説教「健やかに導かれつつ」

2019年2月24日、三崎教会 
降誕節第9主日

説教・「健やかに導かれつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨブ記2章1-10節
   ルカによる福音書5章17-26節
賛美・(説教前)讃美歌21・290「おどり出る姿で」
   (説教後)讃美歌21・449「千歳の岩よ」

 早いもので、今朝は2月の最終の日曜日になり、3月を迎えようとしています。
クリスマス後は、主イエス・キリストのお働きについて、段階的に示されていますが、日本基督教団の礼拝聖書日課は、「教えるキリスト」、「いやすキリスト」、「奇跡を行うキリスト」を示されつつ歩むのであります。前週の聖書日課は「教えるキリスト」として、イエス様の「種を蒔く人」のたとえについて示されました。この聖書の内容はマタイによる福音書、マルコによる福音書にも示されていますが、ルカによる福音書の示しは、二つの福音書とは異なった解釈を与えているのであります。
 マタイは良い土地に落ちた種について、「悟る人」であり、マルコは「受け入れる人」であります。しかし、ルカは「善い心で御言葉を聞く」人なのであります。ただ蒔かれるということではなく、積極的に蒔かれることを待ち望んでいるのであります。そして、「よく守り」と示されるように、努力して御言葉を守りつつ歩むのであります。そして、「忍耐して」御言葉による人生を生きるのであります。御言葉を蒔かれ、悟り、受け入れても、生活の上で、社会の人間関係においての戦いがあります。ルカは、御言葉に対する取り組みを示しているのであります。従って、たとえの説明の中では、「実を結ぶ」と言っているのであり、百倍とか30倍、60倍とは言いません。それぞれの姿において「実を結ぶ」のであります。その人の信仰の人生において実を結ぶことが導かれるのであります。前週の聖書日課を示されました。
 今朝は「いやすキリスト」でありますが、癒しについてもそれぞれの福音書の取り扱いが異なることを示され、イエス様の癒しを示されたいのであります。「癒し」は病気、体の障害等が治ることであります。イエス様にお願いしたら病気が治ったということになれば、当然のことながら多くの人がイエス様に癒しを求めるでありましょう。福音書には死者をよみがえられたことまで記されています。イエス様にお願いすれば、病気は治るし、死んでも生き返ると言うことになります。そうするとイエス様にお願いした人は、死ぬことはなく、病気にもならず、永遠に生きるのでしょうか。そんなことは無いことは言うまでもありません。病気を癒された人だって、やがては死ぬのです。イエス様によって死んだ人が甦りましたが、そのままずっと生きているのか。そうではなく、やがて死ぬでしょう。人間は生まれます。しかし、死んでいくことは人間の姿なのです。そういう人間の自然な姿において、癒されること、甦ることを示している意味を知らなければならないのです。
 以前、教会員のご夫婦であり、夫人が病気になられました。お連れ合いは、夫人の病気を治してもらおうと、いろいろな病院を訪ね、またいろいろと試みていました。そして、日夜祈り続けていたのであります。しかし、夫人は召されて行きました。お連れ合いは、その時、神様はお祈りを聞いてくれなかったと言われたのであります。あれほど、日夜祈り続けたのに、癒しを与えてくれなかったと言われ、それを皆さんにお話しているのです。だからと言って教会から離れたわけではありませんが、夫人のことになると、神様は祈りに応えてくれなかったと言い続けているのです。病気と信仰、癒されることが信仰の力だと思うのは間違いと言えるでしょう。先ほども触れましたように、神様にお願いしたら癒されると言うことであれば、人間は死ぬことも無く、病気にもならないのです。人間は死んでいくのです。その死をどのように迎えるか、病気をどのように受容するか、それが信仰の導きなのです。

