説教「正しい道を歩む」

2021年6月6日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第3主日」  

                      

説教・「正しい道を歩む」、鈴木伸治牧師

聖書・エゼキエル書18章25-32節

   使徒言行録17章22-34節

   マタイによる福音書3章1-6節

賛美・(説教前)讃美歌21・352「来たれ全能の主よ」

   (説教後)讃美歌21・528「あなたの道を」

 前週は三位一体主日であり、私たちを導く神様を示されました。神様は三様に言い表すことができますが、神様が三人いるのではなく、人間が理解するために、三様の姿で導いてくださっているのです。「父なる神さま、子なるイエス・キリスト・導きの聖霊」としての神様であります。神様は私たちが正しい道を歩むために、私たちに関わり、お導きくださっているのです。「正しい道を歩む」ことを示されていますが、私たちにとって、何が正しく、正しくないのか、判断に苦しむのです。日々の生活において、私たちは、いつも悪なる存在に悩まされています。人間はどうして人をだまし、悪いことをしながら生きるのでしょうか。毎日、いろいろなニュースを聞きながら生活しているのですが、毎日心が痛むことが起きています。ニュースは毎日そんなことばかりで、夕飯時にテレビをつけていると、悪人の紹介みたいに、次から次へと悪いニュースを報道しているのです。悪い出来事を報道して注意を促して居るのでしょうが、次々の悪い報道は気持ちが悪くなります。

 他人事のように述べていますが、自分自身も悪を生み出す存在であることを示されています。悪とは、悪いこととは、聖書は意味深く示しています。それは旧約聖書・創世記に記されています。神様は人間を造り、エデンの園に住まわせます。そこで何を食べても良いのですが、園の中央の木の実を食べてはならないという戒めを与えています。最初の人間アダムさんとエバさんは戒めを守っていましたが、ヘビなる存在の誘惑を受け、彼らは禁断の木の実を食べてしまうのです、その木の実は「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなる」と思われたので、彼らは食べてしまうのです。聖書は、これを原罪としています。たとえ戒めがあっても、自分の思いを満足させること、人間の自分中心の姿なのです。人間はこの原罪があるために悪いことをしながら生きているのです。

 今朝の聖書の導きをいただきましょう。

 今朝の聖書の示しは、旧約聖書エゼキエル書18章から示されています。少しエゼキエル書の背景を示されておきましょう。聖書の国は小さい国で、周りにはエジプト、バビロン、アッシリア等、大きな国に囲まれています。そういう中でどのように生き伸びるか、指導者たちの選択が求められていました。結局、人間の力により頼もうとしていたのです。そのような時、預言者と言われる人々は、何よりも神様のお心を求め、御心に従って歩みなさいと示しています。しかし、指導者たちは神様の御心ではなく、人間の力により頼んだのでした。バビロンに対して、エジプトの国の力により頼もうとしました。結局、バビロンに滅ぼされることになります。多くの人々がバビロンに連れて行かれるのです。エゼキエルは祭司でありましたが、エゼキエルも捕われ人としてバビロンに連れて行かれるのです。そのエゼキエルが、捕われ人としてバビロンで過ごす中で、神様はエゼキエルを預言者として立てられたのでした。エゼキエル書は、捕われ人と共にいるエゼキエルが、人々に神様のみ心を示しているのであります。

 バビロンに捕われている人々は、結局、自分たちが捕われているのは、先祖が悪いとしています。18章の冒頭で示しています。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と」、エゼキエルは示しています。つまり、今我々が苦しんでいるのは、先祖が悪いからだということです。先祖が酸っぱいぶどうを食べたので、今の我々は酸っぱいぶどうのゆえに歯が痛くなっている、と言う訳です。みんな先祖が悪いのだということです。それに対してエゼキエルは、この18章において、「各人の責任」を示しているのです。それぞれの責任において、示されている十戒を守って生きること、それが求められているのです。今の状況を先祖の責任にするのではなく、あなたがた一人一人が悔い改めて、神様の御心に生きることですよ、とエゼキエルは示しているのです。そのために、エゼキエルは神様の御心に生きることとして18章5節以下で示しているのです。「あなたがたは偶像を仰ぎ見てはならない。人を抑圧せず、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、不正から手を引くなら、彼こそ正しい人である」と各人の責任を示しているのです。

