説教「信仰の果実」

2015年8月16日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第13主日

説教・「信仰の果実」、鈴木伸治牧師
聖書・アモス書5章21-27節
    ヤコブの手紙1章19-27節
    ルカによる福音書13章1-9節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・240「とざせる門を」
    (説教後)讃美歌54年版・270「信仰こそ旅路を」


 昨日は8月15日、日本の敗戦記念日であります。太平洋戦争は1941年12月8日、日本がアメリカの真珠湾攻撃を持って始まったとされます。そして1945年9月2日、日本の降伏文書調印によって戦争が終わったのでありました。8月15日を日本は終戦記念日としていますが、この日に昭和天皇が、いわゆる玉音放送で国民に対して戦争の敗戦を述べたからです。実際に戦争が終わるのは、9月2日の降伏文書に調印した日であるのです。8月15日になると敗戦記念日として迎えていますが、世界的に見ても戦争が行われています。戦争が行われていなくても、自国の軍事力を誇示しているような状況であります。いつ戦争が起きるかもしれないのです。そういう中で、日本の国も集団的自衛権ということで、他の国からの戦争に備えようとしています。それについてはいろいろな考え方がありますので、それぞれの判断に委ねたいと思います。
戦後70年でありますが、真に戦争の恐ろしさを知る人が少なくなっています。その意味でも、新聞にしてもテレビにしても、戦争の悲劇を報じています。私自身は1945年に戦争が終わり、翌年の4月に小学校1年生になりました。戦後70年と言われていますが、現在76歳ですから、8月15日は6歳でありました。戦争中を生きた者ですが、戦争の体験はありません。今住んでいる家で戦争中を過ごしていますが、空の上をアメリカの爆撃飛行機が横浜、東京方面に飛んでいく様子、そして横浜方面の空が赤くなっていたことが思い出されます。空襲警報がなるたびに、家のすぐそばに掘られた防空壕に避難していました。この六浦の家に住むようになるのは4歳からでした。それまでは横須賀市浦郷と言う場所に生まれ、生活していたのです。しかし、そこは日本軍の追浜飛行場の近くであり、危険であるからと強制転居させられたのでした。日本の国は子供たちを守る意味で、学童疎開を実施しました。3歳年上の兄は姉と共に神奈川県の松田の地に学童疎開していました。敗戦と共に帰ってきた訳ですが、栄養失調であり、麻疹、肺炎を患い死んで行ったのです。小学校4年生でありました。
 痛ましい戦争の経験は、強制転居であり、兄を失ったことであり、この六浦の地区は戦争の被害はなかったのです。しかし、都会における戦争の爪あと、また敗戦後の食糧事情の悪化など、やはり戦争の苦しさ、悲しさを経験しているのです。その意味でも8月15日は私にとっても大切な意味があります。しかし、戦争を知らない人々が多くなっている今、8・15よりも2011年3月11日の大地震、大津波放射能被害が重くのしかかっているのです。戦争よりも、今は自然災害の恐ろしさを体験させられています。今の日本の国は自然災害による苦難のさなかを生きているということになります。被災地の人々は愛する者を失い、家を失い、思いもかけなかった環境で生活しなければならない状況です。福島原発の事故が、震災の恐ろしさをいつまでも引きずっているのです。頼りにしていた原子力発電が、一変して死の恐怖をもたらすようになっています。
 この時、私達は聖書が示す導きを与えられ、苦難に生きる信仰を与えられ、希望を持って歩みたいのであります。

