、予定されていることは確実にやってきます。現役時代は手帳が真っ黒になるほど予定が書き込まれていました。日々の忙しい歩みをしたとしても、「その日、その時」は確実にやってまいります。今は来年に開催されるオリンピックで、日本中がその日を目指しているようです。その日はやってくるのです。日々、忙しく過ごそうとも、のんきに過ごそうとも「その日、その時」はやってまいります。このことは聖書が繰り返し示しているように、神様の御心の実現の日がやってくるということを心に留めたいのであります。その日その時は必ず来るということです。
聖書は繰り返し備えるように示しているのです。新約聖書ルカによる福音書12章35~48節からの示しです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。この部分の標題は「目を覚ましている僕」として教えられていますが、35節から40節までは一般の人々に対する教えであります。再臨についての教えは、イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活され、そして40日後には昇天されますが、イエス様が再びお出でになるという信仰です。ここではイエス様が現実にお話をしているのです。むしろ、これはイエス様が昇天された後の、お弟子さんたちへの教えということになります。それでは現実的に教えておられることを、どのように受け止めるかということです。再臨信仰ではなく、現実の信仰として示されるべきだということです。現実の信仰を励ましているのです。信仰は日々の生活の中で実践されて行くのです。信仰のお休みはないということです。今まで一生懸命信じてきたのであるから、この辺で少し休みましょうという信仰はあり得ないということなのです。
41節から48節まではお弟子さんたちの指導者達への教えとされています。指導者たちが信者をおろそかにしては、「その日、その時のために」ならないということなのです。再臨の信仰が背景になっていますが、やはり現実的に示されなければならないのです。指導する者として、休むことなく、信者の皆さんを励まして歩むことの示しとして教えられたいのであります。「その日、その時のために」とは、再臨が背景になりますが、祝福が与えられるときであると示されるのです。目を覚まして主イエス・キリストの十字架の救いをいただき、神の国を現実に生きながら、永遠の生命の祝福をいただくことが「その日、その時のために」生きることなのです。そうすると、「その日、その時のために」は将来のことではなく、現実の「今」ということになります。
信仰の現実を励ますルカによる福音書であります。10章25節以下の「善いサマリア人」のたとえ話と「マルタとマリア」の示しについては、今朝の聖書の前の部分で示されています。いずれも現実の信仰を励ます教えです。今を生きる者として、隣人と共に生きることを教えています。また、今を生きる者として、今をどのように生きるかを示しているのです。まず神様の御心をいただいて生きることを教えていました。15章には「無くした銀貨」と「放蕩息子」のたとえ話を示されています。道をはずした人に対して、神様は悔い改めて御心に戻ることを待っておられ、あるいは探し出してくださるという教えです。現実の信仰を励ます教えであります。さらに16章の「不正な管理人のたとえ」が示されます。御心にあって今をどのように生きるか、人間関係の中で祝福の関係を持ちつつ歩みなさいとの教えです。これも現実の信仰についての示しであります。そして、19章には「徴税人ザアカイさん」について示されます。いじめや排除がある中で、自分から心を開いて社会の人々と共に生きることを教えておられるのです。やはり現実の信仰を励ます教えであるのです。これらは他の福音書には記されない、ルカによる福音書にしか記されないイエス様の教えであります。イエス様は私達の現実の信仰を常に励まされておられるのです。現実を神の国として生きること、そのために信仰を持って力強く生きること、そして、その信仰の歩みは永遠の生命に導かれることなのです。「その日、その時のために」とは将来のことではなく、今の信仰に歩む私達を励ましておられる主イエス・キリストであります。
エゼキエル書の場合も、救いは「はるか先」のことでもなく、「遠い将来」でもなく、今こそ救いは現実であり、だから御言葉に委ねて歩みなさいと示していたのでした。ルカによる福音書も現実の信仰として、「目を覚ましていなさい」と教えているのです。

 将来、それは死んでからは天国に導かれるのですから、今は苦しくても悲しくても我慢して生きようという信仰がありますが、それは間違いです。天国、神の国は現実であるのです。今を苦しいと思っていますが、その中においても御心に生きる喜びがあるのです。苦しくても我慢をするのではなく、苦しくても御心に生きる喜びがあるのです。それが神の国を生きるということなのです。
 毎年11月の第一日曜日は召天者記念礼拝であります。これは日本基督教団が定めていることであり、教会によってはイースター礼拝の後に行う場合もあり、あるいは社会のお彼岸に合わせて行う教会もあります。その召天者記念礼拝におきまして、いつも示されていることは、キリスト教の死生観についてであります。キリスト者は死んで彼方の国、天国に導かれるという信仰があります。だから現実は苦しくても天国へ迎えられる希望をもって歩むということです。しかし、そうではなく現実が天国であり、神の国として生きることがキリスト教の信仰であると示されています。イエス様の十字架の救いを与えられ、御心を示されて生きるときにも、苦しいこと、悲しいことがあります。愛する者が死んでお別れするという悲しみもあります。それらを我慢して生きるというのではなく、そのような状況だからこそ御心を与えて導いておられるイエス様であるのです。だから現実は御心をいただいているのですから、神の国を歩んでいるのです。そしてこの肉体の命が終わったとき、そのまま永遠の命に導かれて行くのです。従って、現実の神の国と永遠の神の国はつながっているということです。文章に例えれば、仏教では、死は句点を打つことになります。これで終わったということです。それで旅立ちの装束でお別れするのです。しかし、キリスト教は、死は句点ではなく読み点なのです。まだ文章が続くという意味です。ちょっと読み点を打ち、その後の文章がつながっていくのです。その後の文章は永遠の生命です。今の神の国と永遠の神の国は読み点でつながっているということです。だから現実を神の国として生きることがキリスト者の信仰であるのです。
 このお話を受け止めてくださった方がおられました。「今まで死ぬということについては、もやもやとした思いでしたが、これで確信を持って天国へ行かれます」と言われたのです。その方も数年後に召されましたが、現実を神様の国に生きている喜びを持ちつつ歩まれたと示されています。この世の神の国から永遠の神の国へと導かれて行ったのです。
 「その日、その時のために」私達の現実の信仰を励ましているイエス様の、十字架の救いを喜びつつ歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。この現実の歩みに御心を示してくださり感謝致します。神の国に生きる喜びを広く証させてください。キリストの御名により。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com