説教「きょうはうれしい、あしたもうれしい」

2017年6月11日、横浜本牧教会
聖霊降臨節第2主日」 三位一体主日  教会学校との合同礼拝

説教・「きょうはうれしい、あしたもうれしい」、鈴木伸治牧師
聖書・マタイによる福音書11章25-30節
賛美・(説教前)讃美歌21・57「ガリラヤの風かおる丘で」
    (説教後)507「主に従うことは」


 今日は、教会学校の皆さんと合同礼拝です。いつもは教会学校だけで礼拝をささげています。大人の皆さんも、大人の皆さんだけで礼拝をささげています。しかし、今日は一緒に礼拝をしましょう、ということで合同礼拝になりました。それは、今日は、どこの教会も合同礼拝をささげている教会が多いのです。教会は6月の第二日曜日は「こどもの日・花の日」として定めており、子どもたちがイエス様のお心により、皆さんに喜ばれる人になってほしいという願いがあるからです。「こどもの日」というと、5月5日だと思います。5月の「こどもの日」は国が定めていることですが、6月の「こどもの日」は教会が定めているのですが、「こどもの日・花の日」であるのです。お花を示されながら、神様はこのようにきれいなお花を咲かせてくださり、それと同じように神様は私達にお恵みをくださっていることを示されるのです。教会の「こどもの日」はお花のお恵みを示され、私達のお恵みを知るときなのです。教会学校に出席している皆さんは、今も皆さんから喜ばれていますが、これからの成長でも、きっと多くの人々から喜ばれる人になると思っています。従って、「こどもの日」が消えつつあり、「花の日礼拝」だけが残りつつあるようです。早苗幼稚園も、「花の日礼拝」をささげ、その後は、いつもお世話になっているお医者さんにお花を差し上げています。教会や幼稚園によっては、交番、消防署、お医者さんにお花を差し上げるところもあります。
 実は、私も教会学校に出席しながら成長したのです。私は今、78歳ですが、教会学校に出席したのは小学校3年生のときでした。10歳頃かと思います。そうすると68年間、教会に出席しながら過ごしてきたのです。今までの自分を振り返って、その教会と共に過ごしてきたことが、今日のお話の題「きょうはうれしい、あしたもうれしい」ということなのです。私が教会学校に生き始めることをお話しておきましょう。私が小学校3年生の時、私の母は病院で入院していたのです。その頃は、少し前まで、日本の国は戦争をしていたのです。広島と長崎に原子爆弾が落とされ、もう戦争できません、負けましたということで戦争が終わりました。戦争が負けて3年くらいたっていました。戦争で苦しい生活をしていたので、私の母はついに病気になってしまったのです。入院生活をしていましたが、ある日のこと、ぜんぜん知らない子どもたちが病室にやってきました。そして、お花を贈ってくれました。「早く良くなってください」という言葉があったと思います。ぜんぜん知らない他所の子どもさんからお見舞いされた母は本当に喜んだのです。実は、その日が6月の第二日曜日、「こどもの日・花の日」であったのです。近くの教会の教会学校の子どもたちがお見舞いしてくれたのでした。その後、しばらく入院していましたが、良くなって退院しました。退院した母は、日曜日になると、自分をお見舞いしてくれた教会学校に、小学校3年生であった私を連れて出席したのでした。そして、教会学校の先生に、花の日のお見舞いのお礼を述べ、これからはこの子が出席しますので、よろしくお願いします、と言っているのです。その時、私はびっくりしたのではないかと思います。教会学校のことなんか知りませんでした。母に連れられて出席したのですが、これからも出席すると言っているのです。そして、その後は、日曜日になると、母は教会学校に行くようにと送り出していたのです。母は、自分は教会に出席するのではなく、自分の子どもを教会学校に出席させたのでした。その母の気持ちは、その後、私が大きくなって思うようになったのですが、自分の子どもも、皆さんから喜ばれる人になってほしい、そういう願いがあったと思うようになりました。日曜日になると、「さあ、教会学校だよ」と行って送り出してくれた母ですから、4年生、5年生、6年生は毎年のように精勤賞をいただいていました。
 この様に教会学校に通い続けたのですが、中学生になってからは大人の礼拝に出席するようになりました。そして、今になるまで、教会に出席しながら過ごしてきたのです。いつも母の思い、母のお祈りでありますが、「人々に喜んでもらう人になる」ことが示されています。人々に喜んでもらうためには、いつもイエス様のお心をいただかなければならないのです。ですから、70歳で今まで30年間務めた教会を退任したのですが、イエス様のお心をいただくためにも、私達夫婦で礼拝をささげるようになりました。礼拝をささげることで、「きょうはうれしい」日であり、「あしたもうれしい」日となるのです。

