説教「喜びの使者に導かれる」

2021年1月17日、六浦谷間の集会

降誕節第4主日

                       

説教・「喜びの使者に導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・エゼキエル書2章1節-10節

   ヨハネの黙示録10章8-11節

   マタイによる4章18-25節

賛美・(説教前)讃美歌21・280「馬槽のなかに」

   (説教後)讃美歌21・463「わが行くみち」

 

 新しい年が始まり、すでに三回目の礼拝をささげています。しかし、新しい年が始まりましたが、新型コロナウィルス感染予防が続いており、今は第三波ともいわれ、各地で非常事態宣言が発出されています。当初は関東一都三県でしたが、関西も東海も、そして九州も緊急事態宣言が発出されたり、発出を要望されたりしている現状です。そのような中で教会は、礼拝をおこなうか、休むかの判断を迫られています。もうすでにオンラインで礼拝をささげているところもあります。しかし、礼拝は皆さんが一堂に会して、心を合わせて讃美歌を歌い、み言葉を示されることが礼拝なのであり、それができないことの寂しさがあります。教会の牧師も、み言葉をどのように伝えるか、課題を示されつつ取り組んでいるのです。コロナウィルス感染予防から、いろいろと新しい取り組みが課題となっています。み言葉をどのように示すのか、私たちの課題でもあります。多くの教会がオンライン礼拝をおこなっていますが、私達の六浦谷間の集会も、バルセロナにおります娘と共にオンラインで礼拝をささげているのです。礼拝が閉ざされているので、み言葉が示されないのではなく、私たちが新しい取り組みでみ言葉を示されたいのであります。「喜びの使者に導かれる」新しい取り組みをしたいということです。

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 今朝のテーマは「最初の弟子達」でありますが、「御心の働き人になる」として示されています。弟子になった人々を示されながら、私たちも弟子としての歩みを導かれたいのであります。旧約聖書はエゼキエルの召命について記されています。召命とは「命が召される」との意味であり、神様のお心に導かれて生きることであります。エゼキエルの召命については1章1節以下に記されています。「第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔にすんでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した」と証ししています。つまりエゼキエル自身もバビロンに捕われの身であったということであります。捕われの状況の中で神様の召命があり、預言者として働くようになったのであります。今朝の2章1節以下に具体的にエゼキエルの召命の内容が記されています。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」と言われます。もはや捕われの身であることから抜け出しなさいということであります。「自分の足で立ちなさい」と励まされます。人がどのように言っている、このように言っているということではなく、まず自分自身がしっかりと今の状況の中に立つということなのであります。そして、そのエゼキエルに神様は示します。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖達と同様わたしに背いて、今日この日に至っている」と言われるのであります。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに生きなければならなくなったのは、結局神様のお心に従わなかったからであります。その姿をはっきり示し、神様の御心に帰りなさいと示したのはエレミヤでありました。しかし、人々はエレミヤの言葉に従わず、自分達の思いを通したのであります。その結果がバビロンに滅ぼされるということでありました。

 反逆の人々に言いなさいと神様はエゼキエルに言います。「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」ということです。彼らが聞こうが聞くまいが語り続けなさいと示しているのであります。「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍(さそり)の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」と示しているのです。とにかく、相手がどのような姿勢を持とうとも語り続けること、それがあなたの使命であると示しているのであります。そして、語り続けるために、エゼキエルに力の基を与えるのであります。「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」と言われ、巻物が差し出されているのであります。その巻物には表も裏も文字が書き記されています。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であったといわれます。それは人々の悲しみと苦しみの声であり、それに対する御言葉の力でありました。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と言われます。「巻物を食べる」とは神様のお心をいただくということであります。神様のお心を食べることにより、力が与えられるのであります。

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 新約聖書は主イエス・キリストの最初の弟子たちについて記しています。イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ペトロとアンデレが湖で漁をしているのを見られます。その彼らに声をかけました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われるのです。彼らは魚をとる漁師ですが、人間をとる漁師にするというのです。彼らはその意味がわかってイエス様に従ったのか、定かではありません。しかし、イエス様は4章17節で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたとき、その時から人々の注目するところとなっていたでありましよう。従って、ペトロとアンデレが声をかけられたとき、イエス様の存在については知っていたと思われるのであります。この人が我々を弟子にしてくれるとの思いでイエス様に従ったのでありましよう。この後、イエス様はヤコブヨハネの兄弟にも声をかけて弟子に招いたのであります。最初のイエス様のお弟子さんは4人の漁師であったということであります。人間をとる漁師としての弟子への召命であったのです。

 この後、イエス様はマタイを弟子にしています。9章に記されていますが、声をかけられてイエス様の弟子になった人たちを紹介するのは、この5人であります。そして、10章には12人の弟子の名簿が記されています。最初の5人の姿は分かりますが、後の7人については良く分からないお弟子さん達であります。イエス様の弟子に選ばれるということ、それはお弟子さん達自身が優れているとか、特別な賜物があったからとか、力があるとかで弟子に選ばれたのではありません。何でこれらの人たちが選ばれたのか、分かりません。しかし、これは主イエス・キリストの召命でありました。イエス様がそれぞれの人を招き、お弟子さんへと導かれたのであります。従って、彼らはお弟子さんに導かれながらも、極めて人間的な思いで従っていたのであります。そのお弟子さん達をイエス様は忍耐をもって導き、指導し、弟子としての歩みを教えられたのでありました。

 イエス様のお弟子さんたちは、イエス様のお心において選ばれたと示されました。そうすると、イエス様のお選びがないと弟子になれないのかと思います。イエス様のお弟子さんたちは、もちろん選ばれた皆さんですが、選ばれた者として、やはりイエス様を見つめ、教えられながら従ったのですから、自分の努力があったのです。選ばれるために努力することも私たちの務めなのです。

私は日本聖書神学校で学びました。ある先輩の証しです。その方は、神学校の試験に臨むために、地方に住んでいたのですが、いよいよ上京のおり、教会の皆さんが盛大に送別会を開いてくれたということです。試験を受けに行くのですが、合格すれば、そのまま寮生活になるのですから、教会の皆さんは祈りつつ送り出してくれたというのでした。ところが試験は不合格でした。その先輩は、盛大な見送りを受け、試験に落ちたからと言って、このまま帰れないのです。それで、神学校の校長先生の家に行き、自分の事情を話しました。もう帰れないので、神学校が救ってください、とお願いしたそうです。校長先生はその熱意を受け止め、合格にしてくださったというのです。その先輩は、そのような証しをしながらも、「しがみついて伝道者になる」ことを後輩たちに話し、励ましてくれたのです。このようなお弟子さんものいるのです。「御心の働き人になる」こと、イエス様のお選びもありますが、私たち自身が御心に「しがみつく」ことなのであります。

  私たちが「しがみついて」も御言葉の働き人になるのは、イエス様の十字架の救いをいただいているからです。この十字架こそ、イエス様が私の生まれながらの姿、自己満足と他者排除の姿を滅ぼされたということを、十字架によって示されています。私たちの生きる根源は十字架の主イエス・キリストなのです。だからこの喜びを皆さんに教えてあげたいのです。その十字架のイエス様から示されるために、礼拝をささげ、神様のお心をいただくのです。私たちも「喜びの使者として」導かれているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。御心の働き人へと導いてくださり感謝いたします。み言葉を喜び、伝えさせてください。キリストのみ名によって、アーメン。

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