説教「明るい人生を喜びつつ」

2022年10月30日、三崎教会

「降誕前第9主日

                      

説教・「明るい人生を喜びつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記9章8-17節

   ルカによる福音書11章33-36節

賛美・(説教前)讃美歌21・377「神はわが砦」

   (説教後)讃美歌21・573「光かかげよ、主のみ民よ」

10月の明日の31日は宗教改革記念日であります。宗教改革によって、今の私たちの信仰の歩みが存在するようになったのです。それは中世の時代、16世紀の頃、紀元1600年の頃であり、今は2022年ですから、約500年前になります。それで数年前に宗教改革500年ということで、改めてその意義が見直されているのです。

 キリスト教イエス・キリストの十字架の救いを信じる人々です。しかし、イエス様はキリスト教として人々を導いたのではありません。当時のユダヤ教社会にあって、真に神様の御心を示し、十字架への道を歩まれたのです。その後、イエス様のお弟子さんたちは、イエス様の十字架の救いを人々に宣べ伝えて行きました。そこで成立するのが原始キリスト教です。そのキリスト教は次第に人々に浸透していきました。その頃、ローマ帝国がヨーロッパ世界を支配していたのです。当初はキリスト教を迫害しますが、ついにローマはキリスト教を国家の宗教としたのでした。帝国は滅びていきますが、キリスト教はローマを中心に発展していくのです。ローマ法王を中心にカトリック教会が存在するようになるのです。発展するということ、しかし発展は堕落を伴うということです。16世紀の世界はその堕落が深刻になっていました。大きな教会を建設するために資金集めをするのですが、免罪符と言うお札を売ることになります。その免罪符のお札を買うと、罪が赦されるというものです。お札を買えば、悪者も善人になれるのですから、人々は喜んで買うのでした。「これが信仰なのか」と疑問を持ったのがマルチン・ルターという人でした。ルターは免罪符ばかりではなく、当時の教会の歩みに、いろいろな疑問を持ち、問題点を書き出して教会の扉に張り付けたのでした。これが大問題となり、ルターは教会から破門されますが、ルターはドイツに逃れ、そこで真の信仰、聖書に基づいた信仰を人々に示すのであります。そこで新しいキリスト教ができるのです。カトリック教会というのは、公同教会と言う意味です。それに対して、カトリック教会に抗議して、プロテストしてできたというのでプロテスタント教会と称するようになりました。ルターは私たちが「明るい人生を生きる喜び」はイエス様を信じる信仰によると示したのであります。

 旧約聖書はノアの洪水の物語です。神様の救いの示しであります。今朝の聖書は創世記9章ですが、洪水物語は6章から始まっているのです。地上には人が増え、増えた人々は次第に悪に染まり、常に悪いことばかりを心に思い計るようになってしまいました。そこで神様は、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われました。これは神話の世界ですから、神様のお心を人間的にあらわしているのです。しかし、神様はノアとその家族を顧みました。ノアとその家族は残し、後は滅ぼすことになったのであります。そのため、神様はノアに大きな箱舟を造ることをお命じになりました。箱舟の長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマの箱舟といいます。1アンマは約45㎝です。従って、長さ135m、幅22m、高さ13mと言うことになります。やはりかなり大きな船になります。箱舟ができあがりますと、すべての動物を一つがいずつ箱舟に入れ、そしてノアの家族が箱舟に入ります。ノアの家族はノアの妻と三人の息子たちでした。彼らが箱舟に入ると雨が降り出します。そして、水かさが増え、ついに箱舟が浮かびました。洪水となり、すべての生き物は死に絶えたのでした。水は150日の間、地上にあふれていました。しかし、次第に水が引きはじめ、乾いた地になりましので、ノアとその家族、動物たちは大地に降り立ったのであります。ノアは、まず神様に礼拝するために祭壇を築きました。そして家族と共に礼拝をささげたのであります。そこで神様から祝福の約束が与えられ、今朝の聖書になります。

 神様はノアと彼の息子たちに言いました。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と言われるのであります。そして神様がノアに交わした契約は、「わたしは雲の中にわたしの虹を置く」と言うことでした。つまり、虹が出ることは、神様が契約をお示しになっているということなのです。虹は恵みの雨の晴れ間にできる現象です。まさに神様のお恵みのしるしでもあります。お伽話のようですが、真理が示されているのです。

