説教「約束を果たす神様」

2015年8月9日 横須賀上町教会
聖霊降臨節第12主日

説教・「約束を果たす神様」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル書12章21-28節
    ルカによる福音書12章35-48節
賛美・(説教前)讃美歌21・357「力に満ちたる」
    (説教後)讃美歌21・531「朝ごとに主は」


 8月を歩んでいますが、この8月は特に平和を祈りつつ歩むことが導かれています。8月6日は広島に原子爆弾が落とされ、多くの犠牲者が出ています。そして本日の8月9日は長崎に原子爆弾が落とされました。広島と長崎で20万人以上の人々が犠牲となりました。この数字は亡くなった人々ですが、被爆された皆さんの苦しみの生活はいまだに続いているのです。戦争の悔い改めを持ち、戦争の悲しみを持つ日本は、戦争のない世界を作り上げなければなりません。しかし、世界は大変な歩みをしていることになります。自分の国のことしか考えない指導者、自分達の目的のために人間を犠牲にしている状況があるのです。私達は、平和の根源は神様の御心であることを示され、イエス様が教えておられる「自分を愛するように、隣人を愛する」歩みを深めて行かなければならないのであります。神様はイエス・キリストにより平和を実現してくださいますから、その約束を信じて歩みたいのであります。
 「約束を果たす神様」として示されていますが、私は毎月一度、こちらの横須賀上町教会でご用をさせていただくことが、神様のお約束と示されています。もう昔のことですが、8月になりますと、その頃は私の高校生の頃ですが、伊豆伊東の宇佐美教会で修養会をしたことが思い出されます。その宇佐美教会の牧師が齋藤雄一先生でした。清水ヶ丘教会の出身で、宇佐美教会に就任してから、高校生がそこで修養会を開催するようになりました。その頃、清水ヶ丘教会の高校生は大変多く、修養会にも30名くらいは参加していました。その後、斎藤先生はこちらの教会の牧師に就任しました。就任式にも出席しましたし、時には斎藤先生を訪ねて来たことがありました。そして私の、叔母の石渡タキが、清水ヶ丘教会からこちらの教会に転会したのであります。そのような経緯がありますので、大塚平安教会の牧師をしている時、斎藤先生がお辞めになり、その後の牧師として森田裕明牧師を推薦したのでした。森田先生は北海道の北見望ヶ丘教会の牧師でした。その森田先生がこちらの教会に就任し、18年間務められたことは感謝です。
 森田先生が横浜本牧教会に転任され、その後は金子信一先生が代務者となり歩むことになりますが、2010年10月から、月に一度でありますが、こちらの礼拝の御用をさせていただくことになりました。そして2012年4月から宮澤先生が就任されたのですが、むしろ私の方から願い出て、月に一度、聖餐式のご用をさせていただくことにしたのです。私は神様との約束のような思いで、横須賀上町教会の歩みを祈らせていただいているのです。高校生時代に斎藤先生との出会いがあったからかもしれませんが、何よりも私が横須賀市浦郷町の出身であるということが、導きになっているのであると思っています。
 神様のお約束は、私達が平和のうちに、祝福の歩みをするということです。そのお約束を信じて、力強く歩みたいのであります。

