説教「新しい心があたえられる」

2017年6月18日、明治学院教会
聖霊降臨節第3主日」 

説教・「新しい心を与えられる」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル書18章25-32節
    マタイによる福音書3章1-6節
賛美・(説教前)讃美歌21・352「来たれ全能の主よ」
    (説教後)528「あなたの道を」


 本日は御教会のお招きをいただき、講壇に立たせていただくことを感謝しています。今までもいろいろな教会のお招きをいただいていますが、初めての教会では、なんとなく不安な思いで講壇に立っていました。しかし、こちらの教会は、教会としては初めてなのですが、大学の礼拝としてお招きいただいたことがありました。それから、こちらの教会を日本基督教団の神奈川教区がお借りして、教区音楽祭を開かせていただいていました。私が在任していました大塚平安教会の聖歌隊も参加しましたので、一緒に来ていますし、また神奈川教区の議長時代には、教区音楽祭でご挨拶するために来ております。
 そのような関わりがありますが、実は私の連れ合いが、以前高輪の明治学院に勤めていましたので、いつも明治学院を示されていました。私は日本聖書神学校を卒業しまして、最初の教会が青山教会でした。そこで伝道師として就任しました。そして卒業と同時に結婚しまして、高輪の明治学院のすぐ近くに住むことになりました。結婚しても連れ合いは明治学院に勤めていたのです。4年間、伝道師・副牧師を務めたとき、宮城県の陸前古川教会のお招きをいただき、牧師の資格を得ていましたので、主任牧師として就任したのでありました。
その教会は、今まで40年間、教会と幼稚園を担ってまいりました牧師が隠退されるので、新しい牧師を招聘することになったのです。ですから、今までの牧師が教会と幼稚園を担っていましたので、当然、私もそのような務めと思っていました。しかし、招聘の条件をいただいたとき、幼稚園は教会員が園長になるので、教会の務めだけで良いということでした。その連絡を受けたとき、なんか話が違うと思いまして、しばらく承諾の連絡をしませんでした。そのような中で、いろいろと示されることがありました。自分の思い通りではなく、教会がその道を選んだのであれば、こちらの考え方を変えるべきであると示されたのです。結局、教会の招聘条件を受け止めて赴任したのでした。教会としては、新しい牧師には、牧会に専念してほしいとの思いがあったのです。考えてみれば、誠にありがたいことです。ですから私は幼稚園に関わることなく、教会の務めに専念できたのでした。しかし、そうは言っても、幼稚園は送迎バスを導入することになり、私が送迎バスの運転手として務める様になるのですから、変な方向になってしまいました。それでも、直接幼稚園に関わらなくても良いのですから、楽しく教会の務めをすることになります。そして、赴任して5年になりますと、地区内の教会の招きをいただき、もう一つの教会の牧師をも務めることになったのです。しかも、その教会は幼稚園があり、園長をも務めることになったのです。自分の教会の幼稚園は、しなくても良いということでしたが、他の教会の幼稚園は、園長になっても良いですよ、ということになるのですから、複雑な思いで、二つの教会の牧師を務め、他の教会の幼稚園園長を担いつつ過ごしたのでした。結局、一年間、そのような体制で務めましたが、神奈川県綾瀬市にある大塚平安教会に招かれ、30年間、教会と幼稚園を担いつつ過ごしたのでした。今は隠退の身分ですが、私は今までの歩みの中で、いろいろな状況を与えられる時、新しい思い、新しい心があたえられたと示されているのです。自分の思いを主張することも大切ですが、新たなるお導きとして。新しい心を与えられていると示されるようになったのです。今朝も、間接的な関わりでありますが、いろいろと関係していますので、いろいろと考えさせられたのですが、「新しい心」を示され、講壇に立たせていただくことになったのです。今朝は聖書の示しをいただき、私達も「新しい心を与えられる」喜びへと導かれたいのであります。

