説教「全身が輝いて」

2018年11月4日、六浦谷間の集会 
「降誕前第8主日

説教・「全身が輝いて」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記9章8-17節
    ローマの信徒への手紙5章12-21節
     ルカによる福音書11章33-41節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・482「なつかしくも」、
    (説教後)讃美歌54年版・521「イエスよ、こころに宿りて」


 今朝は召天者記念礼拝です。日本基督教団では「聖徒の日」(永眠者記念日)としています。今は天におられる皆さんを示される日であります。特に信仰をもって歩まれた皆さんを示され、その証しから私たちが励まされるのであります。
 前週、大塚平安教会の古屋紘子さんからお電話をいただき、小室きよみさんの母上様がご召天されたことのお知らせをいただきました。母上様は静岡県島田市に住んでおられました。94歳ということでした。もう随分と経ちますが、母上様のお連れ合いが召天されたとき、私は大塚平安教会の牧師でしたので、島田市で行われた葬儀には列席させていただきました。その時、母上様とお会いしています。その後、小室さんを通して母上様の様子をうかがっていました。私が大塚平安教会に在任中、多額の献金をおささげ下さったことを示されています。長い人生を主の御心の中に生きられたのです。天において神様の豊かな御祝福をお祈りしています。
 私は79歳になっており、来年は80歳になるのであり、自らの死ということを示されています。今は健康があたえられていますので、身辺整理をしながら過ごしています。この歳になっても幼稚園の園長を担っていますので、まだ神様が用いてくださっていることを感謝しているのです。前週の10月23日から25日まで日本基督教団の総会が開催されました。二年に一度開催されています。私は2002年からその総会書記として4期8年間務めました。総会では、逝去牧師の記念の礼拝がささげられます。二日目の朝に「逝去者記念礼拝」がささげられます。逝去者は日本基督教団の教師の人々であり、2年間に90名前後の皆さんが天に召されています。日本で伝道された宣教師の皆さんもおられます。これらの皆さんのお名前が読み上げられます。いわゆる牧師の皆さんであり、信徒の皆さんを覚えるとしたら、多くの皆さんの名簿が読まれることになります。教区によっては信徒の皆さんを覚えての記念礼拝をささげています。教団問安使として、いくつかの教区総会に出席した時、召天された信徒の皆さんのお名前が読み上げられていました。6月に開催された神奈川教区総会の開会礼拝の担当したことがあります。神奈川教区の開会礼拝は教団と同じように逝去された教師を記念する礼拝でもありました。それで、礼拝の説教の中で、神奈川教区においても信徒の皆さんを覚えての記念礼拝をすべきであると申し上げました。教師は教団総会で覚えられるからです。受け止められるとよいと思っています。
 今は横須賀上町教会の講壇に立つことはなくなりましたが、2010年から2016年まで、毎月一度ですが、横須賀上町教会の講壇に立たせていただいていました。この教会に行くたびに、ある一人の信仰者を覚えていました。その信仰者は石渡タキさんといわれ、実は私の叔母であります。私の家のすぐ近くに家がありました。娘が横浜の清水ヶ丘教会で信仰の導きが与えられ、教会員として歩んでいました。私の長姉が信仰に導かれるのも、この従姉の影響があったのです。長姉が信仰に導かれ、そして二番目の姉も清水ヶ丘教会に導かれるようになり、教会員としての歩みが導かれていました。そういう中で叔母も娘に導かれて清水ヶ丘教会に出席するようになり、洗礼を受けたのであります。清水ヶ丘教会は多くの教会員がいます。婦人会も壮年会も、青年会も高校生会も会員が多く、それぞれよいお交わりを重ねながら歩んでおりました。そのようなお交わりを喜びながら、叔母の石渡タキさんは横須賀上町教会に転会しました。清水ヶ丘教会の大勢の婦人会の皆さんとのお交わりを喜びながらも、自分の存在を顧みたのかもしれません。今までのいくつかの教会でも、そのような方がおられました。この教会にいても自分の働く場がないと思われるのです。もっと少人数の教会で奉仕したいと願われるのです。叔母もそのような思いであったと思います。当時の斎藤雄一牧師は清水ヶ丘教会の出身でありましたので、何回か出席しているうちに転会を決意されたのでしょう。その叔母が横須賀上町教会でどのような教会生活をされたかについては存じません。しかし、その後は教会員でありましたから、喜びつつ信仰の歩みをしていたと思います。
 その叔母が天に召された時、叔母の葬儀は仏教で行われました。息子夫婦と生活していたのです。私の姉たちを教会に結ぶきっかけを作った従姉、叔母の娘はアメリカ人と結婚してアメリカに在住しています。すべて息子の思いで葬儀が行われました。喪主として当然なのかもしれません。叔母が亡くなった時、私の姉が斎藤雄一先生に連絡を差し上げ、先生はすぐに石渡家を訪ねました。しかし、息子は牧師の訪問を喜びませんでした。葬儀は、本人が生きた信仰において行われるべきと思っています。その意味ではキリスト教の葬儀ではありませんでしたが、仏教で葬儀が行われたとしても、叔母の信仰に生きた証しはこの世に残されているのです。数年の間、横須賀上町教会の講壇に立つ導きを与えられ、石渡タキさんの信仰を示されたことを神様のお導きだと思っています。
 「わたしたちは主イエス・キリストを通して永遠の命へと導かれるのです」(ローマの信徒への手紙5章21節)と示されています。私たちは永遠の命へと導かれているのであり、現実を主の御心において歩みたいのであります。この世に生きる私たちは、永遠の生命を与えられており、その信仰において今を生きているのですから、全身が輝いているのです。いよいよ輝きながら歩みたいのです。

