説教「信仰の幸い」

2022年10月16日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第20主日

                      

説教・「信仰の幸い」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書25章1-5節

   ヨハネの黙示録7章9-12節

   マタイによる福音書5章1-12節

賛美・(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」

   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」

 10月の最初の礼拝においても示されましたが、10月はいろいろな課題を祈りつつ礼拝をささげています。第一主日は世界聖餐日、世界宣教の日として礼拝をささげました。第二主日は神学校日、伝道献身者奨励日でありました。伝道者のためにお祈りをささげたのです。そして、第三主日の今朝は、信徒伝道週間であり、教育週間になります。この日だけではなく、この一週間は信徒伝道を祈りつつ過ごすということです。キリスト教を人々に伝えるのは牧師だけの務めではなく、信徒の皆さんもまた伝道者として、人々にイエス様の十字架の救いを証しするのです。今週はそのような示しであり、人々にキリスト教を教えてあげたいのであります。

 若い頃、私がまだ青年の頃ですが、神学校に入る前でもありました。その頃は清水ヶ丘教会に出席していました。将来伝導者の道を歩みたいと思っていたので、今の時点でも伝道となることをしたいと思っていました。それで決心をして、トラクトを配ることにしました。キリスト教についての案内のチラシです。それを家のポストに入れて歩くのです。しかし、いざ配布し始めると、勇気がいるのです。今の社会はポスティングと言って、チラシをポストに入れる仕事があり、堂々と出来るのですが、昔はそういうことは行われていませんでしたので、やたらにポストにチラシを入れることには勇気が必要でした。誰も見ていないことを確認しながら、恐る恐るしたものです。30分もしなかったと思います。なんか恐ろしいことをしているようで、早くやめようと思ってしまったのです。

 伝道をすること、それは今でも勇気がいることで、親しい間柄の友達でも、なかなか教会には誘えないでありましょう。しかし、私たちは信じているイエス様の福音を人々にお伝えしなければならないのです。今朝は「信仰の幸い」との題ですが、まさに信仰の人生が喜びであり、平安であることを証ししたいのであります。

 このとき私たち自身の歩みを示されることです。今歩んでいるいろいろな関わりを示されながら、今の人生でイエス様の十字架の救いにどのように関わるか、改めて示されるのです。私達も信仰の内容を改めて示され、目指している天国について、イエス・キリストが示されていますので、しっかりと受け止めたいのであります。

 天国への導きとして旧約聖書イザヤ書で、「神さまの驚くべき御業」を紹介しています。今朝は旧約聖書イザヤ書25章1節から5節であります。聖書の人々がバビロンと言う国に囚われの身に置かれているときであります。イザヤは「神さまの驚くべき御業」を紹介しています。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された」と示しています。そしてその後に、「あなたは都を石塚とし」と述べていますが、おそらくこの「都」とはバビロンを示しているのです。バビロンの国に囚われているのですが、バビロンはのちにペルシャの国に滅ぼされますが、大きな戦いが展開されたのではなく、無血でバビロンの門がペルシャに明け渡されたと言われます。従って、この預言の通りではありませんが、苦しい今、神様が苦しみの根源を断ちきってくださることを示しているのであります。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられた」と紹介しています。

 人間はいつも表面的にしか受けとめないのです。本当にそこで示されている御心を、心の底から受けとめてないのです。繰り返し、繰り返し神様の御心を示されなければならないのです。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセが王様に解放を求めます。王様が許可しないので審判を与えます。すると、その苦しさのゆえに解放を赦しますが、災害がおさまると心を翻して、過酷な労働を課すのです。このことが繰り返し行われます。その時、聖書は、王様の心を頑なにしているのは神様であると示しているのです。表面的な受けとめ方ではなく、本当に、心から神様の御心として行うことへと導かれているということであります。