 聖書は神様のお約束は平和を与えられる日であると示しています。旧約聖書は、平和の日とは解放の時であり、救いの時であります。新約聖書は主イエス・キリストの十字架による救いの完成が告知されますが、本当の救いは「主の来臨に備える」ことが教えとなります。すなわち、十字架によって救いを完成した主イエス・キリストは、再びお出でになって救いを完全なものとなさるということであります。神様のお約束を信じて、日々の歩みが御心に従うことでなければならないのです。
 旧約聖書エゼキエル書12章21〜28節が今朝の示しです。エゼキエル書は聖書の人々がバビロンの国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンの捕虜、奴隷として連れて行かれました。バビロンの空の下で、希望を無くしている人々に対して、神様は捕われている人の中からエゼキエルという人を預言者として立て、神様の御心を示し、約束を与えているのです。今朝の聖書は、人々が希望もなく、救いなんかないと思っている状況です。むしろ人々は「ことわざ」とか「言い伝え」を信じていました。「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」という「ことわざ」を信じているのです。ここで言う「幻」はエゼキエルの預言の言葉であるのです。苦しい歩みはいつまでも長引き、それに対してエゼキエルの預言、神様の御心だと示していますが、消え去っていくものだと言っているのです。エゼキエルの預言をむなしい言葉としているのです。それに対して神様はエゼキエルに示しています。「もはや、イスラエルの家には、むなしい幻(預言)はひとつもない。なぜなら、主なるわたしが言葉を告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する、と主は言われる」とエゼキエルは人々に示しています。
 「もはや、引き延ばされることはない」と神様の救いがすぐ近くであることを示しているのです。それなのに人々は相変わらず言うのです。「彼の見た幻(預言)は、はるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである」と言っているのです。それに対して、「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」と神様は繰り返し示すのであります。「その日、その時のために」備えをするにしても、「はるか先のこと、遠い将来のこと」としている人々は間違いであるのです。「いつか、そのうち、いずれ」は、そうなると信じつつも、決してその日が来ないと思っていることでもあるのです。諦めきっている聖書の人々に、エゼキエルは現実に神の救いが実現することを示し、神様は約束を果たされると示します。だから、備えつつ歩みなさいと示しているのです。
 聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕われの身になる前に、エレミヤという預言者は再三神様の御心を示しました。すなわち、バビロンに対してエジプトに頼り、戦いをすることより、バビロンに降伏しなさいと示したのはエレミヤでした。滅ぼされるより降伏した方が、生き残る道が開かれるからです。しかし、指導者達は人間的な策略でバビロンに対抗したのでした。結局、滅ぼされたのです。多くの人が殺されたのです。生き残った者はバビロンの捕虜として、奴隷として連れて行かれたのであります。このように御心に反した人々ですが、神様はなお救いを与えておられるのです。エゼキエルを通して、救いは「はるか先」のことでもなく、「遠い将来」でもない現実に与えられるということなのです。「もはや引き延ばされない」と神様は示しているのであります。この神様の御心を信じて生きることなのです。神様は「約束を果たされる」と信じて歩むことであります。

 日々歩んでいるうちにも、予定されていることは確実にやってきます。現役時代は手帳が真っ黒になるほど予定が書き込まれていました。そのため、娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしているので、一度は行きたいと思っていましたが、実現不可能でした。しかし、いずれは行くことになるという思いは持っていました。そのように思いつつ過ごしていた頃を思うと、そのスペイン訪問を果たしていますので、「その日、その時のために」は、今から思えばあっという間に実現してしまったのです。「その日、その時のために」と備えをしていても、その日その時は必ず来るということです。先ほどもお話しをしましたが、若いときにこちらの教会を示され、その時、いずれは横須賀上町教会に関わりなさいと言われたのではありませんが、今日の歩みの中で、その様に示されていたのであると思います。それから50年も経ていますが、今はこちらの教会に関わりつつ歩んでいるのです。神様のお約束は現実となって、その歩みをするようになるということです。大塚平安教会についても神様のお約束があったと思っています。中学生の頃から清水ヶ丘教会に出席していました。礼拝が終わるといろいろな報告がありますが、時々でありますが大塚平安教会への献金が報告されていました。その頃、大塚平安教会がどこにあるのだか分らない教会でしたが、今から思うと、それが神様のお約束であったような思いです。それから25年くらいしてから、その大塚平安教会の牧師になったのです。神様はあらかじめ約束を与えておき、それに向けて導いてくださるのです。
新約聖書ルカによる福音書12章35〜48節からの示しです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。この部分の標題は「目を覚ましている僕」として教えられています。再臨についての教えでありますが、イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活され、そして40日後には昇天されますが、イエス様が再びお出でになるという信仰です。ここではイエス様が現実にお話をしているのです。むしろ再臨信仰ではなく、現実の信仰として教えておられるのです。現実の信仰を励ましているのです。信仰は日々の生活の中で実践されていくのです。信仰のお休みはないということです。今まで一生懸命信じてきたのであるから、この辺で少し休みましょうという信仰はあり得ないということなのです。
今を生きる者として、隣人と共に生きることを教えられています。また、今を生きる者として、今をどのように生きるかを示されています。まず神様の御心をいただいて生きることを教えていました。ルカによる福音書15章には「迷子の羊」、「無くした銀貨」と「放蕩息子」のたとえ話を示されています。道をはずした人に対して、神様は悔い改めて御心に戻ることを待っておられ、あるいは探し出してくださるという教えです。現実の信仰を励ます教えであります。さらに16章の「不正な管理人のたとえ」が示されます。御心にあって今をどのように生きるか、人間関係の中で祝福の関係を持ちつつ歩みなさいとの教えです。これも現実の信仰についての示しであります。そして、19章には「徴税人ザアカイ」について示されます。いじめや排除がある中で、自分から心を開いて社会の人々と共に生きることを教えておられるのです。やはり現実の信仰を励ます教えであるのです。これらは他の福音書には記されない、ルカによる福音書のイエス様の教えであります。イエス様は私達の現実の信仰を常に励まされておられるのです。現実を神の国として生きること、そのために信仰を持って力強く生きること、そして、その信仰の歩みは永遠の生命に導かれることなのです。神様のお約束、「その日、その時のために」とは将来のことではなく、今の信仰に歩む私達を励ましておられる主イエス・キリストであります。
エゼキエル書の場合も、人々は、救いは「はるか先」のことであると思っていました。しかし、それに対して、救いは「遠い将来」でもなく、今の現実の中にこそ救いがあるのですよと教えているのです。だから神様のお心、御言葉に委ねて歩みなさいと教えているのです。ルカによる福音書も現実の信仰として、今を生きる者として、「目を覚ましていなさい」と教えているのです。