 少し聖書の人達を示されておきましょう。神様のお心に従った人たちです。最初にアブラハムさんです。アブラハムさんは、神様の声を聞きました。今まで住んでいたところから、神様の導くところに行きなさいということです。アブラハムさんは、神様の言うとおりに従います。そして、いつも礼拝をささげながら過ごしていたのです。でも、アブラハムさんはいつも不平を神様に言ったりします。不平不満を言いつつも、いつも神様のお心をいただいて過ごしていたのです。そういう姿が神様に祝福されて、人々から喜ばれる人になりました。礼拝をささげ、「きょうはうれしい、あしたもうれしい」、そういう毎日を過ごしていたからです。それからモーセさんという人も、人々に喜ばれた人です。神様に言われて、苦しんでいる人たちを助けたのです。それにはモーセさんもいろいろな苦しみがありましたが、いつも神様のお心をいただいていましたから、苦しいことがあっても、「きょうはうれしい、あしたもうれしい」、そういう姿が人々の喜びとなったのでした。聖書の中では、ダビデさんも示されておきましょう。「こどもさんびか」48番は、このダビデさんを歌っています。ダビデさんは、まだ小さい頃でしたが、その国の王様になることを告げられるのです。しかし、実際にはサウル王様がいます。ダビデさんは王様に仕えるようになり、竪琴を弾いては王様に喜ばれていました。しかし、ダビデさんは人々からも喜ばれるようになっていたのです。それでサウル王様は、ダビデさんを嫌いになりました。ですからダビデさんは王様から離れて過ごすようになるのです。そのような苦しい生活をしながら、ダビデさんはいつも礼拝をささげながら過ごしていたのです。礼拝をささげることによって、「きょうはうれしい、あしたもうれしい」日になったのでした。そして、ついに王様になったのでした。聖書に出てくる人々は、いつも礼拝をささげ、神様のお心をいただいて過ごしていましたので、今は苦しくても、悲しくても、いつも「うれしい」日を過ごすことができたのです。
 今までお話をしたのは旧約聖書に出てくる人々ですが、新約聖書の人々も示されておきましょう。いろいろな人々がいますが、パウロさんを示されておきましょう。パウロさんは、最初はイエス様を嫌っていました。だからイエス様を信じる人をいじめていたのです。そのパウロさんが復活されたイエス様とお会いします。すると、今度は熱心にイエス様のお心をいただくようになり、今度はパウロさんが人々から嫌われたりしますが、パウロさんの熱心にイエス様のお心に従う姿により、人々が喜ぶようになったのです。そのパウロさんがこのように言っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5章16-18節)と言っています。そうすれば、「きょうはうれしい、あしたもうれしい」日となるのです。

 聖書の人々を見ましたが、何よりもイエス様から教えられるのです。今日の聖書はマタイによる福音書11章の言葉です。イエス様は言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」ということです。「疲れる」ことは、いろいろとあります。一生懸命に動いて、身体が疲れてしまうことがあります。遊び疲れ、スポーツの運動疲れ、いろいろな疲れがありますが、イエス様は休ませてあげると言うのです。「疲れる」ことでは、「心の疲れ」ということもあります。お友達とすごしているうちにも、その友達の言葉やしていることで疲れてしまうことがあります。イエス様は休ませてあげると言われるのです。「重荷を負う」ということも、重い荷物を持つことも疲れることですが、それと共に私達のいろいろな苦しみも重荷であるのです。苦しみを持ちながら過ごしている人もあります。イエス様は休ませてあげると言われています。嬉しいことです。だから教会学校に行きます。イエス様のうれしいお話しが聞けるのです。お友達と楽しく過ごすことで、心が休まる思いです。そのように思いながら教会学校に出席するのですが、イエス様の教えをいただきます。「あなたがたは、自分を愛するように、あなたの友だちを自分のように愛しなさい」ということです。友達を愛するということですが、あの子も、この子もとなると、考えてしまうのです。この間、あの子は私のことを変な風に言っていた。だから、あの子は嫌い」と思っているのです。あの子を愛しなさい、イエス様はそんなことを言っているのです。「嫌だ」と思います。でも、もし、イエス様の言う通り、あの子と話すことができたら、今まで心につかえていたことが無くなるのです。あの子と話すことができた、なんか、すっとするのです。イエス様は「休ませてあげる」と言った後で、「わたしの軛を負いなさい」と言っています。「軛」というのは、牛や馬の首に荷車を引く木をつけるのです。軛を持つということは、イエス様のお心を持つということです。イエス様のお心は、お友達を愛するということなのです。嫌いな友達とお話をすること、つらいことですが、それによって、心につかえていたことが無くなるのです。そこにイエス様のお休みがあるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とイエス様は言われています。お友達を見つめるということは、嫌なこともありますが、イエス様のお休みがあたえられるのです。安心があたえられます。喜びがあたえられます。だから、「きょうはうれしい、あしたもうれしい」日となるのです。

