説教「神様のお言葉の実現」

2019年10月27日、六浦谷間の集会
「降誕前第9主日

説教・「神様のお言葉の実現」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記1章1~5節

   コロサイの信徒への手紙1章15~20節
   ヨハネによる福音書1章1~5節
賛美・(説教前)讃美歌21・425「こすずめも、くじらも」

   (説教後)讃美歌21・223「造られたものは」


 教会の暦は、今年は6月9日がペンテコステ聖霊降臨祭でした。その日から聖霊降臨節として歩み、前週の10月20日聖霊降臨節第20主日をもって終わりました。そして、今日からは降誕前主日としての歩みが始まります。すなわち今までは聖霊のお導きをいただきながら信仰の歩み、証の生活をしていましたが、これからは主イエス・キリストが世に現れることを心にいただきつつ歩むのであります。12月1日の降誕前第4主日からは、本格的に待降節として歩むことになります。
 主イエス・キリストがこの世に現れるのは、世の人々を十字架の贖いによってお救いになることであります。十字架の救いは私達を新しい人間に造り変えてくださるのです。人間は生まれたままの姿は、極めて自己中心的であり、他者排除の姿をもっています。絶えず自分の思いに振り回されながら生きることになるのです。しかし、十字架の贖いをいただくことにより、自分を超えた、神様の御心をいただいて生きることになるのです。主イエス・キリストが教えてくださった「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との生き方へと導かれるのであります。
 社会の人々はキリスト教と言えば、クリスマスと結びつけて考えます。もっとも、クリスマスになってもイエス様がお生まれになったということよりも、みんなで楽しく過ごすことを考えます。クリスマスの飾り物、ツリー、プレゼント、ケーキ、クリスマス会、サンタクロースと言うように、イエス様が登場しなくてもクリスマスなのです。幼稚園に入園した子供たちに、「クリスマスって何の日でしょう」と聞きますと、「ケーキの日」、「プレゼントがもらえる日」、「サンタクロースが生まれた日」と言う答えが返ってきます。家庭でもイエス様抜きのクリスマスをしているからです。もっとも年長組になりますと、既に幼稚園のクリスマスを経験していますから、入園して1年を経ても、「イエス様がお生まれになった日」であることは覚えているのです。
 こうしてクリスマスは主イエス・キリストが世に現れた日としてお祝いされますが、むしろ十字架の主イエス・キリストに重きを置くのが西洋の歴史でもあります。数年前にパリの三大美術館を訪れました。聖画と言われるキリスト教の絵画が多数展示されていました。もちろんクリスマスに関する絵画も多く展示されていましたが、主イエス・キリストの十字架に関わる絵画が圧倒的に多いのです。これでもか、これでもかと言われるほど、イエス様の十字架の絵画が展示されているのです。キリスト教を知らない人達にとっては、気持ち悪い絵画の印象を与えるのではないかと思われます。歴史において、クリスマスは大切なお恵みのときなのですが、イエス様の十字架の贖いこそ、人間を新しい存在へと導く原点であることを、絵描きの皆さんは信仰をもつて描いているのです。
 クリスマスと十字架を切り離すのではなく、一体であると言うことです。十字架の贖いを与えるために主イエス・キリストは世に現れたのであります。そして、十字架により、私達を新しく創造し、祝福の歩みへと導いてくださるのであります。

 十字架が私達を新しく創造するのですが、もともと宇宙万物をお造りになられたのは神様であります。旧約聖書のはじめは創世記でありますが、そこに神様が天地を創造されたことが記されています。天地を創造されたのは神様であると言えば、非科学的であると批判されます。箱根の湯本に地球博物館があり、古代の動植物が展示されており、これらが進化して現代になることを示しています。しかし、人間は太古を遡れば遡るほど、天地の始まりについてものが言えなくなるのです。やはり神様が天地をお造りになったと言わざるを得ないのです。もっとも、創世記の天地創造をもって、天地が始まったというのは非科学的と指摘される通りです。しかし、創世記は天地の意味、人間存在の意味を深く示しているのであり、信仰をもって示されるならば、まさに大きな指針となるのであります。
 創世記1章1節以下、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されます。このような状況を、もちろん見たというのではありません。信仰をもって記しているのです。その何が何だかさっぱり分からない状況に神様が言葉を与えるのです。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一日の日である」と記しています。この後も神様は言葉を与え、「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ」と言われて、大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けられた。つまり古代の人たちは大空の上にも水があると考えたのです。水を支えているのは雲です。雲が破れて雨となるのです。さらに神様は言葉を与え、陸や海、動物、植物等を造られ、そして最後に人間を造られたのでした。人間が造られた時、神様は人間を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ」と言われました。つまり人間は神様がお造りになった創造の世界を支配し、管理する使命を与えられていますよ、と創世記はメッセージを与えているのです。
 人間が造られる記録は二つあります。一つは、男と女が一緒に造られて、創造の世界を支配することでした。そのことを記しているのは創世記1章26節以下です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地を這うものすべてを支配させよう。』」と記しています。もう一つの人間創造は創世記2章7節以下に記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」と記しています。それぞれの意味合いを深く受け止めたいと思いますが、ここでは割愛します。ここでは、人間は神様の御心をいただいてこそ、生きた者になるのであることを示しているのです。
 創世記のメッセージは、神様の言葉が形あるものになると言うことです。何が何だか分からない状況に神様の言葉が与えられる。形あるものが導かれて来ると言うことなのです。この社会、特に最近の災害を思う時、あるいは大雨による洪水や土砂崩れの災害を思う時、一体どうなっているのかと思います。混乱した世界になった時、だからこそ、神様がこの社会に御言葉を与え、形あるものを導いてくださっていることを示されるのであります。神様はこの社会に御言葉を与えてくださっているのです。だから、御言葉をいただいて復興に立ち向かいたいのであります。神様がお導き下さっていることを信じて歩みたいのであります。