 今朝の聖書の示しは、日本基督教団の聖書日課によるところであります。聖霊降臨節第3週は「悔い改めの使信」との主題が示されています。今年は6月4日が聖霊降臨祭、ペンテコステでありました。そして、前週の6月11日が三位一体主日であり、私達の信仰の指針が示されたのであります。すなわち「父なる神、子なるキリスト、聖霊」の神様を信じる信仰へと導かれているのであります。そのような信仰に導かれて歩んでいますが、何よりも私たちが真に悔い改めて御心に委ねて歩むことを示されているのであります。
 旧約聖書エゼキエル書18章から示されています。少しエゼキエル書の背景を示されておきましょう。聖書の国は小さい国で、周りにはエジプト、バビロン、アッシリア等、大きな国に囲まれています。そういう中でどのように生き伸びるか、指導者たちの選択が求められていました。結局、人間の力により頼もうとしていたのです。そのような時、預言者と言われる人々は、何よりも神様のお心を求め、御心に従って歩みなさいと示しています。しかし、指導者たちは神様の御心ではなく、人間の力により頼んだのでした。バビロンに対して、エジプトの国の力により頼もうとしました。結局、バビロンに滅ぼされることになります。多くの人々がバビロンに連れて行かれるのです。エゼキエルは祭司でありましたが、エゼキエルも捕われ人としてバビロンに連れて行かれるのです。そのエゼキエルが、捕われ人としてバビロンで過ごす中で、神様はエゼキエルを預言者として立てられたのでした。従って、エゼキエル書は、捕われ人と共にいるエゼキエルが、人々に神様のみ心を示しているのであります。
 バビロンに捕われている人々は、結局、自分たちが捕われているのは、先祖が悪いとしています。18章の冒頭で示しています。「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と」、エゼキエルは示しています。つまり、今我々が苦しんでいるのは、先祖が悪いからだということです。先祖が酸っぱいぶどうを食べたので、今の我々は酸っぱいぶどうのゆえに歯が痛くなっている、と言う訳です。みんな先祖が悪いのだということです。それに対してエゼキエルは、この18章において、「各人の責任」を示しているのです。それぞれの責任において、示されている十戒を守って生きること、それが求められているのです。今の状況を先祖の責任するのではなく、あなたがた一人一人が悔い改めて、神様の御心に生きることですよ、とエゼキエルは示しているのです。そのために、エゼキエルは神様の御心に生きることとして18章5節以下で示しているのです。「あなたがたは偶像を仰ぎ見てはならない。人を抑圧せず、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、不正から手を引くなら、彼こそ正しい人である」と各人の責任を示しているのです。
 この示しは主イエス・キリストの教えでもあります。マタイによる福音書25章31節以下、イエス様が「すべての民族を裁く」としてたとえ話で示されています。王様は右側の人々をほめました。それは、王様が示していることは、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われ、「それはわたしにしてくれたことである」と示しているのです。社会の中で共に生きること、それが神様のお導きであると示しているのです。
 エゼキエル書は、神様の御心に生きるために、「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造りだせ」と示しています。神様の御心は、あなたがたが新しい心をもって生きることですよ、と示しているのです。

 こうしてエゼキエルは、自分達の状況を嘆き、先祖の責任にしている人々に、自分自身に帰りなさいと示し、そして、新しい心によって歩みなさいと示しました。その示しは、新約聖書においても示されているのです。今朝の新約聖書はマタイによる福音書3章ですが、イエス様ではなく、イエス様より先に現れたバプテスマのヨハネの示しであります。
 新約聖書にはヨハネなる名前がいくつかあります。まず、イエス様のお弟子さんのヨハネさん、そしてヨハネによる福音書ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録であります。今朝の聖書に登場するのもヨハネですが、他のヨハネとは区別するために洗礼者ヨハネと記しています。バプテスマのヨハネとも称しています。ヨハネはイエス様より先に生まれ、そして先に人々に現れて、神様の御心を示したのであります。その第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でありました。その後、イエス様が現れますが、イエス様も「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われて、福音を宣べ伝えられたのであります。バプテスマのヨハネイエス・キリストも、人々が悔い改めることでありました。このヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた、ということです。当時でも、一風変わった存在でした。そのヨハネが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と宣べ伝えているのであります。そのヨハネのもとにファリサイ派サドカイ派の人々も来ています。これらの人々は当時の社会の指導的な人々でした。ヨハネはこれらの人々に言うのです。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りから免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」というのです。アブラハムは聖書の民族の最初の人です。神様の御心に忠実に従い、神様の祝福をいただい人でした。我々の先祖のアブラハムは神様の祝福をいただいたので、我々も祝福をいただいている、という短絡的な思いを持っていたのです。これはエゼキエルが示していることと同じであります。「先祖が酸いぶどうを食べたので、子孫の歯が浮いている」ということであり、「我々の父はアブラハムだ」と言っていることは同じことなのです。自分の存在を他の存在と重ねて考えることではなく、自分の存在を正しく受け止めるということなのです。