 昔のことですが、一人の少年の姿が示されます。この少年も「きょうはうれしい、あしたもうれしい」日を過ごすようになったのです。少年と言っていますが、幼稚園の男の子でした。「たけし君」と言っておきましょう。たけし君は交通事故にあい、足を折ってしまい、病院に入院していました。傷みが続きますし、病院に入院していることも、お父さんやお母さんから離れてしまっているので、寂しくてしょうがありません。それで、いつもベッドでしくしくと泣いていました。時には大きな声で泣くので、入院している人々も「かわいそうだねえ」と言っていたのです。たけし君は、毎日泣いて過ごしているうちにも、ふと幼稚園の先生が言われていたことを思い出しました。また先生は、いつもお祈りしていたことを思い出しました。幼稚園の先生は始まる時お祈りをします。「今日は○○ちゃんが病気で休んでいます。イエス様がそばにいて、痛くないようにしてください」とお祈りしていたのです。そのお祈りを思いだし、たけし君もお祈りを始めたのです。それも大きな声でお祈りしていました。病院で入院している人たちは、お祈りしているたけし君をほほえましく思っていました。たけし君がお祈りするようになってから、たけし君の泣き声が聞こえなくなったのです。一生懸命にお祈りして、頑張っているたけし君を示されるようになったのです。ある時、入院している一人のおばあさんが、「たけし君はお祈りして、元気になってきたね。良かったね。私のためにもお祈りしてちょうだい」とお願いしたのです。たけし君は、「いいよ」と言い、「このおばあちゃんが良くなりますように、イエス様お願いします」とお祈りしてあげたのです。そのおばあさんは、たけし君にお祈りしてもらったら、体が軽くなったと喜びながら、入院している皆さんにお話しするのでした。そしたら、つぎつぎに入院している皆さんが、たけし君にお祈りをしてもらいに来るようになったのです。たけし君はいろいろな人のためにお祈りしてあげるようになりました。  
そのような時、一人のおばあさんが、お祈りしてちょうだいと言ってやってきました。実は、たけし君はそのおばあさんのことをよく思っていませんでした。他の人は、たけし君に声をかけてくれるのに、そのおばあさんは何も話しません。たけし君と会っても何も言わないのです。だから、たけし君はそのおばあさんから「お祈りしてちょうだい」と言われても、黙って他所を見ていました。そのおばあさんは、たけし君がお祈りしてくれなかったので、なんか具合が悪くなったようで、ベッドで寝たきりになってしまいました。そうすると病室の人たちが心配して、たけし君にお願いに来るのです。「たけし君、あのおばあちゃんのためにもお祈りしてやって」と、次々に言われるのでした。たけし君は、みんながお願いに来るので、気が進まなかったのですが、そのおばあさんのところに行ってお祈りしてあげたのです。そうしたら、そのおばあさんは元気になって、たけし君にお菓子等たくさん持ってきてくれたのです。
 その時、たけし君は知るのです。自分の好きな人のためばかりではなく、嫌いでもお祈りしてあげるということ、大事なことを知る様になりました。どんな人でもお祈りしてあげる、なんか「今日はうれしい」日となり、「明日もうれしい」日であることを知る様になるのです。たけし君は、いつの間にかイエス様のお心を行っていたのです。
 私達も、イエス様のお心である、「どんなお友達も心にとめる」こと、そういうイエス様のお心をもって過ごしましょう。「きょうはうれしい、あしたもうれしい」日となるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様は言われています。

<祈祷>
聖なる御神様。イエス様のお導きをありがとうございます。イエス様のお心をいただき、毎日がうれしい日にしてください。イエス様のみ名によりおささげします。アーメン。