 まず旧約聖書ヨブ記から示されましょう。旧約聖書は歴史書、文学書、預言書に分けられます。このヨブ記は文学書であります。だから一つの物語でありますが、この物語を通して信仰と人生、病気と信仰の課題を示しているのであります。
 ヨブ記は物語を示しながら神様の御心を示しています。天上において、天使達が神様の前に集まりました。その時、神様はサタンという天使に言うのです。旧約聖書ではサタンは神様のお使い、天使の一人なのです。神様に敵対する存在になるのは新約聖書の時代になります。イエス様が人々に現れる前に荒野で祈りの時を持ちます。その後、そのイエス様にサタンが現れるのです。新約聖書のサタンは天使ではなく、神様に敵対する存在として示されているのです。そのサタンと戦ったイエス様です。「サタンよ、引き下がれ」と厳しく示しています。しかし、旧約聖書では神様に従うサタンであり、天使の一人なのです。神様はサタンに言いました。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」と神様はサタンに言われました。実は、今日の聖書は第二弾ということになるのです。第一弾はもうすでに行われました。サタンが神様に言ったのは、「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」ということです、そこで神様はサタンがヨブの財産に触れることを許すのでした。サタンはヨブの豊かな財産をことごとく無くし、10人の子ども達まで死んでしまうのでした。その時、ヨブは神を呪ったのか。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白し、神様を呪うことはありませんでした。神様はこのヨブの信仰を受け止めて、今またサタンに言っておられるのです。サタンは、ヨブは自分の命に別状がないので、神様を呪わないのであり、彼の骨と肉に触れれば呪うに違いないと言うのであります。神様はサタンがヨブの骨と肉に触れることを許されました。そのため、サタンはヨブの頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせます。ヨブは灰の中に座り、陶器のかけらで体中をかきむしるのでした。その時、ヨブは神様を呪ったのか。「わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」と告白したのであります。ここに信仰の原点が示されているのであります。
 このヨブ記においては、病気を治してくださいとか、恵みをくださいとか、ヨブの願いはひとつも記されていません。ヨブは現状を受け止め、豊かな時も貧しくなった時も、喜びあふれるときも、悲しみに暮れるときも、大きな痛みがあるときも、すべては神様のお導きとして受けとめているのであります。豊かな時もどん底の時も、ヨブは変わらずに神様を仰ぎ見ているのであります。幸せになったから神様を礼拝するのではありません。お願いしたことが適えられたから、礼拝しますと言う御利益的な信仰ではないのです。このヨブ記は苦難と信仰について導いているのです。

 新約聖書ルカによる福音書5章17節以下で、「中風の人をいやす」ことが記されています。ある日のこと、イエス様がある人の家の中でお話をしていました。そこへ中風を患っている人を人々が連れてきました。イエス様にいやしてもらうためです。ところが家の中には大勢の人がいたので、イエス様の前には進めなかったのであります。それで、彼らは屋根に上り、瓦をはがして、上から病気の人をイエス様の前に吊り下ろしたのです。イエスはこれらの行動に対して、またその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。病気をいやしてもらいたいために来たのですが、イエス様は罪の問題として関わっています。そこには律法学者やファリサイ派の人たちがいました。早速、イエス様を批判しています。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ、神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」というのであります。それに対してイエス様は、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。中風の人は起き上がり、寝ていた台を取り上げ、神様を賛美しながら家に帰っていくのであります。
 主イエス・キリストは今ここでは「癒しの人」として人々に現れているのであります。従って、中風で患っている人をイエス様は神様の御力で癒しているのであります。当時の社会は因果応報的に考える時代ですから、病気は先祖または両親、本人が罪を犯したので、悪霊によって病気になると考えられていたのであります。そうであれば、まず罪の問題に関わらなければならないのです。その人の罪が赦されるということは、悪霊を断ち切ることになります。悪霊がいなくなれば病気は治ると考えられていたのです。このことは聖書の世界ばかりではなく、地球上の人々は心に思っていたことでもあります。日本でも祈祷師なる存在がいて、病気の人に対して祈りをささげます。それは病気の人に悪霊が宿っているとの考えです。祈りの力によって悪霊を追い出していたのです。それに対して、神を冒涜していると批判しますので、具体的に癒しの言葉を与えたのであります。罪が赦されると言うこと、私達は主イエス・キリストの十字架によって赦されました。それは昔のことではなく、今も、これからも十字架を仰ぎ見ることにより、罪が赦されているのであります。そこに平安な歩みが導かれて来るのです。罪が赦されているという確信こそ「癒しの原点」であります。
 イエス様にお願いして病気をいやしていただく時、そこに十字架の信仰が無ければなりません。十字架によって罪が赦された喜びが、癒しを導くのであります。ただ、病気をいやしてくださいと願うのではなく、十字架の赦しをまずいただくことです。そこには神の国に生きる喜び、永遠の神の国に導かれる喜びが一本の線で結ばれ、希望となって行くのであります。中風の人が、罪の赦しをいただいたとき、もはや癒されていたのであります。先祖、両親が、本人が罪人であるという縛りは無くなりました。そこに癒しがあるのです。
 この病気を癒してくださいとお祈りしても、神様は聞いてくれなかったと言い続けるのでしょうか。人間は永遠に死なないで生き続けるのではありません。病気が治ったとしても、いずれは死んでいくのであります。癒しを求めたならば、罪の赦しをいただき、永遠の神の国に生きる喜びを与えられることなのです。そこに力が与えられるのです。マタイによる福音書も、マルコによる福音書もこの癒しの出来事を見た人々は「神を賛美した」とルカと同じように記しています。しかし、ルカは「今日、驚くべきことを見た」と人々の言葉を記しています。今日、今、神様の救いを見たということであります。