 こうして神様はノアを通して新しい人間を導きました。しかし、人間は相変わらず、思うことは悪い計りごとでありました。再び神様の審判があるとは新約聖書の時代になって示されて来るのです。すなわち終末信仰というものです。イエス様ご自身も終末の示しを与えておられるのです。「その日、その時は分からない。いつ終末を迎えても、神様の祝福をいただく歩みをしなさい」との示しをイエス様がくださっているのです。

 神様はノアを通して新しい人間を導いておられるのです。それは、今日においても新しい人間へと導いておられるのです。新しい人間は神様の御心を示されて生きるのです。時には現れる虹を見ては神様の御心を示されるのです。新しい人間は他者を受け止めて生きます。共に生きることが神様の御心なのです。互いにその存在を受け止めながら生きるということです。ノアの洪水、バベルの塔、ソドムの滅亡等、悪をお嫌いなさる神様の審判を聖書は証ししているのです。神様の御心をいただいて、「明るい人生を喜びつつ」歩みたいのです。

 「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らす時のように、全身は輝いている」と主イエス・キリストが示しています。ルカによる福音書11章33節以下が今朝の聖書です。「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」とも言われています。私の中にある光とは神様の御心であります。創世記で示された原罪は、人間は克服できません。自分の思いではなく、神様の御心をいただくことで、自分の中に光がともされるのであります。

 37節以下で、イエス様はファリサイ派の人に食事を招待されました。イエス様が食事の席に着くと、招待した人は不審に思います。食事の前には身を清めるのですが、イエス様はそれをしなかったからです。不審に思っている人に、「外側をきれいにするのではなく、内側を清める」ことを教えられました。「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちはすべてのものが清くなる」と示されたのであります。人は目に見える外側のことばかりが気になります。本当に気にしなければならないのは、内なる姿であります。内なる姿は神様によって養われなければならないのです。

 結局、人間は神様の戒めを真に受け止めることができなかったのであります。内なる光も、いつも自己満足で消してしまうことになるのです。内なるものを導かれる神様の御心には従い得ない存在でありました。どうしても内なる光を持てない人間に対して、神様は主イエス・キリストをこの世に現しました。イエス様は神様の御心を示し、現実を神様の国として生きることを導かれたのです。それでも内なる光を持てない人間に対して、神様はイエス様を十字架にお掛けになりました。イエス様は当時の指導者たちの妬みにより、十字架にかけられてしまうのですが、神様はその十字架の救いを人間の原点にされたのであります。主イエス・キリストの十字架の死と共に、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。従って、私たちは十字架を仰ぎ見ることにより、内なる姿が明るくなっていくのであります。その救いを信じて洗礼を受けました。洗礼を受けると天使のように、いつも輝いているのかと言えば、そうではありません。いつも十字架を仰ぎ見つつ、内なる自己満足、他者排除と闘うのです。その信仰の生活を導くのが主の聖餐式なのです。イエス様の御体をいただくことで、十字架の救いを再び示され、内なる光を輝かすことができるのであります。

 イエス様を信じて歩む人生は、光輝く人生なのです。私が神学校に入学したとき、当時の校長先生は金井為一郎先生でした。この先生から新約聖書の講義をいただいています。先生は、まさに光輝くお姿でした。先生にお会いすると、本当に全身が輝いているのです。何かホッとするような思いでいました。残念ながら、入学してから半年後、金井先生は召天されてしまうのです。わずか半年でしたが、金井先生との出会いは、信仰者の証しとして示されています。いつも神様に心を向けておられることで、神様の光をいただいているのです。

 キリスト教の聖画を見るとき、イエス様はもちろんですが、イエス様を信じる人々の頭は、光輝いている姿として、まるい光が描かれています。聖画を描く絵描きさんたちは、信仰者は光輝く姿として受け止めていたのです。まさに信仰者は光輝く姿です。いよいよイエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩むとき、「明るい人生を喜びつつ」歩む存在へと導かれるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架のお導きを感謝致します。私たちの内なる光が輝き続けるよう導いてください。キリストの御名により、アーメン。

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