 旧約聖書はノアの洪水の物語です。神様の救済の示しであります。今朝の聖書は創世記9章ですが、洪水物語は6章から始まっているのです。地上には人が増え、増えた人々は次第に悪に染まり、常に悪いことばかりを心に思い計るようになってしまいました。そこで神様は、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われました。これは神話の世界ですから、神様のお心を人間的にあらわしているのです。しかし、神様はノアとその家族を顧みました。ノアとその家族は残し、後は滅ぼすことになったのであります。そのため、神様はノアに大きな箱舟を造ることをお命じになりました。箱舟の長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマの箱舟といいます。1アンマは約45㎝です。従って、長さ135m、幅22m、高さ13mと言うことになります。やはりかなり大きな船になります。箱舟ができあがりますと、すべての動物を一つがいずつ箱舟に入れ、そしてノアの家族が箱舟に入ります。ノアの家族はノアの妻と三人の息子たちでした。彼らが箱舟に入ると雨が降り出します。そして、水かさが増え、ついに箱舟が浮かびました。洪水となり、すべての生き物は死に絶えたのでした。水は150日の間、地上にあふれていました。しかし、次第に水が引きはじめ、乾いた地になりましので、ノアとその家族、動物たちは大地に降り立ったのであります。ノアは、まず神様に礼拝するために祭壇を築きました。そして家族と共に礼拝をささげたのであります。そこで神様から祝福の約束が与えられましたが、今朝の聖書になります。
 神様はノアと彼の息子たちに言いました。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と言われるのであります。そして神様がノアに交わした契約は、「わたしは雲の中にわたしの虹を置く」と言うことでした。つまり、虹が出ることは、神様が契約をお示しになっているということなのです。虹は恵みの雨の晴れ間にできる現象です。まさに神様のお恵みのしるしでもあります。お伽話のようですが、真理が示されているのです。
 こうして神様はノアを通して新しい人間を導きました。しかし、人間は相変わらず、思うことは悪い計りごとでありました。再び神様の審判があるとは新約聖書の時代になって示されて来るのです。すなわち終末信仰というものです。イエス様ご自身も終末の示しを与えておられるのです。「その日、その時は分からない。いつ終末を迎えても、神様の祝福をいただく歩みをしなさい」との示しをイエス様がくださっているのです。
 神様はノアを通して新しい人間を導いておられるのです。それは、今日においても新しい人間へと導いておられるのです。新しい人間は神様の御心を示されて生きるのです。時には現れる虹を見ては神様の御心を示されるのです。新しい人間は他者を受け止めて生きます。共に生きることが神様の御心なのです。互いにその存在を受け止めながら生きるということです。ノアの洪水、バベルの塔、ソドムの滅亡等、悪をお嫌いなさる神様の審判を聖書は証ししているのです。神様の御心をいただいて、「全身が輝いて」歩みたいのです。

