説教「信仰の人生」

2020年6月21日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第4主日

 

説教、「信仰の人生」 鈴木伸治牧師
聖書、ハバクク書2章1-4節

   ヨハネの手紙<一>2章22-29節 
   ヨハネによる福音書3章22-36節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・181「みたまよ、くだりて」
   (説教後)讃美歌54年版・522「みちにゆきくれし」



 信仰の人生は豊かな祝福であることを、今朝の聖書は示しています。前週は信仰に生きたお二人の人を示されました。神様を信じ、イエス様のお導きをいただいた人生が、どんなにか喜びであるかの証を示されています。今日まで信仰に生きる人々とお交わりをしてまいりました。それらの皆さんのお証を示されているのであります。5月6月は、信仰のお証しを残された方を示されるのでありますが、横浜本牧教会時代にお交わりをいただいた方、片平總太さんを示されています。5月25日に天に召され、28日には追浜にある斎場で前夜式が行われました。告別式は29日に横浜本牧教会で行われたのです。片平さんは会社の会長をされておられ、その会社が追浜付近にありましたので、前夜式は会社関係の皆さんがご列席になりました。私は、追浜は近いので伺わせていただきました。2010年3月に30年間6ヶ月務めました大塚平安教会を退任しましたが、その4月から9月までの6ヶ月間、横浜本牧教会の代務者として務めました。代務者はその教会の牧師として就任するのではなく、正式の牧師が就任するまでの期間、まあ留守番的な牧師として関わるのです。その代務者を引き受けるのは2010年2月の末頃でした。もう3月には大塚平安教会を退任して、それからはのんびりと過ごすつもりでいたのですが、代務者を求められ、承諾したのでした。すると横浜本牧教会から3人の役員さんが大塚平安教会におります私をお訪ね下さいました。代務者として引き受けましたので、ご挨拶に見えられたのです。その中のお一人が片平總太さんでした。代務者として務める中でも、片平さんは役員として何かと代務者の配慮をしてくださっていました。役員として、教会を代表するふるまいをされていたのです。この様な役員さんがおられると、教会の歩みはゆるぎないと示されていました。90歳で召天されましたので、代務者の頃は84歳頃であったでしょう。その後、役員さんは退任されたと伺っています。信仰の人生を力強く歩まれ、葬儀も社葬でありましたが、キリスト教で行われたのですから、ここでも信仰のお証をされたのであります。列席された会社関係の人々も片平總太さんの祝福の人生を示されたでありましょう。
 横浜本牧教会時代では、もう一人の方を示されています。代務者として4月から務めはじめましたが、間もなく園田さんという女性の教会員のお連れ合いがご病気である事を示されました。早速、役員さんと共にお宅にお訪ねしました。キリスト教のお話しを聞きたいとのご希望があったからです。夫人が教会員であり、お子さんも幼児洗礼を受けておられます。園田さんは末期の癌を宣告されておられ、余命3ヶ月とまで宣告されていたのです。園田さんは洗礼を決意されました。そして5月23日のペンテコステ礼拝で洗礼を受けられたのでした。しかし、次第に病気が進行していました。8月になって、かなり危なくなっているとのことで、病院に入院されている園田さんをお見舞いしました。ご本人も受け止めておられますので、私ははっきりと、すべてをイエス様に委ねることですと申し上げました。その時、園田さんはがくんとベッドに沈みこむようでした。力が抜けたようでした。イエス様に委ねること、それまで力を張っていたのが、力が抜けたようです。安心してイエス様に委ねられたからです。そして間もなく天に召されたのでした。8月22日に信濃町にある千日谷(せんにちだに)会堂で葬儀が行われました。園田さんは会社の取締役であり、やはり社葬として行われました。クリスチャンになっていたので、キリスト教の葬儀が行われたのです。多くの人が信仰を持って召された園田さんの証しを示されたのでした。葬儀の司式をいたしましたが、信仰の人生がどんなにか喜びであり、祝福であるかを式辞でお話したのです。
 信仰の人生は喜びと祝福であることを今朝は示されています。まずお二人の信仰の人生を示されたのでした。人生はいろいろな出会いと問題に対処しながら歩みます。どのような状況でありましょうとも、神様の御心をいただきつつ歩むことなのです。
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 旧約聖書ハバクク書により示されています。この聖書の中では、悪い者が栄え、正しい者が苦しめられるのは何故なのかとの主題について示されています。3章までの短い聖書でありますが、信仰に生きる原点を示しているのであります。まず、諸問題について神様に問いかけています。そして、その問いに答えるということで構成されています。1章では、「主よ、わたしが助けを求めているのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」と問いかけています。この世は暴虐と不法に満ちており、争いといさかいが満ちていると訴えているのであります。それに対して、神様の答えが示されます。「諸国を見渡し、目を留め、大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前達は信じまい」と言い、「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍(ひょうかん=動作がすばやく、性質が荒々しく強い)な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」と答えているのであります。神様の答えに驚くだろうと言われるのは、暴虐と不法に満ちている国を救うのは、それ以上の暴虐と、それ以上の不法であるというのです。つまり、恐るべきバビロンの国が暴虐と不法に満ちている社会を滅ぼすというのです。神様が暴虐と不法の社会を裁いてくださるのであれば、その後は平和な社会と思いますが、むしろさらに苦しい時代になるとも言っています。確かに、今までの暴虐と不法はなくなりますが、今度はそれ以上の暴虐の社会になるとも言っています。そのように答えながら、「しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ」と示しているのです。
 今朝の聖書は2章でありますが、それは1章12節以下の、預言者の問いかけに対する答えが今朝の聖書であります。二つ目の問いかけになります。すなわち、欺く者に苦しめられており、神に逆らう者が正しい者を飲み込んでいると訴えているのです。「あなたの目は悪を見るにはあまりにも清い。人の労苦に目を留めながら、捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか」と問いかけているのです。それに対する答えが今朝の聖書であります。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきり記せ。もう一つの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と約束しています。救いは必ず与えられることを示しているのです。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と示しています。神様の救いを信じて待つこと、これが信仰であります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との示しの通りであります。
 「神に従う人は信仰によって生きる」との示しは、後にパウロが深く受け止めることになるのです。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマの信徒への手紙1章17節)と記されている通りです。それにより、パウロは「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」との信仰を掲げるのであります。まさに、信仰こそが祝福の人生であることを示しています。今がどのような状況でありましょうとも、苦しく、悲しい状況でありましょうとも、信仰によって生きるなら、必ず神様の祝福へと導かれることを示しているのです。