 太古の神話の世界を信じて、現代が歩めるのかと思うでしょうか。太古ではありません。神様は、たった2000年前に主イエス・キリストをこの世に出現させ、人間をお救いになっているのです。何万年前と言うのではなく、わずか2000年前なのです。決して遠い太古の時代ではないのです。ヨハネによる福音書は、マタイによる福音書ルカによる福音書のように、イエス様のお生まれになる状況、降誕物語は記していません。マタイやルカによれば、イエス様はヨセフとマリアの子として、聖霊によって生まれたと証しています。その後は青年期が一部記されますが、30歳になられた頃に世の人々に現れ、神の国の福音を宣べ伝えられるのであります。しかし、ヨハネによる福音書はマタイやルカのように降誕物語は記しません。神様の言葉として現れたと証しています。しかも、「言葉」ではなく「言(ことば)」としています。「言葉」は人が話をすれば、いろいろなことを言うので、葉っぱのようにたくさんになるわけです。しかし、イエス様は「言」として現れたのです。
 ヨハネによる福音書1章1節以下、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と記されています。「言」と言われていますが、「言」を「イエス・キリスト」と読み替えればよろしいわけです。イエス様のこの世に現れた意味を示しているのです。ここで言われているのは、創世記において神様の言が天地を創造されたのでしたが、「言」すなわち主イエス・キリストはそこで創造されたのではなく、もともと神様の存在であり、造られたのでは無いということです。その「言」がイエス・キリストとして2000年前に、この世に現れたと示しているのです。この主イエス・キリストが世に現れ、神の国の福音を示し、十字架の贖いによって人間をお救いになったのであります。主イエス・キリストの十字架によって、人々は新しく創造されるのです。私達の内面的な所にある自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼされたことを信じるのです。イエス様がこの私をお救いくださったことを信じることにより、私が新しく創造されたということなのです。
 主イエス・キリストは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ福音書8章12節)と教えておられます。イエス様の教えをいただいて生きるとき、私達もまた光の存在として生きるようになるのです。「あなたがたは世の光である」(マタイによる福音書5章14節)とイエス様は私達を励ましておられます。イエス様の光をいただいて、私たちが光の存在になるのです。私が人々の光となる、こんな喜びはありません。いよいよ主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいて、光の存在として歩みたいのです。
 主イエス・キリストにより、私達は「新しく造られる」のであります。新しくなるということは、古い姿を脱ぎ捨てると言うことです。古い姿とは生まれたままの姿です。自己本位に、自分中心に、他者を排除しつつ生きる姿なのです。これは人間として生まれながらの姿です。人間は成長と共に、切磋琢磨され、生まれながらの姿を修正しつつ生きることになります。それは教育において、人間関係において学んでいくのです。しかし、人間は自分を超えての生き方は、なかなか困難であります。どうしても自分中心になるからです。この時、イエス様が十字架において、私の中にある自己中心を滅ぼしてくださったことを信じるとき、私達は新しく造り変えられるのです。この十字架の信仰は、私達の一生の信仰となるのです。常に十字架の原点に戻されて、新しく造り変えられるのです。主イエス・キリストは「神様のお言葉の実現」なのです。従って、イエス様を示される歩みが祝福の人生となるのです。

2010年3月をもって大塚平安教会を退任した時、今まで16年間担ってきた八王子医療刑務所教誨師、神奈川医療少年院篤志面接委員を退任しました。折に触れて刑務所にいる人々との出会いを記しています。教団新報に談話として掲載しました。
「刑務所に赴く。月に一回であるが、第四木曜日の午後としている。刑務所に行く私を送り出す連れ合いが、どの集会に行くときよりもうれしそうだと言うのである。うれしくもないが、キリスト教教誨を希望し、一ヶ月間を待ち望んでいる人を思うと、足が軽くなる思いであることは確かである。この日の教誨は4人の受刑者であった。実はこのところ数ヶ月は、教誨希望者は1名であった。最初の30分は聖書のお話をし、讃美歌を歌う。その後は質問を受けたり、感想を聞いたり、雑談もする。彼はあまり質問をしないので、一方的にイエス様の教えを示していた。それでも彼はキリスト教教誨を、たとえ一人でも希望していたのである。その彼は他の刑務所へと移されたのであるが、軽い足取りであったろうか。新しく4名の皆さんに教誨を行った。キリスト教は初めての人ばかりであった。『十戒って何ですか』との質問があった。十の戒めを示し、これは神様が人間の生きるに必要な基本的な生き方であると説明した。ふと皆さんを見るとうつむいている。『そうか、皆さんはこの十戒に触れるんだ』と言うと、視線を落としたまま頷くのであった。「殺すな、盗むな、偽証するな」…。人間は基本的な戒めを守れないので、神様はイエス様をこの世に遣わされて救いへと導かれたことを教誨で示したい。出所時は主にあって生きることで、足取りが軽くなることを願いつつ。」
今は教誨師を退任しているが、時々、教誨をしていた当時のことを思い出している。刑務所にいる人々も私たちも基本的には同じ人間なのです。たまたま、自己制御できなくて刑務所に入ることになったのですが、私達も自己満足と他者排除が暴れることもあるのです。イエス様を仰ぎ見ることで導かれているのです。主イエス・キリストの十字架の贖いが、私を新しく造り変えてくださるのです。イエス様は「神様のお言葉の実現」でありますから、イエス様を信じることなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。新しく造り変えてくださり感謝致します。救いの十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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