「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と預言者アモスは神様の御心を示しています。旧約聖書アモス書5章21節からですが、「祭りにまさる正義」について教えています。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りを喜ばない」とは神様の御心でした。アモスは紀元前8世紀の預言者であり、生まれはユダの国テコアで農民でありました。そのアモスが御心を示され、北イスラエルの国に行き、当時の宗教的、社会的堕落を厳しく攻撃し、神様の正義に立ち帰るよう諭したのであります。
 祭りを好むのは人間の素朴な姿です。日本でも7月は各地域のお祭りがあり、8月になると大きなお祭りが各地で開催されています。祭りは神社が中心なのですが、むしろ宗教的には考えないで、みんなで楽しく行事に参加することなのです。昔、綾瀬に住んでいる頃、町内会の回覧板に、この町には神輿が無いから導入したいという内容でした。それについての意見を求めていましたので、有志が導入するのであれば意義はないが、町内会として導入するのは反対です、と意見を述べたのでした。しかし、今でしたら反対しなかったかもしれません。神社のお祭りを賛成している訳ではありませんが、みんなが心を一つにして、祭りを楽しむのであれば、それはそれで良いと思うようになりました。娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますので、現役の牧師を隠退してから三度も訪問しています。一ヵ月半、二ヶ月、三ヶ月とバルセロナで生活していますと、結構いろいろなお祭りを経験しました。スペインはキリスト教カトリックの国ですから、お祭りも結局はカトリックの信仰が基となっているのです。そのお祭りには、大勢の人でにぎわいます。昨年10月21日から今年の1月7日までバルセロナで過ごしましたのは、1月6日の顕現祭を体験したいからでした。顕現祭はもう一つのクリスマスということになりますが、クリスマスより顕現祭の方が賑やかであり、お祭りも最高になるのでした。本当はその模様を実際に見たかったのですが、大勢の人で危険であるからと羊子に止められ、家でテレビを見てお祭り騒ぎを見たのでした。このお祭りにより、みんなが喜びを共にし、平和を願いつつ歩んでいるのです。そんな経験をしたものですから、日本のお祭りも、たとえ神社が根源であっても反対しないことにしているのです。
 しかし、今朝の聖書から示されなければなりません。お祭りを楽しむことは聖書の世界でもありました。その時には、穀物、動物の献げ物があり、祭壇では犠牲の動物を焼き殺すのです。聖書の世界には、礼拝として播祭というものがあります。動物を焼き殺すのですが、焼肉の香ばしい匂いを神様に献げるというものです。また、酬恩祭があります。この礼拝は「和解の献げ物」をするのですが、献げ物により神様と和解するということになるのです。御心に従うということです。この時は焼き肉をそこで食べ、和解に与るのです。もう一つは罪祭があります。これも動物犠牲ですが、この動物は罪を犯した自分として、自分の身代わりとして焼き殺すということなのです。このような祭りは、人々は喜び、好んでしていました。しかし、祭りより、神様が求めておられるのは、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」ということなのであります。祭りではなく、日々の歩みにおける御言葉の実践こそ大切なことであると示しています。悪いことをしたら、自分の代わりに動物を犠牲にすれば許されると言うわけです。また、神様に喜んでもらうために動物を焼き殺す訳です。そうすると、動物がいくらいても足りません。人間の悪は際限なく繰り返されるのです。動物が足りなくなるわけです。大切なことは、神様の御心にあって正しい歩みをすることなのです。神様の御心は、最終的には人間の罪の身代わりに、その度に動物をささげるのではなく、神の御子の十字架の贖いにより、人間が正しく導かれることになるのです。
 先ほども触れましたが、お祭り騒ぎは日本ばかりではなく、世界の人々がお祭りをしては喜んでいます。お祭りであるから、何か宗教的なことなのかと思うのですが、どうも宗教的なものとは関係ないようで、みんなで楽しんでいたのでした。一つのお祭りということです。このように、人々が喜びあうことは必要なことですが、旧約聖書は、毎日の生活で神様の御心を実践しつつ歩むことの大切さを示しているのです。

新約聖書ルカによる福音書13章1節から9節が今朝の示しですが、二つの標題で示されていますが、一つのことを示しているのです。1節以下は、「悔い改める」ことの勧めです。6節以下も内容は同じです。「実のならないいちじくの木」のたとえとしています。いちじくの木が3年も実を結ばないということで、持ち主の主人が切り倒すように言うのですが、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」とお願いするのでした。このたとえ話は、神様が忍耐して私達の御言葉の実践をお待ちになっていることを示されます。そのために主イエス・キリストのお導きがあるということです。ぶどう園にいちじくの木を植えるということ、これは聖書の世界では良くあるということです。土地が空いていれば、ぶどう園であろうと、他の木を植えるということは、普通のことで特別な意味が無いのです。しかし、ぶどう園にいちじくの木を植えるということは、異なる存在を育てようとしていることとして示されるのです。つまり、ぶどう園は本来の聖書の人々ですが、いちじくの木は外国人、異邦人ではないかと思われます。外国人が神様の御心に養われるには、時間がかかります。それに対して園丁が肥料を施し、面倒を見てくれるのです。実のなるように手を加えてくださるということです。主イエス・キリストのすべての人々への福音を示していると思われるのです。従って、私たちが「いちじくの木」であるということです。なかなか実がならないいちじくの木に、変わらずに導きを与えてくださるイエス様として示されるのであります。
今日はお休みなので、御言葉の実践は明日にしましょうというのではなく、今実践することです。御言葉の実践は、何の制約もないということなのです。