信仰によって生きる、それは主イエス・キリストの十字架の救いを信じることであります。イエス様が十字架によって殺されました。それは時の社会の指導者達のねたみであります。主イエス・キリストが時の社会に現れたとき、ユダヤ教の社会でありました。ユダヤ教は戒律によって生きる社会です。それは旧約聖書によって示されている戒めであります。イエス様が人々の前に現れたとき、新しい教えを示したのではなく、今まで教えられてきたユダヤ教の戒律を改めて教えなおしたのであります。例えば、「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」との戒律があります。その教えに対して、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と示しました。つまり、表面的に「私は殺していない。だから戒律を守って生きている」と人々が思っていますので、内面的な心の問題に触れたのです。表面的には他者に対して何もしてなくても、心では憎んだり、腹を立てたりしていることも裁きの対象にしたのでした。このような戒律の再解釈は人々には新鮮に受け止められたのです。さらにイエス様は、人々が絶対的な畏れのある神様と思っていたことに対して、「父なる神様」として親しく呼ぶことを示したのであります。そして、神様の愛の実践として、社会から押し出されていた人々の友となりました。病気の人、体の不自由な人は当時の社会では押し出された状態でした。イエス様はそれらの人々と食事を共にし、いつも神様の慈愛を示していたのです。従って、多くの人々がイエス様のもとに集まりました。イエス様には希望があり、現実的に喜びがあったのです。
 そのような主イエス・キリストを時の社会の指導者は、良からぬ存在としたのであります。このままでは自分達の立場がないということであります。それで、ある時、主イエス・キリストを捕らえ、裁判もそこそこに十字架にかけて殺してしまうことになったのであります。しかし、神様はこのような人間の心の弱さ、醜さをよくご存知であります。自己満足、他者排除がなくならない人間を救われるために、むしろ神様が主イエス・キリストを十字架にお架けになられたのであります。イエス様が十字架で死ぬとき、人間の中にある自己満足、他者排除をも共に滅ぼされたのでした。従って、人間は十字架を見つめるとき、私自身の罪をイエス様が担って死なれたと信じるのです。そこに救いがあるのです。信仰の原点は十字架による救いということなのです。
 今、ヨハネによる福音書は、その救いを与えてくださる主イエス・キリストヨハネが証しています。冒頭に「その後」と記していますが、これは前回示されたことで、イエス様がニコデモさんと対話したことであります。ニコデモとの対話で、イエス様は新しく生まれることについて示しました。生まれながらの自分の思いで生きるのではなく、神様の命の息をいただいて生きるときに新しい人間になることを示しました。そして、示されたことは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということでした。この言葉の中にも、十字架の救いが既に示されているのです。そのように示しながら、主イエス・キリストは十字架への道を着実に歩んでいかれることを福音書は示しています。
今朝の聖書はニコデモさんとの対話の後で、イエス様が人々に洗礼を施していることが記されています。同じくヨハネも洗礼を授けているのですが、ヨハネの弟子達が言うには、みんながイエス様の方へ行ってしまうということでした。それに対してヨハネは、改めて救い主であるイエス・キリストを証したのであります。ヨハネの弟子達は、みんなイエス様の方へ行ってしまうので、ねたましく思い、ヨハネに告げるのでした。しかし、自分達の先生ヨハネは、むしろ主イエス・キリストであることを改めて証しているのです。ヨハネは言います。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたがた自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と自分の存在と立場を述べるのであります。ヨハネは主イエス・キリストを証するものであるということ、人々がこの主イエス・キリストを信じて生きること、それがヨハネの使命でありました。イエス様を見つめつつ、信じつつ信仰の道を励ましているのであります。