 この示しは主イエス・キリストの教えでもあります。マタイによる福音書25章31節以下、イエス様が「すべての民族を裁く」としてたとえ話で示されています。王様は右側の人々をほめました。それは、王様が示していることは、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われ、「それはわたしにしてくれたことである」と示しているのです。社会の中で共に生きること、それが神様のお導きであると示しているのです。

 エゼキエル書は、神様の御心に生きるために、「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造りだせ」と示しています。神様の御心は、あなたがたが新しい心をもって生きることですよ、と示しているのです。

 今朝の新約聖書はマタイによる福音書3章ですが、イエス様ではなく、イエス様より先に現れたバプテスマのヨハネの示しであります。

 新約聖書にはヨハネなる名前がいくつかあります。まず、イエス様のお弟子さんのヨハネさん、そしてヨハネによる福音書ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録であります。今朝の聖書に登場するのもヨハネですが、他のヨハネとは区別するために洗礼者ヨハネと記しています。バプテスマのヨハネとも称しています。ヨハネはイエス様より先に生まれ、そして先に人々に現れて、神様の御心を示したのであります。その第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でありました。その後、イエス様が現れますが、イエス様も「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われて、福音を宣べ伝えられたのであります。バプテスマのヨハネイエス・キリストも、人々が悔い改めることでありました。このヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた、ということです。当時でも、一風変わった存在でした。そのヨハネが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と宣べ伝えているのであります。そのヨハネのもとにファリサイ派サドカイ派の人々も来ています。これらの人々は当時の社会の指導的な人々でした。ヨハネはこれらの人々に言うのです。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りから免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」というのです。アブラハムは聖書の民族の最初の人です。神様の御心に忠実に従い、神様の祝福をいただい人でした。我々の先祖のアブラハムは神様の祝福をいただいたので、我々も祝福をいただいている、という短絡的な思いを持っていたのです。これはエゼキエルが示していることと同じであります。「先祖が酸いぶどうを食べたので、子孫の歯が浮いている」ということであり、「我々の父はアブラハムだ」と言っていることは同じことなのです。自分の存在を他の存在と重ねて考えることではなく、自分の存在を正しく受け止めるということなのです。

 自分の存在を正しく受け止めること、それは聖書が示すように、人間の原罪を知るということであります。人間は「自分を愛する」ことが常に優先しつつ生きているのです。まず、その根本的な姿を受け止めることなのです。そして、そのような自分の姿を救ってくれる基となることを知ることなのです。その基とは、イエス・キリストの十字架の救いなのです。人間は、どうしても自己満足から救われません。その自己満足を滅ぼされたのがイエス様の十字架なのです、イエス様はご自分の死と共に人間の自己満足を滅ぼされたのでした。自己満足そのものは悪いということではありません。自己満足がないと人間は成長しないからです。しかし、自己満足の故に他者を排除することで悪となるのです。

 現役の頃、刑務所の教誨師をしていました。1時間ですが、最初の30分間は聖書のお話や讃美歌を歌います。後の30分は懇談の時としていました。中には刑務所には二回目とか三回目という人もいて、刑務所に入る度に教誨を受けていると言います。だから聖書のお話もよく知っています。いつも「ありがたく聞いています」というのです。それでいながら、刑務所から出所しても、また同じ過ちをしてしまうということです。多くの場合、麻薬とか薬ですが、どうしても同じことをしてしまうのでした。イエス様の十字架の救いを真に受け止めなければならないのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様のお導きを感謝いたします。日々、新しい歩みをさせてください。イエス様のみ名によりおささげします。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com