 前週は教会歴ではありませんが、教会では「こどもの日・花の日」ということで礼拝をささげました。私は毎月第二日曜日に横浜本牧教会の礼拝にて講壇に立たせていただいています。横浜本牧教会でも「こどもの日・花の日」の礼拝で、教会学校との合同礼拝でした。子ども達との合同礼拝でしたので、私自身が教会学校に出席しつつ成長したことをお話したのでした。今朝も皆さんに私の証をさせていただくことにしました。
 実は、私も教会学校に出席しながら成長したのです。私は今、78歳ですが、教会学校に出席したのは小学校3年生のときでした。10歳頃かと思います。そうすると約70年間、教会に出席しながら過ごしてきたのです。今までの自分を振り返って、その教会と共に過ごしてきたことが、「新しい心を与えられる」日々を導かれてきたと示されています。私が教会学校に行き始めることをお話しておきましょう。私が小学校3年生の時、私の母は病院で入院していたのです。その頃は、少し前まで、日本の国は戦争をしていたのです。広島と長崎に原子爆弾が落とされ、もう戦争できません、負けましたということで戦争が終わりました。戦争に負けて3年くらいたっていました。戦争で苦しい生活をしていたので、私の母はついに病気になってしまったのです。入院生活をしていましたが、ある日のこと、ぜんぜん知らない子どもたちが病室にやってきました。そして、お花を贈ってくれました。「早く良くなってください」という言葉があったと思います。ぜんぜん知らない他所の子どもさんからお見舞いされた母は本当に喜んだのです。実は、その日が6月の第二日曜日、「こどもの日・花の日」であったのです。近くの教会の教会学校の子どもたちがお見舞いしてくれたのでした。その後、しばらく入院していましたが、良くなって退院しました。退院した母は、日曜日になると、自分をお見舞いしてくれた教会学校に、小学校3年生であった私を連れて出席したのでした。そして、教会学校の先生に、花の日のお見舞いのお礼を述べ、これからはこの子が出席しますので、よろしくお願いします、と言っているのです。その時、私はびっくりしたのではないかと思います。教会学校のことなんか知りませんでした。母に連れられて出席したのですが、これからも出席すると言っているのです。そして、その後は、日曜日になると、母は教会学校に行くようにと送り出していたのです。母は、自分は教会に出席するのではなく、自分の子どもを教会学校に出席させたのでした。その母の気持ちは、その後、私が大きくなって思うようになったのですが、自分の子どもも、皆さんから喜ばれる人になってほしい、そういう願いがあったと思うようになりました。日曜日になると、「さあ、教会学校だよ」と行って送り出してくれた母ですから、4年生、5年生、6年生は毎年のように精勤賞をいただいていました。
 この様に教会学校に通い続けたのですが、中学生になってからは大人の礼拝に出席するようになりました。そして、今になるまで、教会に出席しながら過ごしてきたのです。いつも母の思い、母のお祈りでありますが、「人々に喜んでもらう人になる」ことが示されています。人々に喜んでもらうためには、いつもイエス様のお心をいただかなければならないのです。繰り返しイエス様の教えをいただいています。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と示されたとき、いろいろな人間関係があるのですが、「新しい心を与えられる」時なのです。また、祈りが導かれるのです。隣人を愛する、と言っても、「はい、わかりました」と言う訳にはいかない自分があるのです。祈ることにより、イエス様の御心へと導かれるのです。
 私達は、今日も教会に導かれています。今日もイエス様の御心をいただきました。礼拝をささげる私達は「新しい心を与えられる」歩みが導かれているのです。一週間、喜びつつ歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様のお導きをありがとうございます。イエス様のお心をいただき、日々、新しい歩みをさせてください。イエス様のみ名によりおささげします。アーメン。