 イザヤは40年間、預言者としての働きを致しました。繰り返し、繰り返し神様の御心を示しているのです。今朝の「神さまの驚くべき御業」を示すことも、神様の救い、導きを示すことも、今までも繰り返し示しているのです。人々は一時的には喜びますが、また御心から離れていくのです。それでもイザヤは神様の御言葉を示し続けるのであります。神様があなたを導き、あなたに祝福を与えると示し続けているのです。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。主の御手はこの山にとどまる」と人々が告白する日が来ることを示しています。神様が必ず導き、祝福の国に導くと言う、このイザヤの預言に人々は希望をもちました。

 祝福の国、天の国に導いてくださるのは主イエス・キリストであります。イエス様の到来はわたしたちが天の国、神の国に生きるためでした。「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)と言われて、福音を宣べ伝え始められたのです。今朝は、その天の国に生きるために「幸い」を教えてくださっています。マタイによる福音書5章1節から12節が今朝の示しであります。しかしながら、イエス様による「幸い」の教えは、私たちが心に示されている幸福、幸せとはおよそ異なるものであります。私たちの幸せ観は、うれしいことであり、苦労や心配がないことであり、いつも楽しく過ごすことではないでしょうか。もちろんイエス様は私たちの幸せ観を否定してはいません。しかし、こと「天の国」に生きるには、イエス様の「幸い」を受けとめなければならないのであります。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えておられます。「心の貧しい」とは、貪欲とか欲張りではありません。心の中に何もないことを示しているのです。私たちの心の中には、いろいろな思いが詰め込まれています。自分がおかれている状況において、常に良い状況へと進められることであります。すると、神様の御心が入り込めなくなるのです。押し込んでも、押し込んでも、先に入っているさまざまな思いにより、御心が浸透していかないのです。いちど、心の中を空っぽにしなければならないのです。その時、初めて御心が私の肉となり、支えとなるのです。御言葉の前に頭を垂れることなのです。「天の国はその人たちのものである」とイエス様が祝福してくださいます。

 「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」と九つの「幸い」を示しておられます。いずれも神様の御心に満たされているとき、たとえ「悲しみ」、「迫害されても」、「幸い」に包まれているということです。天の国に生きているからです。このように示されているのでありますが、私たちは好んで迫害のさなかに身を置きたくありません。「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、やはり辛いです。悲しいです。孤独をしみじみ味わわなければなりません。しかし、その時こそ、今の私は「幸い」に包まれていることを実感しなければならないのであります。主イエス・キリストは私たちが福音を喜びつつも、「幸い」に生きることができないので、神様の御心において十字架にお架りになりました。十字架は私の「幸い」への道なのです。天国に市民権をもっていることを、次第にはっきりさせてくださるのが「幸い」の道なのです。天国に市民権をもつ者へと導いてくださる主イエス・キリストなのであります。この世に生きていながら天国の市民権をもっている、誇らしい生き方であります。

マタイによる福音書5章で天国を示されました。しかし、天国の国については福音書の全体はイエス様による天国への導きなのです。マタイによる福音書では13章にまとめて天国を紹介しています。「種を蒔く人」のたとえが示めされています。「からし種」や「パン種」のたとえ、「畑に隠されている宝物」のたとえ等が示されています。そして、最後は「天の国のことを学んだ学者」についての示しです。イエス様は天国についてお話しをされ、お弟子さん達に「あなたがたは、これらのことがみな分ったか」と尋ねました。お弟子さん達は「分りました」と言いました。本当に分るために、イエス様は説明されています。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と締めくくっているのです。「新しいもの」とは、他の存在を見つめることです。「自分を愛するように、他の存在を愛しなさい」と教えられた生き方が新しい存在なのです。他の存在を見ないで、自分ことしか考えない人は古い存在ということになるのです。自分の倉の中は、古い姿の存在ばかりです。自分のために集めた物ばかりなのです。しかし、その様な姿勢で倉に仕舞っていたものですが、他の存在のために用いるのであれば、新しいものになるのです。自分自身も新しい存在になるのです。まだまだ倉の中には「古いもの」がしまわれているので、それらを出しては新しいものにしていくことを教えているのです。それが天国というものであるということでした。信仰が幸いの道を歩ませてくれるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様による天国のお導きを感謝いたします。天国の喜びを人々に証しをして歩ませてください。キリストの御名によりアーメン。

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