 神様の御言葉を実践することの教えは、新約聖書ヤコブ書は強く示しています。今朝の聖書も「神の言葉を聞いて実践する」との標題で示しています。22節、「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまうのです」と記していますが、面白いたとえを示していると思います。まさに
その通りで、私達は自分の顔をはっきりと覚えられないのです。鏡を見ているときだけは自分の顔を見るのですが、鏡から離れると自分の顔を思い出せないのです。御言葉を示されているときは、頷き、はい分かりましたという訳ですが、現実の生活に戻るとすぐに忘れてしまうのです。
 間違っていると知りながらも、ついその道を歩んでしまうこと、私達も悔い改めなければならないのです。大塚平安教会在任時代、八王子医療刑務所教誨師を担っていました。教誨と言うのは、刑務所に服役している人が、宗教により更生を導かれるのです。教誨活動を始めたのは、日本では仏教のお坊さんたちでした。従って、教誨師の活動はお坊さんが中心の様です。教誨師の本部の長はお坊さんでもあるのです。八王子医療刑務所は10人の教誨師がいましたが、7人までがお坊さんでした。他は神道宮司さん、カトリック教会の神父さん、そしてプロテスタントの牧師でありました。刑務所に服役している人は、自分の希望する教誨を受けるのです。中には仏教、キリスト教神道教誨全部を受ける人もいました。教誨は最初の30分は聖書を一緒に読み、お話しをします。そして讃美歌を歌います。その後、30分は質問を受けたり、いろいろと懇談します。ある時、こんなお話しがありました。その受刑者は、刑務所はこれで二度目だと言うのです。麻薬がやめられなく、そのため薬を得るために悪いことをして捕まり、刑務所に入りました。そして、何年かの後、刑を終えて社会復帰したのですが、絶対に麻薬には手を出さないとの固い決心をしていたのですが、自分に負けてしまい、再び麻薬の生活になったということです。麻薬を手に入れるには、何とかお金が必要です。そのため、再び悪いことに手を出したと言うのです。麻薬には二度と手を出さないと誓いながらも、結局は自分の思いに負けてしまう、情けない自分です、つくづく言われたのでした。キリスト教は、情けない自分を主イエス・キリストが十字架にお架りになって、滅ぼしてくれたという信仰を持っています、とお話しをしました。自分のために死んでくださったイエス様に励まされていると示したのです。そのお話しを聞いて、社会復帰したと思いますが、イエス様の信仰に励まされて歩んでもらいたいと思っています。「分っているけれどやめられない」という歌をうたう人がいましたが、人間の弱い姿を歌っていたようです。
刑務所の教誨師と共に、少年院の篤志面接委員もしていました。やはり服役している少年たちと社会復帰のためにお話しをするのです。少年たちも、少年院は二度目だという例もありました。更生して社会に復帰しますが、再び同じことを繰り返してしまうということです。刑務所や少年院の仕事をする前は保護司をしていました。刑務所や少年院から出所した人たちが、生活を保護司に報告しつつ歩むのです。この人たちも、元の姿に戻りそうな自分を見つめつつ歩むのでした。自分の中に土台、あるいは柱がないからなのです。土台とか柱が信仰というものです。自分の中心はイエス・キリストを信じる信仰なのです。その時、その信仰の果実が生まれてくるのです。もはや昔の自分ではないのです。新しい自分、自分の中に据えられている土台、信仰により祝福の人生へと導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。変わらずに御手を差し伸べて導きくださり感謝します。御言葉を実践しつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。