 将来、それは死んでからは天国に導かれるのですから、今は苦しくても悲しくても我慢して生きようという信仰がありますが、それは間違いです。天国、神の国は現実であるのです。今を苦しいと思っていますが、その中においても御心に生きる喜びがあるのです。苦しくても我慢をするのではなく、苦しくても御心に生きる喜びがあるのです。それが神の国を生きるということなのです。
 昔、東北の教会で牧会していた頃、召天者記念礼拝であったと思いますが、キリスト教の死生観について説教でお話しました。キリスト者は死んで彼方の国、天国に導かれるという信仰がありますが、それと共に、現実が天国であり、神の国として生きることがキリスト教の信仰であるとお話しました。イエス様の十字架の救いを与えられ、御心を示されて生きるときにも、苦しいこと、悲しいことがあります。それらを我慢して生きるというのではなく、そのような状況だからこそ御心を与えて導いておられるイエス様であるのです。だから現実は御心をいただいているのですから、神の国を歩んでいるのです。そしてこの肉体の命が終わったとき、そのまま永遠の命に導かれて行くのです。従って、現実の神の国と永遠の神の国はつながっているということです。文章に例えれば、仏教では、死は句点を打つことになります。これで終わったということです。それで旅立ちの装束でお別れするのです。しかし、キリスト教は、死は句点ではなく読み点なのです。まだ文章が続くという意味です。ちょっと読み点を打ち、その後の文章がつながっていくのです。その後の文章は永遠の生命です。今の神の国と永遠の神の国は読み点でつながっているということです。だから現実を神の国として生きることがキリスト者の信仰であるのです。
 東北の教会で、説教として神の国に生きるということのお話しをしました。このお話しを受け止めてくださった婦人がおられました。「先生は私を天国へと導いてくれました。今まで死ぬということについては、もやもやとした思いでしたが、これで確信を持って天国へ行かれます」と言われたのです。その後、大塚平安教会へ招かれましたが、その方は天に召されることになったのです。現実は神の国であるという喜びを持ちながら、そして永遠の神の国へと導かれて行ったのであります。神様は祝福してくださるというお約束を果たされたと受け止められたと思います。
 <祈祷>
聖なる御神様。この現実の歩みに御心を示してくださり感謝致します。神の国に生きる喜びを広く証させてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。