説教「神の国に生かされる」

2022年10月23日、六浦谷間の集会

「降誕前第9主日

                      

説教・「神の国に生かされる」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨブ記38章1-11節

   使徒言行録14章8-18節

   ルカによる福音書12章13-21節

賛美・(説教前)讃美歌21・405「すべての人に」

   (説教後)讃美歌21・579「主を仰ぎ見れば」

 

 今朝の日本基督教団の礼拝主題は「創造」ということであります。神様の創造の世界を示されるということであります。その創造から示されることは、旧約聖書の創世記であります。創世記の初めには天地創造が記されています。宇宙の最初のことは誰も知ることができません。それで、学者にしても宗教界にしても、最初はこのようにしてできたと示しているのです。私たちは聖書の創世記をもって、地球の始まりを信じている訳ではありません。聖書は神様を証しすることであり、聖書の創世記には信仰的な真理が示されているのです。創世記によれば、最初は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」ということです。信仰において記しているのです。そのような状況に神様は言われるのです。「光あれ」、すると光が存在したというのです。そして、神様は次々に言われます。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われると、そのようになったのです。つまり大空にも水があり、大地にも水があるということです。古代の宇宙観でもあります。雨が降ってくるのは、大空の水が、それを支えている雲が破れて降って来るのです。こうしていろいろな物が出来ていきますが、古代の考え方が反映していることを示されます。この創造の世界は信仰を持って記しているのでありまして、これが科学的にも言われる天地の始まりだと示しているのではありません。神様の御心を示しているのが創世記ということなのです。

 創世記で示されているのは、まずエデンの園に人間が住んでいたということです。しかし、人間の罪、神様との約束を破ることによってエデンから追放されたのでした。しかし、神様は人間が再びエデンの園に生きるよう導いているのです。人間の罪によりエデンから追われたのですが、再びエデンに帰るよう導いているのが神様であり、それが聖書の主題であるということです。エデンの園、すなわち「神の国」に生かされることが聖書の導きなのであります。

 旧約聖書ヨブ記において、創造の世界を示され、新しい信仰の生き方が導かれています。ヨブ記は文学的な記述により神様の御心を示しています。ヨブ記の設定は、義人ヨブさんが神様の御心に従い、神様を敬いつつ歩んでいます。ある日のこと、天上において神様の御使いたちが神様の前に集まります。神様はサタンに対して、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」というのであります。するとサタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」というのです。旧約聖書の世界は、サタンは神様のお使いの一人なのです。サタンは、ヨブが信仰深いのは、神様がお恵みを施しているからだと主張しているのです。それで、サタンは神様のお許しをいただいて、ヨブを苦しめます。そのため、どん底に落とされたヨブでした。その時、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白するのです。それに対してサタンは、ヨブは自分自身に痛みがあるなら、必ず神を呪うと主張します。神様の赦しを得て、サタンはヨブ自身に被害を与えるのです。ヨブは体全体が皮膚病になり、陶器のかけらで体中をかきむしるのでした。その時ヨブは、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と告白したのであります。サタンの思惑は外れたのであります。ヨブの災難を知った三人の友人が見舞いにやってきます。彼らは、ヨブがこのような災難に遭うのは、ヨブが悪いことをしたからであり、悔い改めることであると結論づけます。その為、三人は順次慰めの言葉を述べますが、それは悔い改めの勧告であったのです。それに対して真っ向から立ち向かったヨブです。罪と言い、悔い改めを迫っていますが、全く身に覚えのないことであります。友人達とヨブとの激しい論争が本論で続くのです。

 そこで、今朝の聖書は、ついに神様が登場する場面であります。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」のであります。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」と示し、神様の創造の御業を示されています。その創造の業の中にいるヨブであり、何事を論じても、まことに小さな存在であることを示しているのです。「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」と言われます。創造に関与しているのかということです。小さな存在が、神様の創造に対して何を語れるかということです。ついにヨブは悟るのです。「あなたは全能の神です。わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と告白するのでした。自分には罪がないと主張して来ました。三人の友は因果応報的に悔い改めを迫っていました。罪がないと主張するヨブでしたが、神様の偉大なる創造の中で、まことに小さな存在であること、自分を主張している自分自身が罪の存在であることを、ヨブは知ることになったのであります。自分において潔白を証明するのではなく、神様の御心において生きていることの証しこそ大切であることなのです。自分を受けとめること、この自分を神様が導いてくださっていることを信じることであります。神様がエデンの園へと導いてくださっていることを受けとめなければならないのであります。

 「自分のために富を積むのではなく、神様の前に豊かになりなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。神様の御心に生きる者が神様の祝福をいただくのであることを示しておられます。ルカによる福音書12章13節以下はイエス様が人間の生き方について示しておられます。まず、豊かな財産を持っている人を例に挙げています。どんなに財産があり、その財産に依存する生き方は、真の祝福の道ではないと示しているのです。人間はどんなに富を築いても、地上のことであり、天国には関わらないのです。財産で安心しても、天国には結びつかないということです。だから、もし財産があるなら、その財産を用いて神様に祝福されるような証をするべきなのです。人間は生きている以上、毎日のさまざまな思い悩みを持っています。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」とイエス様は示しています。よく考えれば、食べること、着ることは大切であり、これらがないことの悩みは深刻であります。しかし、イエス様は、これらを否定しているのではありません。後で、「これらのものは加えて与えられる」と示しているのです。まず、しなければならないことなのであります。「ただ、神の国を求めなさい」と教えておられることです。自分の存在、自分を証明する、自分の位置付け、そういう自分の生き方ではなく、神様がくださる自分の生き方に身を置くと言うことなのです。

 神の国を求めて生きるとき、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と示しておられます。そして、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と教えておられます。今朝の聖書の最初に「愚かな金持ち」のたとえを示されていますが、その結びの言葉が、「富を天に積みなさい」ということなのです。「擦り切れることのない財布」を作りなさいと示しています。つまり、お金をいっぱい財布に入れ、そしてすぐにお金が出ていくことなのです。私たちは聖書を読んでお金持ちになることはいけないことであると思ってしまいます。金持ちであり、財産がありすぎて、もっと大きな蔵を作った。そしたら神様にとがめられたお話でもあるからです。しかし、そのお話の終わりにも示されているように、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と示されています。そして、「思い悩むな」を教えられ、「擦り切れることのない財布」を示しているのであります。擦り切れることのない財布は天国に富を築くためのものなのです。

 私たちは神様の創造の中に生かされています。自分という存在が大切であることを示されます。しかし、私たちは、やはり自分中心に生きてしまいます。神様は創造の中にある存在が喜びをもって生きることができるように、主イエス・キリストを十字架の贖いにより、私たちが喜んで他者と共に生きるように導いておられるのです。

 イエス様のたとえ話に「金持ちの青年」があります。青年が、何をしたら永遠の命が得られるかと聞きます。それに対してイエス様は、十戒を示します。すると青年は、それらはみんな守っているというのです。イエス様は、青年が足りないのは、持っているものを貧しい人たちに施すことであると示しています。神の国に生きることを知りながら、実践していないのです。神の国に招かれるのは他者と共に生きることなのです。その場合、ただお祈りして生きると言うのではなく、大胆に稼ぎ、大胆に倹約し、大胆に与えることが求められているのです。それが、神の国を求める生き方なのです。さあ、大胆に十字架に向かいましょう。大胆に稼ぎましょう。そして、「神の国に生きる喜び」をいただきたいのであります。

<祈祷>

聖なる神様。神様の創造の中に生きることができ感謝致します。いつも隣人と共に歩むことを得させてください。キリストの御名により。アーメン。

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