説教「信仰の証し人」

2021年6月13日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第4主日」  

                      

説教・「信仰の証し人」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書60章19-22節

   フィリピの信徒への手紙2章12-18節

   マタイによる福音書5章13-16節

賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ、わが心」

   (説教後)讃美歌21・458「信仰こそ旅路を」

 

本日は6月の第二日曜日であり、キリスト教では「こどもの日・花の日」としています。この日は教会学校の子供たちは、自宅から花を持ってきて、教会に飾り、礼拝をささげるのです。教会もお花をいっぱい飾り、子どもたちを祝福しながら礼拝をささげるのであります。この行事はアメリカの教会から始まっているのですが、日本でもかなり早くからこの行事を示されながら礼拝をささげていたようです。実際、私自身がこの行事によってキリスト教の世界で生きるようになったのです。1945年に日本が戦争の敗戦を認め、そこから新しい歩みが始まりました。私は日本の敗戦後の小学校1年生でした。新制小学校とも称しています。その1年生の時、三歳上の兄を亡くしました。その後、母は病気で入院するようになり、その母をお見舞いしてくれたのが、近くにある関東学院日曜学校の子どもたちでありました。その日は「こどもの日・花の日」でありましたから、6月の第二日曜日であったと思います。その頃は、私は小学校3年生になっていたのです。従って、1948年頃、昭和23年頃でありました。この時点でも「子どもの日・花の日」があったのですから、かなり前からこの行事があったと思います。しかし、戦争中はキリスト教でも厳しく監視されていましたから、このような行事がなかったかもしれません。日本の敗戦と共にキリスト教のいろいろな分野が入ってきて、教育・福祉・医療等、キリスト教の活動が盛んになってきたのでした。

「子どもの日・花の日」に入院していた母が子供たちのお見舞いをいただきは、大きな感動を与えられました。そして、自分の子供も他人様に喜んでもらう、そういう人になってもらうために、お見舞いしてくれた日曜学校に私を連れて行ったのでした。花の日のお礼を述べ、今後、この子をよろしくお願いしますと挨拶したのでした。それ以降、毎週日曜日になると、教会の日曜学校に通わせられたのでした。中学生になってからは、二人の姉が出席していた清水ヶ丘教会に出席するようになり、洗礼を受け、伝道者になる決心をしたのでした。そして、伝道者の歩みを使命としたのでした。信仰の証し人に導かれていることを感謝しているのです。私自身の歩みを振り返りながら御言葉を示されたいのです。

 伝道者は人々に救いの喜びを述べ伝えることであります。主の光を告知することであります。今朝の旧約聖書イザヤ書は神様の「栄光と救いの到来」を人々に示しています。イザヤ書は55章から66章までは第三イザヤという人が書いています。背景的には、聖書の人々が約50年間、バビロンで捕われの身分であり、その時代が終わって故郷に帰った人々に対する預言であります。捕囚から帰還し、かなりの時が経っています。最初は喜びつつ故郷に帰ってきたのでありますが、あまりにも異なる現実の生活でした。もはや昔の面影はありません。苦しい状況の中で生きることを余儀なくさせられていたのであります。そのような人々に神様の「ご栄光と救いの到来」を示しているのが、60章であります。今朝は19節からでありますが、60章の冒頭は大変美しい言葉で救いを述べています。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ書60章1-2節)。

 今朝の聖書の19節から22節では宇宙にまで言及して救いのメッセージを述べるのであります。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない」と示しています。太陽の光、月の明かりは人間の喜びであり、また希望でもあります。しかし、日々の歩みにおいて、朝が来ること、夕闇がせまるとき、人間のさまざまな思いが渦巻くのであります。讃美歌21の218番は、「日暮れて闇はせまり、わがゆくてなお遠し、助けなき身の頼る。主よ、共に宿りませ」と歌っています。日々の生活で、いろいろな人間関係、社会生活に疲れている人々なのであります。疲れていてもこの生活は担わなければなりません。まさにイザヤ書の背景の人々の姿でありました。現実を失望しつつ生きなければならなかったのであります。「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」と言い、「主なるわたしは、時が来れば速やかに行う」と示しているのであります。だから、もはや現実に光が射しているのであるから、勇気と希望を持って歩みなさいと宣べ伝えているのであります。