 「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らす時のように、全身は輝いている」と主イエス・キリストが示しています。ルカによる福音書11章33節以下が今朝の聖書です。「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」とも言われています。私の中にある光とは神様の御心であります。創世記で示された原罪は、人間は克服できません。自分の思いではなく、神様の御心をいただくことで、自分の中に光がともされるのであります。
 37節以下で、イエス様はファリサイ派の人に食事を招待されました。イエス様が食事の席に着くと、招待した人は不審に思います。食事の前には身を清めるのですが、イエス様はそれをしなかったからです。不審に思っている人に、「外側をきれいにするのではなく、内側を清める」ことを教えられました。「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちはすべてのものが清くなる」と示されたのであります。人は目に見える外側のことばかりが気になります。本当に気にしなければならないのは、内なる姿であります。内なる姿は神様によって養われなければならないのです。
 結局、人間は神様の戒めを真に受け止めることができなかったのであります。内なる光も、いつも自己満足で消してしまうことになるのです。内なるものを導かれる神様の御心には従い得ない存在でありました。どうしても内なる光を持てない人間に対して、神様は主イエス・キリストをこの世に現しました。イエス様は神様の御心を示し、現実を神様の国として生きることを導かれたのです。それでも内なる光を持てない人間に対して、神様はイエス様を十字架にお掛けになりました。イエス様は当時の指導者たちの妬みにより、十字架にかけられてしまうのですが、神様はその十字架の救いを人間の原点にされたのであります。主イエス・キリストの十字架の死と共に、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。従って、私たちは十字架を仰ぎ見ることにより、内なる姿が明るくなっていくのであります。その救いを信じて洗礼を受けました。洗礼を受けると天使のように、いつも輝いているのかと言えば、そうではありません。いつも十字架を仰ぎ見つつ、内なる自己満足、他者排除と闘うのです。その信仰の生活を導くのが主の聖餐式なのです。イエス様の御体をいただくことで、十字架の救いを再び示され、内なる光を輝かすことができるのであります。

 イエス様を信じて歩む生は、光輝く人生なのです。私が神学校に入学したとき、当時の校長先生は金井為一郎先生でした。この先生から新約聖書の講義をいただいています。先生は、まさに光輝くお姿でした。先生にお会いすると、本当に全身が輝いているのです。何かホッとするような思いでいました。残念ながら、入学してから半年後、金井先生は召天されてしまうのです。わずか半年でしたが、金井先生との出会いは、信仰者の証しとして示されています。いつも神様に心を向けておられることで、神様の光をいただいているのです。
 使徒言行録にステファノの信仰が示されています。イエス様の十字架の死の後は、お弟子さんたちがイエス様の福音を人々に示しています。そこで原始教会が成立します。多くの人々が共に歩むようになるのです。そうするといろいろな問題が出てきます。生活上のことなのですが、お弟子さんたちがお世話をしていたのです。しかし、それでは伝道ができません。そこで7人の働き人が選ばれたのです。その一人がステファノでした。彼は生活の世話をするのが職務ですが、むしろイエス様の福音を人々に示したのです。当時のユダヤ教の社会にあって、反感を買うことになり、彼は人々に殺されてしまうのです。石打の刑でした。人々が石を自分に投げつけるのですが、彼は神様にお祈りしていました。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈りつつ眠りについたとされています。イエス様も十字架につけられながらも、人々の罪の赦しをお願いしています。まさにその姿は光り輝く姿でありましょう。
 キリスト教の聖画を見るとき、イエス様はもちろんですが、イエス様を信じる人々の頭は、光輝いている姿として、まるい光が描かれています。聖画を描く絵描きさんたちは、信仰者は光輝く姿として受け止めていたのです。まさに信仰者は光輝く姿です。いよいよイエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩むとき、光輝く存在へと導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架のお導きを感謝致します。十字架により、私たちの内なる光が輝き続ける様導いてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。