イエス・キリストを信じて生きること、それはどんなにか喜びでありましょうか。何よりも信仰の道は、この道は永遠の生命の道なのであります。ヨハネによる福音書は他の福音書で示すように、現実を神の国として生きること以上に、「永遠の生命」に生きることに力点を置いているのであります。永遠の生命を与えるために主イエス・キリストがこの世に現れたことを示しているのがヨハネによる福音書なのであります。
 今朝は、最初に横浜本牧教会のお二人の方のお証を示されました。関連してお話しさせていただきますが、やはり横浜本牧教会代務者時代に葬儀がありました。横浜本牧教会は聖坂養護学校と深いかかわりを持っています。その学校の生徒さん、高校1年生ですが亡くなりました。キリスト教の学校であり、ご両親は教会での葬儀を希望されましたので、私が葬儀の司式をさせていただきました。大塚平安教会在任中、知的障碍者の施設に関わっていましたので、積極的に関わらせていただいたのです。その葬儀が終わりまして、ご両親は時々ではありますが礼拝に出席されるようになりました。今でも出席されておられるようです。教会の皆さんの信仰の人生を深く受け止められたようです。もう一歩踏み込んで、イエス様を信じる人生へと導かれることをお祈りしているのです。
 <祈祷>
聖なる御神様。十字架の救い信じる信仰のへとお導きくださり感謝します。信仰の人生を喜びつつ歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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