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と主イエス・キリストは示しています。マタイによる福音書は5章から7章まで、主イエス・キリストが山上において説教をしています。今イエス様のお話を聞いている人々は、まずお弟子さん達であります。そして、イエス様のお話しを聞こうと集まってきた積極的な人々なのです。ですから、イエス様は積極的にイエス様のお話しを聞こうとする人々に「あなたがたは地の塩である」と言われ、「あなたがたは世の光である」と言われているのです。これからそのような人になりなさいと言っているのではありません。あなたがたは、既に「地の塩、世の光」になっているといっているのであります。このことはイエス様の教えを聞いている人々が、イエス様の弟子であることを確認していることでもあるのです。お弟子さん達はもちろんでありますが、イエス様の教えを求めて集まってきた人々もイエス様のお弟子さんであると言うことです。この山上の説教はお弟子さん達への教えであるということです。これからそのようになりなさいと言うのではなく、既にそのようになっているということであります。

 お弟子さん達は「地の塩」なのです。ところが、塩であるのに塩気がなくなってしまうのであれば、もはや塩ではありません。「その塩は何によって塩味が付けられよう」と言うのです。塩が塩味を出すのであります。塩気のない塩には塩味が付けられないと示しているのです。「地の塩」と言われるとき、塩は何よりも味を出す働きがあります。腐敗を防ぐ働きがあります。あるいは象徴的に清めの働きをするのです。これらの塩の働きの根源は神様の御心であります。神様の御心は人々に希望を与え、御心に生きる人々には恵が施されます。しかし、御心から離れるならば、すなわち神様ではない偶像に心を寄せるならば、神様の審きがあるのです。イエス様の弟子として生きるならば、「地の塩」として歩まなければなりません。塩味のない塩は、もはやイエス様の弟子とは言えないのです。「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と言われています。これは塩気のない塩そのものを言っているのですが、しかし人間に例えるとすれば、悲しいことでもあります。

  「地の塩、世の光」としての教えを示されていますが、今朝の御言葉への向かい方は、「地の塩」になることの教え、「世の光」になることの教えではありません。イエス様の弟子として、既に「地の塩、世の光」であるのです。むしろ、塩でなくなることの警告、光の役目をしないことの警告でもあります。「ともし火をともして升の下に置く者はいない」とも示されています。ともし火、光は燭台の上に置くことにより、家中が明るくなるのです。「世の光」でありながら、その光を陰に置いてはいないか、テーブルの下に置いていないかとの警告であります。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と主イエス・キリストは私たちの弟子であることの確認を与えておられるのです。

 「地の塩、世の光」として歩んでいる私たちです。私たちに与えられている光を人々の前に輝かしつつ歩んでおります。そうすると人々が私たちの立派な行いを見て、人々はどう評価するのでしょう。あなたは立派です、と言われてはいけないと聖書は示しています。「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」ことなのです。神様の光であることを人々が信じるようになることなのです。

 昔のことですが、キリスト教の人たちは良い人だとの認識が社会にありました。そんなこともあって、テレビのニュースで紹介していたことがありました。何かのことで一人の女性が取材されていましたが、その女性は「自分はクリスチャンだから」と繰り返し述べているのでした。かえってその人の人格を疑ってしまうのでした。一方、学生の頃、ある会社のアルバイトをしました。その時、一人の方の歩みを、つくづく尊敬していました。そしたら、その方はクリスチャンであることを後で知ったのですが、決して自分では言いませんでした。自然に信仰の証しが出てくるものです。イエス様の十字架の導きを信じて歩むことです。それにより、自然に「地の塩、世の光」として歩みが導かれてくるのです。私の光は確実に世の人々に輝いているのです。

<祈祷>

聖なる神様。地の塩、世の光としての歩みを導いてくださることを感謝いたします。その使命を深めて歩ませてください。主によって、アーメン。

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