十字架を仰ぎ見ること、そこに希望があり、新しい一歩があるのです。今は大学、高校の入学試験の時期です。この時期になるといつも示される一人の青年がおりました。21歳の若さで天に召されたのですが、十字架のイエス様をしっかりと仰ぎ見つつ天に召されていったと示されています。大塚平安教会に在任中ことです。一人の青年と出会いました。彼は大塚平安教会の幼稚園、ドレーパー記念幼稚園の卒業生であり、大学受験の浪人中でした。教会には出席していませんでしたが、ある日、牧師を訪ねて来たのです。受験勉強に疲れたので、何かお話しをしたいということでした。こうしてこの青年は時々牧師を訪ねるようになったのです。大学が受かったら教会に出席すると言っていました。そして、春になり、彼から大学に合格したと電話で連絡されました。ところが4月になっても礼拝には出席しないのです。それで家に電話して聞きましたら、腰痛で整形病院に入院しているというのでした。お見舞いに行きましたが、その後、腰痛が悪化して横浜市大病院に転院したということでした。彼は腰痛ではなく、腰に腫瘍があったのでした。結局、彼は下半身麻痺となり、車椅子の生活となりました。その後、彼は全身に腫瘍が転移し、天に召されていくのであります。彼は教会で洗礼を受けたかったのです。しかし、退院はできません。それで彼のお父さんが、自分も一緒に洗礼を受けるから、この病室で洗礼を受けようと勧めたのでした。5月 31日のペンテコステ礼拝の日であり、病院の病室で洗礼を受け、その一か月後の7月1日に天に召されたのでした。
今朝はこの彼のことをお話ししているのですが、これからお話しすることが彼の証しなのです。彼が天に召されたとき、「主よ、みもとに」と題して遺稿集を発行しました。しかし、その後、彼の日記として「仰ぎ見る十字架」と題して小冊子を発行しました。1980年12月19日の日記ですので、牧師を訪ねてきて間もなく記したのでしょう。「僕の夢」と題して記されていました。彼は夢の中に十字架のイエス様を見たというのです。その十字架のイエス様は優しい顔をしていて、光の中に包まれていたというのです。ここからは彼の日記そのものを紹介しておきます。「夢の話しはそれだけだが、けれどそれからまた考えると何か悪いことをすると、十字架のイエス様が見えるというか、十字架が頭に出てくる。冷たい、そして黒い十字架なのだ。とにかく、あのクリスマスの明るい白い十字架ではなくて、黒い重いそして木の十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩いた主イエス…。十字架のイエス様が頭の中をよぎるとき、『わかったかい』という神様の声が聞こえて来そうだ。」と十字架のイエス様が自分のためにゴルゴタの道を歩まれたと証しているのです。
 この時、彼は洗礼を受けてはいませんでしたが、十字架のイエス様をしっかりと見つめていたのです。そして、癌に侵されている自分というより、自分の罪をしっかりと認識して、イエス様と共に歩んだのでした。祝福のうちに永遠の命へと導かれたのです。自分の命乞いではなく、罪の赦し乞いこそ永遠の命への導きなのです。その道しるべが「健やかに導かれつつ」歩む、私達の人生であると示されているのです。
<祈祷>
聖なる神様。十字架のお導きにより、現実を神の国として歩ませてくださり感謝致します。この癒しの福音を人々に示させてください。主の御名によりささげます。アーメン。